冷笑と糾弾の限界

先日辻村深月の『凍りのくじら』を読みました。

凍りのくじら (講談社文庫)

凍りのくじら (講談社文庫)

 

実はここ数ヶ月、辻村深月作品を初期から順番に読んでいこうというのをやっています。それでやっと『凍りのくじら』だと言うのだから、その進捗が芳しくないらしいということはお察しいただけるだろうと思います。

私がこの小説を読みながら、直ちに思い出したのは朝井リョウの『何者』でした。朝井リョウに関しては、ほとんど同時代的に追ってきたという自負があって、私の好きな作家の一人でもあります。

何者 (新潮文庫)

何者 (新潮文庫)

 

何で思い出したのか、と思われるかもしれません。何より『凍りのくじら』の主人公は芦沢理帆子という女子高生で、『何者』は二宮拓人という男子大学生です。

前者の方は父がおらず、母が入院しているということ以外には基本的に普通です。何よりの特徴は、この作品は冒頭でおそらく理帆子らしい女性が父と同じく写真家としてインタビューを受けているシーンがあることで、この物語の結末に一応の安心感がある、ということでしょうか。危うさがない、と言い換えることもできます。そこでこの物語の主軸は、どうやらその理帆子が撮影したらしい写真の被写体になった男性は誰なのか、という方に推移するということになります。

後者の方は、就活生たちを描いた物語で、確かに飛び抜けたアクシデントではないのだけれども、ただの日常というよりかは「就活という日常」を描いた、という感じがある。就活を通して自分を考え、自分が分からなくなる、いわば実存の問題にぶつかるというような点は『桐島、部活辞めるってよ』などにも見られる傾向です。

さて、そこに共通しているのは何かというと、主人公が両者とも「冷笑的」であるという点です。

なぜか周囲よりも一段高いところにいるように振る舞い、そしてそれを俯瞰して「冷笑的」に批評を下す。もちろんどちらの主人公も、それを明らかにしてしまえば周囲から嫌われるに決まっていますから一応はそれを隠します。

どう隠すかというと『凍りのくじら』の理帆子は周囲の人物に「SF」になぞらえた評価を下すのだけれども、それは絶対に漏らさない。『何者』は「何者」というアカウント名のTwitterで周囲への批評を呟く。

では問題はこう推移していきます。つまり、「他人に批評を下すことなんてできるのか」ということです。

より感情的に言えば、「偉そうにしちゃって、あんたってそんなに偉いの? 本当はみんなと同じだし、もしかしたらもっとがむしゃらに頑張ってる他の人の方が偉いんじゃないの?」ということになります。実際、これに似たようなことを『何者』の二宮拓人は向けられることになります。「糾弾」です。

『何者』が直木賞受賞作にまでなったのは、そして映画化され、多くの人の目に、あらゆる形で触れるようになったのは、この「糾弾」が現代においては多くの人に当てはまってしまうからなのではないかと思います。

本質的に人間は他者に批評を下すことなどできない、その不可能性は今に始まった問題ではありません。例えば夏目漱石は人間社会を批評するときに『吾輩は猫である』という作品では「猫」が人間を批評するというあべこべの関係が面白い作品になっている。本質的な仕組みはバフチンの言うカーニバルと同じです。

吾輩は猫である (新潮文庫)

吾輩は猫である (新潮文庫)

 

けれど現在ではそれができるようになってしまった。できる、というのは能力的に、ということではなく、状況的に、という意味です。つまり本当は他者を批評することなんてあってはいけないのだけれど、現代人はそれをしてしまうし、それができる状況が整えられてしまった。それがインターネットではないかと思います。

引きこもり、などが社会問題になっていた全盛からは既に時代を重ねていますが、インターネットに掲示板というコミュニティなどができるようになると、そこに入り浸る人は、インターネット外のいわば「俗世」から離脱し、一種仙人のように振る舞う。そして下界のことに対して、軽く馬鹿にしながら批評を加えていく。もちろんそこには、一般にそうした人々が「オタク」などと呼ばれて蔑まれてきたことへのルサンチマンがあるのでしょう。この「軽く馬鹿にしながら」というのが「冷笑的」という点に繋がっていく。

少し脱線すると、これが特に顕著に現れたのが、ネトウヨ界隈ということになります。インターネットの世界を上位に、それ以外の「俗世」を下位に置いた「冷笑的」世界観は、そのまま拡張され、日本を上位に、特定アジア(中国・韓国・北朝鮮)を下位に置いた形へと到達します。そしてそうした国々に対して、偉そうな批評を下すのです。

現在では少しネトウヨのあり方も変わってきて、小馬鹿にした感じの「冷笑的」批評が、なんだか感情的なものになってきている感も否めません。その背景には、フジテレビの前でのデモの一応の成功があり、朝日新聞に所謂慰安婦問題での誤報を認めさせたという自負があったからでしょう。

さて、この「冷笑的」批評は、インターネットの拡充とともに日の目をみることになった、のではないでしょうか。さやわかなどがネットから登場したように(さやわかが「冷笑的」な批評家だと言いたいのではなくて)、ネットでは大学教授や「批評家」のような人でなくても、ある程度言説を多くの人のもとへ届けることができるようになった。これも更に「冷笑的」な素振りを広めることになった一端でしょう。

ここでもう少しだけ脱線を許していただけるのであれば、ゆとり教育との関わりを考えたいところです。ゆとり教育の本質がなんだったのか、を考えた人は山のようにいるでしょうが、例えば「総合的な学習の時間」などに代表されるように「何でもできる」時間が重視されたり、あるいはテストで測るようなものではない学力にも目が向けられるようになった。そうなるとそういうのをどう測るのかというと、例えば「感想」を書かせたりするのです。

ですから私は「ゆとり教育の本質とは」と訊かれるようなことがあれば「感想を書くこと」と答えようと思っています。それほど山ほど感想を書かされるのです。

しかし考えてみると、小学5年生や6年生になると、大体学校の先生の好みというのがわかってくる。どういう子が先生の寵愛を受けられて、どうだとダメなのかがわかってくる。そうするとそうした「感想」も先生に媚びたものになっていくわけです。ではどうやれば媚びた感想が書けるのか。いくつかの定型句を挿入することはもちろん、何より、自己・対象・教師を客観的に見て、メタ的に分析することです。

例えば、SNSの利用法についての授業を受けたとします。その場合、自らがどれだけSNSと関わりあっているのかをメタ的に確認します。次に「SNSの利用法」というテーマから、当然そこで伝えたいのは「SNSは注意を払って利用する」ということなわけですから、自分の意見がそれとは違っても、その内容が入っていなくてはいけません。最後に教師はどう書けば喜ぶのかによって、その程度が変わります。お年寄りで、インターネットに必要以上の警戒感を抱いているタイプであれば「SNSはやめようと思った」と書けばいいかもしれないし、若い先生であれば「SNSには鍵をつけて、投稿の前にもう一度確認してから云々」と書けばいいかもしれません。

こうしてゆとり教育が育成したのは、豊かな人間力を持った人間でも何でもなくて、サービス精神旺盛な、あるいは道化を演じられるような「冷笑的」な批評家なわけです。

ここでやっと『凍りのくじら』に話を戻しましょう。

理帆子は批評家です。周囲の人々に対して「SF」というアルファベットから批評を下す。一般に「SF」といえば「Science Fiction」なのですが、ここでは理帆子が好きで、なおかつ父も好きだった藤子・F・不二雄がそれを「Sukoshi Fushigina(少し・不思議な)」としたことにかこつけたものです。

つまり理帆子は自らで「冷笑的」に批評しているようでいながら、実際には藤子・F・不二雄や、彼の著作である『ドラえもん』というオーソリティを参照する形で批評を下す。いわば虎の威を借る狐、のように見えます。

ここが読んでいて「痛い」箇所です。つまり、彼女は他者に対してたった2語で批評を下す。しかもそのうち1語は「Sukoshi(少し)」と決まっているので、実質的には「F」から始まる1語です。

彼女は観察者として得意になって内心そうやって他人を評価するのだけれど、その背景には藤子・F・不二雄がいる。

彼女が自分自身に下した評価は、と言えば「少し・不在」でした。どこにいてもそれが自分の場所だとは感じられない、というのがその理由だそうですが、何とも自己陶酔に満ちてはいないでしょうか。一匹狼で寂しい私、という自己陶酔からは、確かな自己肯定感が読み取れます。

その発露が、彼女の元彼・若尾大紀です。彼女が若尾に対して下した評価というのは当初は「少し・不自由」でした。立派な夢を抱くのだけれど、それを実行に移すようなことはできない。思想家ではあるけれど活動家ではない、といった具合でしょうか。

そんな彼は別れてからも理帆子に連絡を取ってくる。周囲は縁を切るよう言いますが、理帆子にはそれができません。なぜなら理帆子の批評では、若尾はストーカーになったり、暴走したりすることができない人間、ということになっているからです。

結論から言えば、彼はストーカーになるし、理帆子の好意を奪っていると感じられた松永郁也という小学4年生の少年を拉致することになります。つまり、理帆子の批評を裏切る形で、彼は行動できてしまうのです。

ではどうして理帆子は若尾を早々に切ることができなかったのか。それは若尾が可哀そう、という類のものではなくて、若尾は危険ではないと判断した自分の批評を守るため、もっと言えば、やはり自己陶酔の産物ではないでしょうか。

一人称小説には二つの場合が考えられます。そしてそれは交互に入り組んでいます。「自己陶酔」と「自己否定」です。これは仏教で言うところの「有愛」と「無有愛」と対応すると考えて良いだろうと思います。前者は「生き続けたい、死にたくない」という欲求で、後者は「死んでしまいたい」という欲求です。これは個人的によく分かる概念で、おそらく現代の自殺者もこの欲望のバランスで語られるべきだと思うのですが、今回は踏み込まないでおきます。

例えば太宰治の『人間失格』などを見ると、題から分かる通り、ゴールは「自己否定」になります。物語は「自己否定」の根拠を辿っていく具合に展開していくわけです。

人間失格 (新潮文庫)

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自己陶酔型の一人称としては、例えばこのブログでも数度触れた北条裕子の「美しい顔」の冒頭はまさにそれですし(後半に自己否定型に接近していくにせよ)、村田沙耶香の『地球星人』にもそれに近いものを感じます。

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

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地球星人

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新潮 2018年 05月号

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『凍りのくじら』に戻ると、その背景にあるのは畢竟理帆子の自己陶酔なのです。この観点で見れば『何者』も二宮拓人の自己陶酔を描いていると言えます。

ただ『何者』の自己陶酔は、最終的に暴かれ、糾弾される。彼の自己陶酔は、他者への「冷笑的」批評としてTwitterという形で具現化していて、それが「知られていた」という形で自己陶酔が崩れていく。そして彼は最終的に批評家としての匿名性という特権を剥奪されるわけです。

では『凍りのくじら』はどうだったのか、というと、その批評が覆される仕掛けが2つあります。1つ目は前述の若尾についての評価が裏切られる、という点。2つ目が松永郁也に対する「少し・不足」と言う評価が、大きくなった彼自身によって訂正される点です。

これだけでは心もとない、というのが正直なところです。

つまり、「自己陶酔」を読まされるのでは、例えば夢見がちな少女の日記を読んでいるのと変わらないわけで、それが否定されなくてはいけない。必ずしもそれが「糾弾」である必要は無いですが、「お前は特別じゃない」という仕掛けがほしくなるところです。しかしこの作品には、それが決定的に欠けています。

だから低く評価したい、というのとは違いますが、少なくとも「冷笑的」態度を看過してしまうのはどうだろうと思います。

では、なぜ辻村深月は『凍りのくじら』の中で理帆子の自己陶酔を「糾弾」することができなかったのでしょう。

結論は、この理帆子が、畢竟辻村深月まさにその人だからではないかと思うのです。

辻村深月は、この小説で、まさしく自分自身の分身である理帆子を糾弾できなかった。それは自分自身を糾弾することと同じことになってしまうからです。

上記に「自己陶酔型」として挙げた例を見てみましょう。

北条裕子「美しい顔」の主人公サナエに、作者・北条裕子自身が重ねられているのはおよそ間違いないでしょう。そしてそのことは石原千秋産経新聞文芸時評で指摘していた通りです。しかしサナエは斎藤という同じ避難所の女性に正しく「糾弾」され、その自己陶酔の奥に潜む自己否定を暴かれてしまう。

村田沙耶香の『地球星人』はもう少し難しい構造になっていて、主人公・奈月は自己陶酔の末、自らが魔法少女であるとの意識に目覚め、最終的には自らもポハピピンポボピア星人に「感染」しているという意識を抱きます。もちろんそんなはずはないし、「人の子なのだから人」だと読者は知っている。なので読むと「何を言っているんだ」と思い、読者は心の中で奈月を糾弾します。

しかし『地球星人』で「糾弾」されるのは、その書名の通り「地球星人」なのです。社会に出て働き、結婚してセックスして子供を作る、いわば「工場」として運命づけられた「地球星人」を、合理的という名のもとに、却って人間らしさを取り戻した奈月たちが「糾弾」するのです。

読者を「糾弾」する、という仕掛けは、「美しい顔」にも確かにあって、「お前たちだって被災地をエンタメとして消費しただろ?」と言いたいであろうことが、書いてなくても伝わってくるようになっています。

では『凍りのくじら』は? というと、全面的な自己陶酔・自己肯定が描かれていて、そこに不足を感じないではいられないのです。そしてそこに「冷笑の限界」を見出されるように思います。

さて、これからも多くの「冷笑的」一人称小説が生み出されることでしょう。むしろ期待したいのは、それがどのように「糾弾」されるのか、勘違い批評家が駆逐されるのかです。

それと同時に、自分がその糾弾・駆逐の対象とならないように(もう遅いかもしれませんが)、細心の注意を払っていきたいと思います。

raku-rodan.hatenablog.com

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