アニメ「多田くんは恋をしない」

まず言えば、この作品は特段の名作ではない。むしろ既視感ある場面の連続と言っても過言ではなく、それを一種の間テクスト性と捉えるのは無理があるだろうし、同語反復となることを恐れずに言えば典型かつ王道のボーイ・ミーツ・ガールと言った具合か。

主人公らの通う高校は銀河大学付属恋ノ星高校で、こんなにふざけた名前をつけて、と一笑に付したくなるところではあるが、その他のキャラクターの名前は普通。

ボーイ・ミーツ・ガールの本作におけるボーイ、即ち主人公の多田光良は両親を事故で亡くしているという点以外では普通。

親が死んでいる、と言えば例えば「orange」の成瀬翔だとかが思いつくところだが、成瀬翔において親の死が重要な意味を持っていたのと比べると、本作ではかなりそれは消化されている。

もちろん親の死とどう向き合うか、だとか、その心境をヒロインのテレサワーグナーに吐露するシーンはあるんだけれど、それはある意味で「打ち解けたこと」と表現するためのツールに過ぎない。

このアニメのタイトルはかなり疑問で、例えば多田くんが恋愛に興味がない、というような描写はほどんどない。寡黙で実直な性格なのはよく分かるのだが、だからそれが「恋をしない」とどう結びつくのかはよく分からない。

であるとするならばやはり雨と絡ませたタイトルが良かったのだろうと思う。

ヒロインのテレサは日本の時代劇「れいん坊将軍」を好きで、その劇中のセリフ「いつも心は虹色に」をよく放つ。

さてこの虹というのが一種重要な機能を持つ。というのはやっぱり虹の前には雨が降るというところ。世の中のアニメ全て見たわけではないから何とも言えないが、この「雨」というのには概ね「接続」という機能があると見て良いだろうと思う。

ちなみに似たところで言えば「雪」は「閉鎖」と言ったところか。

本作において誰かが自殺したのは学校祭の季節であるし、『ソロモンの偽証』で柏木卓也が自殺したのは冬。これは一致しないが、しかし本作において生徒たちが学校に閉じ込められたのは冬である。つまり冬には独特の雰囲気があるらしい。

辻村深月『冷たい校舎の時は止まる』 - ダラクロク

 「雨」が「接続」の機能を果たす例としては「アオハライド」を思い出しておけば良かろう。

アオハライド」と言えばかくれんぼか何かの最中に雨を神社の軒下でやり過ごす、というような話があって、また、そのイラストも使われていた。

おそらく「晴れ」の「開放性」と反対に、「雨」は雨宿りを媒介にして「接続」の機能を果たし、「雪」はそのシンと静まり返った雰囲気から「閉鎖」の機能を持つ。

似た機能を持つものとしては映画『君の名は。』における電車が、周囲の空間から断絶され別の空間へと接続するところから「断絶」と「接続」の意味を持たされていたと思うのだが、「雨」には「接続」の意味合いしかない。

そこからしても「雨」なるものの下でまさにボーイ・ミーツ・ガールするというのは意味合いがあるように思われる。

さて「雨」で「接続」された二人が、その後どうなるのか。即ち、雨が止んだ後に「虹」が出るようなことはあり得るのかという話になる。

その障害として立ちはだかるのは、ヒロインがラルセンブルクのお姫様らしいというところ。これに関しては序盤から示唆されているのでネタバレにはならないだろうと思う。

このアニメは必ずしも女性向けじゃない、というところなんだろうから意図したわけじゃないんだろうけれど、「オオカミ少女と黒王子」みたいに所謂学園一のイケメンを「王子」と呼んで憚らない風潮に対する皮肉を感じないではない。こちらは本物の「お姫様」ですよ、と。

この格差というのは、実際かなり心地よい。しばらく前のドラマで「やまとなでしこ」というようなものがあったけれど、あれに似たような? いや、よくよく考えてみると似てない。むしろ「セレブと貧乏太郎」──いや、違うな。と考えると、この作品の特異性が分かる。

なぜこの格差が心地よいかというと、やはりここ数年の恋愛ものは「男が女を選択する」あるいは「女が男に選択される」という物語であったからだろうと思う。その辺を廃したものとしては「逃げるは恥だが役に立つ」なんかがあるわけで、やっぱり、あのドラマの人気を見ると、やっぱり「選択」を基軸にした恋愛ものの時代は終わったんじゃないかと思う。*1

多田光良がテレサを「選択」したとしても、それだけでは全く意味をなさない。つまり、「選択」だけではそれが意味をなさないようにこの身分差が機能している。

恋愛ものが恋愛ものたる所以、即ちいかにそれが現実離れしているかというところを、ヒロインがラルセンブルクのお姫様であることが担保しつつ、「選択」という一方性を機能停止に陥らせている。

ヒロインが外国人、なおかつヨーロッパの、しかもルクセンブルクを思わせるラルセンブルクなる国のお姫様、という点で、と考えると、一種のパリ症候群的なものを感じないではない。

けれどそれによって固定された関係性はある種この作品を王道であって王道ではなくしている。

畢竟この作品は、王道であるようであって王道ではない。どこかで見慣れた場面の連続は、それ自体が過去の恋愛ものへのアンチテーゼとして機能している。と、思う。

*1:火曜ドラマで言えば「あなたのことはそれほど」は、その「選択」の破綻を描き、「カルテット」は、その「選択」の認知されない恣意性から「選択」の確からしさを揺るがしている。