映画『ミッドナイト・イン・パリ』

 

 

アカデミー賞脚本賞作品。

脚本賞だけ?」と思わないこともないが、見ると納得する。

舞台はパリで、アメリカでそこそこ売れている脚本家のギルが、婚約者と共にパリにやってくる。ギルはパリが気に入ってしまって移住を婚約者・イネスに提案するも、イネスはそれを突っぱねる。

そんなギルは、毎晩深夜になるとやってくる古めかしい車に乗って、夜な夜な1920年代のパリへ赴く旅を繰り返すのだった。

この映画自体が、もうシュルレアリスムの具現化な感じがあるのだが、訪れる先もシュルレアリスムの時代で、いかにも難しい。

ただ、物書きとしてギルはこの時代を「黄金時代」だと認識していたことは確かで、ピカソなり、フィッツジェラルドなり、色々な「先人たち」が登場する。

日本でも『文豪ストレイドッグス』などがある。文学において、作者の姿勢から作品を分析することは、テクスト論到来まで普通だったろうし、現在でも国文学の古典文学研究などでは普通のことである。言わば「作者を通して作品を解釈する」という立場である。けれど、この映画なり、『文豪ストレイドッグス』がやっているのは、「作品を通して作者を解釈する」ということであって、それがどれほど妥当なのかは少し難しい。

結局この映画でも、そのあたりはかなり戯画的になる(あるいは好意的に表現すると「シュルレアリスム的に」)。

アカデミー賞脚本賞「しか」とれなかったのもその辺なのだろう。歴史上の人物は、多分実際の姿そっくりに造形されているのだが、言わば「モノマネ芸人」の具合が強くて、演技も上手とは言えない(というのが日本人でも分かる)。

ダリなんて、会ってもサイのことしか言わないのだが、そこまで戯画的になってしまうと、やっぱりコメディという感じがする。

戯画的、にせよ、シュルレアリスム、にせよ、この作品の特徴は主人公が脚本家であり、小説家志望であり、実際に彼が小説を書く過程が、映画の進行に寄り添って描かれる点である。

こうなるとすっかり困ってしまうのは、我々はこの主人公を信用できなくなるのである。つまり、この映画はもしかするとこの主人公の書いた小説の具現化なのかもしれない、だとか、やはり主人公は「芸術家特有に」おかしくなっていて、この映画もその一部なのかもしれない、だとか。

「芸術家」と「市民」の対立を描いた小説家に、お隣ドイツのトーマス・マンなんかがいるわけだが、『トニオ・クレーゲル』が「芸術家としてしか生きていけず、市民になりきれない諦念」をネガティブに描いたのと比べると、こちらはかなりポジティブだ。例えば、「あいつらぶっ飛んでるよ!」みたいな感じに。

信用ならない主人公は、尊敬する芸術家と会う。自作についてアドバイスをもらうことを躊躇っていた彼も、歴史上の偉人にはそれをためらわない。

この、過去賛美はパリ賛美と重なっておもむろに響く。殊に日本でもここ最近、「脱成長」といった見地から、「江戸時代に戻ろう」ととんでもないことを言いはじめる人たちが左側にいたりするし、「明治時代に戻ろう」と言う右側の人間はお馴染みだろう。そんな彼らに、ギルのセリフが響くはずだ。

“現在”って不満なものなんだ

それが人生だから

まさしくそうなんだと思うのだが、つまり、「あの輝かしい時代に戻ろう」的な言説は、「現在」だからこそ存立しうるのであって、「現在」から「過去」を回顧的に望んで価値付与を行うからそんな言説が生まれる。

この映画がまさにそうであるように、仮に我々が「江戸時代」なり「明治時代」なりに戻ったとして、我々はさらに古い時代に価値を見出すのだろう。我々はどこにたどり着くかと言えば、西洋風に言うところの「未開社会」である。原始共産制、ということでは理想的なのかもしれないけれど。

一方、輝かしい時代を未来に求める思想もあるだろう。手塚治虫以来のSFの系統などそうかもしれない。最近はその勢いが萎んできて、むしろ未来を描くときにはディストピアを描くのが普通、みたいになってきているが、その敗北主義は置いておいて、だから反動で過去賛美に向かっては意味がない。

余談だが、個人的には「存在した過去」なんていうものは認めるべきではないと思う。むしろ「過去は存在する」と現在形で過去を認めたほうが、ずっと楽になる。なぜなら、「存在した」なんていうと、現状は「存在しない」ものを考えなくてはならず、面倒臭いから。

と、考えると、この映画は、ギルが「存在する過去」に訪問するから面白い。彼は「現在にはないもの」に目を輝かせるのではなく、「過去にあるもの」に目を奪われる。これって、同じようで少し違うと思う。

何より、何よりパリという街は綺麗だし、パリという街の深夜にこれだけのファンタジーを見出すのも理解できる。そしてこの物語が、たったの90分少々にまとまっていて、大変心地よいのも、パリという街のおかげだろう。

これが東京であれば、街並みの変貌に驚いているだけで1時間くらい時間を要しそうだ。