『orange』色の後悔はなぜ恋愛漫画になるのか。

高野苺さんによる『orange』という漫画があります。数年前に相次いでアニメ化、実写映画化されたこともあり、それほど知名度が低い作品ではないと思います。

作品の骨子はこのようです。

高宮菜穂、須和弘人、村坂あずさ、茅野貴子、萩田朔らの通う長野県松本市の高校に、成瀬翔という転校生がやってきます。しかし実はその日の朝、菜穂は自分からの手紙が届いていて、その中には10年後の未来からのメッセージが託されていました。この成瀬翔が自殺してしまうので、それを止めてほしいというのです。菜穂は手紙の内容が本当であると確信すると、翔の自殺を止めるために奮闘します。

「10年後の未来からの手紙」と言うと、その途端、ある種のゲーム的リアリズムを想定なさる方もいるかもしれません。確かに、10年後のシーンが描かれることで、「その未来を避ける選択をする」という意味でのゲーム的リアリズムが存立するようにも思えます。

ただし決定的に違うのは、パラレルワールドという世界が導入されることで、手紙を出した10年後の自分たちの未来は変わらない宿命の元で、別のパラレルワールドを選択する、という形式をとることで、所謂タイムリープ的な「何度も繰り返す」的な性質を免れていることです。

と言うと、『シュタインズ・ゲートSTEINS;GATE)』は違うのか、という話になりそうですが、あの作品では岡部倫太郎にリーディングシュタイナーという能力が付与されることで、岡部倫太郎自身が自覚的に未来を選択できる。一方『orange』で手紙を出した10年後の登場人物たちは、その結果を確かめようがないため、一種投げっぱなし、ということになります。*1

さて、そうなるとこの物語は「成瀬翔を自殺させるな」というのが命題になってしまって、恋愛漫画ではなくなるように思えます。しかもそこに未来からの手紙が届くのですから、その命題は誤ることがないようにすら思えるのです。

しかし実際には、この漫画は十分恋愛漫画であり(もちろんそれと同時に青春漫画でもあるとしても)、この手紙はそれほど絶対的にはなりません。その点について、少し体系的に書いてみよう、というのが今回の目論見です。

 

 

まずこの物語における危うさから書き始めたいと思います。それは大きく二つあって、一つ目が「情報の非対称性」であり、二つ目が「テアゲル的関係」です。

一つ目の「情報の非対称性」というのは、未来からの手紙のことを指します。つまり主だった登場人物6人の中で、翔を除く5人は、翔が自殺する、という未来を知っていて、翔だけがそれを知らない、ということになるのです。

このような「情報の非対称性」は一般に上下関係を固定させます。具体的に言えば、診察室における医者と患者の関係は、医者は患者よりも医学的な知識を持っており、検査などを経ると患者以上に患者の身体に詳しくなる、という情報の非対称性がもたらした上下関係です。教室における教師と生徒の関係も、例えば教師が「この計算の答えは?」と聞いた時、生徒は一生懸命計算するけれど、教師はその答えを知っている、という情報の非対称性がまさしく「先に生まれた」者としての教師と、生徒の上下関係を固定させているのです。

となると、翔と他の5人の間に上下関係が固定されてしまいかねない。例では「診察室における」「教室における」と空間を固定しましたが、実は本作も無意図的にだとは思いますが「長野県松本市」という空間が固定されることで、ますます上下関係の固定に拍車がかかっています。

二つ目が、「テアゲル的関係」です。そもそもこの物語は「翔を助け〈テアゲル〉」という物語であって、実はこの時点で上下関係が固定されてしまっているのです。

一種のパターナリズム、と思われるかもしれませんが、そこまで言う必要はないだろうと思います。よりライトなニュアンスで、「テアゲル的」程度の呼称で問題ないと思います。

その好例が、作中における「応援」という言葉です。一般的にここ最近の少女漫画では、恋愛における「応援するね」といったようなセリフは忌避されてきました。「応援」というのがあまりに抽象的で、意味を感じられないからで、なおかつ二人の恋愛関係の間に余所者が我が物顔して入ってくる、という不愉快さがあるからです。

しかし、あずさと貴子は「菜穂を応援する」とか「須和のことも応援する」と言ったような言葉遣いをします。これは正しく「応援し〈テアゲル〉」のであって、そこにも上下関係が固定されるように思われるのです。

 

 

「情報の非対称性」「テアゲル的関係」によって、上下関係が固定されているように見えながら、それが上手く恋愛漫画として消化=昇華されているのは、おそらく二つの原因があるだろうと思います。

一つが「手紙が10年後からのものであること」であり、もう一つが「惚れた弱み」です。

「手紙が10年後からのものであること」というのは、この手紙が多くの「後悔」をした10年後の登場人物たちが手紙を出したのであって、今の登場人物たちには本質的に作用しない、という点です。

より簡単に言えば、上下関係が固定されるのは、今の翔と10年後のその他5人なのであって、今の5人は10年後の自分たちの指示の通りに動いているに過ぎない、ということです。

次第にその手紙から逸脱した行動をとり始めるようになりますが、それはその手紙があるパラレルワールドでの10年後の自分たちからの手紙であって、別のパラレルワールドを選択する上で、必ずしもそれが模範解答には思われないからです。

手紙から離れて翔を救おうとする登場人物たちは、もはや「情報の非対称性」を抱えた存在ではなく、同じ高さに立っているのではないか、ということです。

「惚れた弱み」というのは、タイトルに本質的にかかわりますが、この上下関係の固定というものを崩す一番の要因が「菜穂は翔に惚れてしまっている」という点であり、この時点で実際には菜穂<翔という関係が固定されそうなものです。しかしそれが手紙の存在や「テアゲル的関係」によって、かろうじて同じ高さに保たれている、だからこそ、この漫画は恋愛漫画として成立したのではないでしょうか。

 

 

ゲーム的リアリズムの作品は、枚挙にいとまがないだろうと思いますが『シュタインズ・ゲート』や『魔法少女まどか☆マギカ』といった「繰り返して最良を選択する」といったものとは本質的に異なります。

シュタインズ・ゲート』における岡部倫太郎は、何も知らないまま、繰り返してシュタインズ・ゲートという仮想のパラレルワールドを選択しようと試み、『魔法少女まどか☆マギカ』では暁美ほむらがまどかの死なない仮定の世界を選択しようと試みる。しかしそれはあえなく失敗し、そのいずれでもない世界に後付的に最良を見出す。

しかし本作でのゴールは明確に定められている。「翔を救うこと」です。そんな世界があり得るのか、と思われるかもしれませんが、実はそこに直接辿り着こうとしているのではなくて、自分たちの「後悔」をなくしたい、というのが手紙には仮託されているのです。

有体に言ってしまえば、「自分たちの『後悔』をなくすことができたら、翔がやはり自殺を選んでも仕方がない」という雰囲気さえ漂うのです。(もちろん手紙にはそんなことは書かれていません)

「後悔」から生まれる「責任感」が登場人物たちを翔を救うことへと向かわせます。固定されてしまいがちな上下関係を、恋愛関係で廃し*2、下品な言い方をすれば「タイマン」とでも言うべき必死さがあるからこそ、この物語は、共感できるはずがないのに共感者を集めるのではないでしょうか。

*1:実際、彼らは10年前に手紙が届いたのかすら認識しておらず、自分たちの後悔を薄めるために、一縷の希望に託して手紙を出している。

*2:逆に言えば、一般の恋愛漫画では「惚れた弱み」をヒロインに付すことによって、上下関係が固定されているとも言える。これは「男同士の絆」に対する女性に「選択されたい」という願望にも受け取られ、愉快な構造ではない。