北条裕子「美しい顔」を擁護する。

感想を書いた記事を2つほど上げましたら、その作品が芥川賞候補になるわ、盗作疑惑が出るわで大変です。

アクセス数がグッと増えてしまって、中身のない記事を晒されていて、恥ずかしい気もするわけですが。

盗作疑惑を「世に問う」らしく世間に公開されるそうですが、残念でなりません。これぞまさに「消費される」という感じがするからです。

そのうえでおそらく芥川賞受賞はないと思われますが。(あったらまたしても恥ずかしい)

 

さて「擁護する」とは誤解を招きそうですが、別にこの盗作疑惑を擁護するわけではありません。

この作品を書いた本人、北条裕子氏は地震を東京で「消費する」側の人間であり、それを7年経った今、「生産する」側に回ったのだというコンテクストは忘れてはならないと思います。

その際、取材をしたり、調査をしたりするのは普通のことでしょう。それについて「参考文献を記し忘れた」というのは、擁護できないでしょう。作者・北条裕子氏本人、並びに『群像』編集者たちにも、落ち度があると思います。

一方で、私は以下の2点に反論する必要を感じています。

  1. 北条裕子氏には実際には実力がない。モデルをしていたりするなど、単に名前を売り出したいから地震をテーマにとっただけだ。
  2. 大震災は特別な事象であるから、取材・調査で誰かが簡単に触れて良い素材ではない。

 

まず、1「北条裕子氏には実際には実力がない。モデルをしていたりするなど、単に名前を売り出したいから地震をテーマにとっただけだ。」についてですが、これは言うまでもありません。

文学を著す、ということについて、基本的には全ての人に門戸が開かれているはずです。というか文学は、あくまで思想の表出であって、それを「書いていい」「書いてはいけない」と判断するのはおかしなことですし、ましてやそれが「モデルをしていたから」だとかで評価されるのは間違っている。

更に、彼女自身の顔について、北条裕子氏本人が自分の顔が「美しい顔」であるという自覚があることは、もうほとんど間違いないでしょうが、それは石原千秋氏が指摘した通り、もう一種のパラテクストとも捉えられる。詳しくは記事に書いてあります。

「実際には実力がない」というのは、残念ながら同意せざるを得ません。物語の構造をとっても、地震に触れた辺りの──つまり「参考文献」がある辺りの──描写は迫力がありますが、その後、弟との海辺のシーンは「陳腐」と表現されてもおかしくないと思います。

ただしそれは、すでに群像新人賞を獲った、ということで、ある程度保証されているでしょうし、本当に実力が無いのであれば、自然に発表の機会を失うに違いありません。

 

次に、2「大震災は特別な事象であるから、取材・調査で誰かが簡単に触れて良い素材ではない。」

これに関しては、徹底的に反論しなくてはなりません。

まず、「美しい人」の持つ意味とは、少なくとも2つあります。

  1. 震災を消費してきた人々の姿を、消費される側の視点から暴くこと。
  2. 震災を消費してきた人々が「こうあってほしい」と思う被災者の姿を提示すること。

第一については、記事でも取り上げました。つまりこの短編は、震災を「希望」などといった陳腐な文句に転換し「消費」した人々の姿を、「消費」された側の人々の姿から描き、最終的には「希望」の前に「負ける」しかないことを提示するのです。

これは「敗北宣告」と表現できると思いますが、一方でこの小説自体も、また震災を「消費」しているのだという事実に、読者は向き合わざるを得ません。

そしてそのことは震災を経験していない人間にしかできません。なぜなら「消費」してきた人々しか「消費」を終わらせられないから。被災者の人々が同じ小説を書いたとしても、学級委員長が「ねえちょっとそこの男子、ちゃんとやってよ」と言うくらいの意味しか持たない。そういうときには男子の誰かが「手伝ってやろうぜ」と一言言えば事態が動くものです。

第二について、記事では一瞬だけ取り上げました。

〈私〉に北条裕子氏は投影されているだろう。しかしそれは「投影しない」という形で「投影されている」かもしれない。もしかするとこの作品は、震災に対して「傍観者」でしかあり得なかった彼女自身が「被災者」の絶望を期待しているのかもしれない。そしてその彼女には石原千秋曰く「美しい顔」が与えられている。

北条裕子「美しい顔」 - ダラクロク

 つまりこの小説の主人公には明らかに北条裕子氏本人が投影されている、そのうえで、「被災者にはこうあってほしい」という願望が投影されている。

それはなぜか? やはり北条裕子氏本人が、震災を「消費」したからです。しかしその震災の全てを「消費」できたわけではない。

震災はあまりに残酷で、あのとき傍観者だった人々は、まだその全てを「消費」できてはいません。2万を超える死者が出たのだから、当然と言えば当然でしょう。挙句の果てに原発事故。その全てを「消費」できず、私たちはその中から「悲劇」になりそうな部分と、「希望」になりそうな部分だけを切り取って「消費」しました。

しかし一方我々はその「消費」できなかった部分に戦々恐々としている。どんなに恐ろしい「何か」がそこに潜んでいる。それはもしかしたら心理学的に無意識とされる部分にかこつけ、不気味な響きを持つ「it」と呼ぶより他に無いのかもしれませんが、「何か」がそこにある。

その「何か」が、本当はこんな風だったらいいのに、被災者の人々も心の中では意図的に傍観者に「ショー」を提供しているのであればいいのに、というのは、きっとあのとき傍観者だった全ての人が、心のどこかで祈っていることです。

だからこそ、それを具現化した小説は、あの時震災を「消費」した人にしかできない。

もちろん、批判を呼ぶでしょうし、被災者が小説を書くことも妨げられるべきではない。しかし一方、傍観者がいかに傍観し、そしてその限界はどこにあるのかを示した本作は、「作者が被災者ではないから」という理由で評価を下げられてはならないのです。

 

以上の理由より、この作品は、確かに参考文献を示さなかったことには問題があるし、一種の剽窃ととられかねない表現があるものの、しかしそれこそが震災を「消費」してきた傍観者の態度なのだと考えると、意味があるように思われます。

だからこそ、この作品の評価は簡単に下げられるべきではないのです。