文学部病について

どういうわけかトレンド入りまでしてしまった「古典は本当に必要なのか」というイベントのYouTubeの中継を、一応一通り見て、思うところがあり、ただそれは結局「文学部病」の話なんじゃないかと思ったので、メモがてらさしあたり。

まず、「古典は本当に必要なのか」については、次のような答えを提示しておきたい。

否定文が続いたのは、肯定文を使った積極的な意見を主張できないからなんでしょうね。

1.古典は必要ではない

そもそも「古典は本当に必要なのか」と聞かれたときに、「必要だ」と感情的になるのは得策じゃない。だって「必要ない」と感じている人がいるのに、「必要だ」と言ったって水掛け論になるばかりだし。

さしあたり「確かに必要ないかもしれないね」というくらいの譲歩は見せるべきで、その上で、それでも古典を勉強する必要性というのを考えていくべきなのだ。

2.古典は情緒を学ぶためにあるのではない

よく言われるのは、「古典を学ぶと情感豊かな人間になる」だとかいう話。

それはまあ、無いでしょう。

時枝誠記という有名な学者が、「古典を現代風に解釈するような古典抹殺論はナンセンス」みたいなことを言っていて、それは正しくそのとおり。

古典からエッセンスを取り出して、立派な人間になりましょう。いや、だって世の中のサイコパスだって殺人鬼だって、みんな古典を勉強しているわけです。それでもやべえ奴はいるし、どう考えても国語の授業を思い返したとき、あれを学んでないと人を殺してたな、というようなことはないでしょ。

「情緒」を学ぶだなんていう情操教育は、せいぜい小学生くらいのときまでにやっておくべきなのであって、例えば村田沙耶香コンビニ人間』は社会に共感できない人間の問題を描いたんだけれど、それでもなお「共感しろ」と言うような教育が古典に求められているなら、そんな古典はやはり滅びるべきです。

3.古典は日本人のルーツを辿るために学ぶのではない

じゃあなんで古典を学ぶのかしら、っていうと、「日本人のルーツを学ぶため」みたいな立派な回答が返ってくるわけだけれど、それはまあ無いです。

というのも、江戸時代でさえ世の中の八割は百姓。識字率なんて五割あったか知れない。つまり大多数はそうした文学作品に触れずに過ごしていたのに、その子孫が「古典に触れれば先祖のことが分かる」などというのも、先祖からしてもびっくりだろう。だって先祖も多分『源氏物語』だなんて読んでないですよ。

4.古典は有用性のために学ぶのではない

このイベント、というかシンポジウムで、古典反対派のセリフは「有用性」みたいなことを言うんだけれど、はっきりいって古典に有用性なんてない。

そりゃもちろん、古典の知識が教養としてあれば、それを下敷きにしたような作品を楽しめるだろうし、ジョークだって飛ばせるんだろうが、ただそれを「有用」と言うのはどう考えても無理。

彼らが言う「有用」とは、就職に使えるとか、仕事に役立つとか、そういう話をしているのであって、会社のプレゼン中に『徒然草』の話なんて始めた暁には、ですよ。

5.学校は有用性のためにあるのではない

さあて、じゃあ学校から古典を排除すれば、だなんていうのはおかしい。

だって学校って有用性のためにあるんですか?

そりゃ学校っていうのは、近代国家=国民国家のために、つまり国民製造機としてあるんだけれど、これから先もそれでいいんですか、っていう話。

高校の授業が、一日六時間(うちの高校は七時間だったのだが)、週五日あるとしても週三十時間。これを全部「有用性」のために費やすというのは、いくらなんでもちょっと怖すぎないですか。

朝の八時に学校に来て、夕方五時に帰るまでの間、ずっと「有用」なことを仕込まれているっていうのは、もう軽いホラーです。

だとしたら「必要ないかもしれないけれど、無駄じゃないよね」みたいな要素が、一種オアシスとして紛れ込まされていてもいいだろうし、というか、そっちのほうが健全なんじゃなかろうか。

6.有用性は絶対のものではない

これは古典擁護派がよく言うことなので、もう実は手垢が付いているんだけれど、そういう「有用」という概念は、実はあっさり「不要」になってしまったりする。

例えば、そろばんの技術だなんてのは電卓にとってかわられ、今や電卓がなくてもExcelがあればいいんだから、今更そろばんの技術を習ったって意味がないわけです。

その点古典というのは、一応長い時間みんなが「なるほどこりゃ面白い」と言い続けてきたわけだから、ある瞬間価値がなくなる、ということはない。その点で、「有用性」の脆弱性、みたいなものを「古典」というのは補完しうるわけです。

もちろんこの辺はなんだか反論が多そうなので、あえて深くは突っ込まない方針で。

7.本は幸福になるために読むのではない

このイベントの二番目あたりの質問者が、「幸福」という観点から古典教育の必要性を問うたんだけれど、いやいや「幸福」というのはそんなに大切ですか、とは思います。

そもそも本を読んだら幸福になりますか、というと、なりません。

ベルンハルト・シュリンク『朗読者』というのは、文盲の女性が、文盲であるが故に職場に居続けられなくて、ナチスに勤めた、という話。戦後彼女は裁判で裁かれることになるんだけれど、刑務所の中で文字を覚えて、ホロコーストに関する本を読んで、自分の犯したことへの罪の意識を覚えて自殺してしまう、という話。

つまり、彼女は文字なんか覚えず、本なんか読まないほうが、ずっと幸福だったわけです。世の中にはそういうのがままあって、つまり「知らない方が幸せ」ということは結構多い。

そういうのを「知っている」人間からすると、「あの程度で幸福だなんて《幸せ》な人だわ」と皮肉るんだけれど、つまり「本を読む」というのは、「自分が幸福ではない」ということに気が付くために読むのではないですか。

つまり、「幸福ではない」ということに気が付ける「幸福さ」というのに目を向けるべきで、そのために本を読むんです。

だから「古典は本当に必要なのか」に対して、「幸福になるため」と答えるのは全くナンセンスで、むしろ高校生活を通して「自分は幸福ではないのだ」と気がついて、そのことにきっちりと悩むための素材を提供する必要があるんでしょう。

それができないとどうなるか、というと、ある瞬間、自分の幸福が崩壊した瞬間、もう死ぬしかない、というようなことになるわけです。

8.文学部は優越感に浸るべきではない

と、こういうことを文学部は考えるべきです。

「無駄なものからこそ文化は生まれる」だとか、「不要」で「無用」なものこそ尊いのだ、というような考え方にたどり着いて悦に入る。でもそれって、ますます社会との距離感を広げるだけなわけです。

これを「文学部病」と呼びたいわけですが、でも社会は「必要」を求めているわけです。そんなときにドヤ顔して「君たちには分からないんだろうね、ハハッ」なんていうのはバカバカしい話で、もうちょっと理解しあうための努力をするべき。

文学部の優越感というか、教養エリート意識みたいなものは、窮地に立たされた人々の打開の策で、国際競争力が落ちた日本にだってトイレがある! みたいな話をしているのと、もうほとんど同じなんだろうと思います。

だから文学部はさしあたりこの「文学部病」を克服するところから……まあ完治は無理なので、それを自覚するところから始めるべきだと思います。

以上。