映画『十二人の死にたい子どもたち』
以下ネタバレを含みます。
まず結論から言えば、そこそこの出来だった。
事前に原作小説を読んでいたが、小説のほうがだいぶ出来が良かったろうと思う。
というのも、この映画、後半部分の脚本と音楽については、ほとんど絶望的だった。
音楽について言えば、彼らの話し合いが、あたかもリアルタイムであり、生死がかかっているのならもう少し緊迫感だって欲しかったのだが、あまりに劇的、というかドラマティックな音楽が、全体を「映画」的にしていた。この映画の売りは、もっとドキュメンタリーチックなところにあったんじゃないのか。
脚本に関して言えば、原作小説が「安楽死」もとい「自殺」について判断を保留するような形で終わっていたのに対して、この映画は「生きるって素晴らしい」とか「生まれてきて良かった」みたいな話に落ち着いていて、いや、そうじゃないだろう、という感じ。
このあたりの話は後回しにするとして、とりあえずキャスト。
おそらくオーディションで選ばれたのであろう人たちは、かなり好演していた印象。
そのほかにも、杉咲花なんかは、やはり、というか圧巻。かなり上手かった。
女性陣はとりあえず良いとして、男性陣。
新田真剣佑と北村匠海はなんだったのか。結局人気のある俳優を入れてそれで興行収入を稼ぎたかったんだろうな、という感じ。
下手だった、という感じはしなかったし、卒なく役どころをこなしていた印象なのだが、その卒なさゆえに、彼らでなければならない理由も分からなかった。
その点で言えば、抜群にうまかったのは古川琴音だった。
ゴスロリ役なのだけれど、動きの一つ一つが説得力がある感じ。少し舌っ足らずなのは本人の問題なのだろうが、それが活きていたし(演技ならなお凄い)、途中の方言も良かった。
ダンボールを持ち直すときのシーンと、最後の挙手シーンの肘の角度。これはもうそれだけで見る価値がある。
何より彼女には、「死ぬ」という覚悟を決めた負のオーラがあった。その他のキャストに関しては、杉咲花を除いて、結局どうせ死なないんだろうな、という感じがするというか、まだ生きていたいんだろう、という感じがした。それじゃあこの映画の醍醐味は台無しだ。
橋本環奈と口論になるシーンがあったけれど、その迫力で言えば完全に古川琴音の勝ち。ほかのキャストを食っていた。
その他に気になったのは、セイゴ役の坂東龍汰だろうか。上手かった。上手かったけれど、その手のヤンキー役や飛び抜けて元気な役はそれほど難しくないので、それで補正がかかっているのかもしれない。
結局彼らが安楽死について話し合うんだけれど、よくよく考えるとこれって安楽死なのだろうか。いや、というかむしろ、自殺なんじゃなかろうか。
何が違うか、というと難しいところなんだけれど、何より安楽死の本丸とは、病気か何かで苦しんでいたり、あるいはもう余命がないというときに、それならば「死」を自己決定しようという話じゃないか。
つまり、生死にすら自己決定権は及ぶのか、というのを、人間性の観点と、そこから乖離した倫理の観点で考えよう、というのが安楽死の本丸だったはずで、「生きてるって素晴らしいからなんとか生きよう」みたいな結論は、まったくナンセンス。
それを中和する形で杉咲花演じるアンリが機能しているわけだけれど、原作小説ではそれがうまくいっていたのに、映画ではうまくいかなかった。
というのも、アンリが提議した「生まれたこと」自体に対する抗議というのを、あまりに甘く見すぎたんじゃなかろうか。
私たちは「死」についてはよくよく考えるが「生」について、つまり私たちが「生まれさせられた」のだという観点についてはあまり考えない。むしろそこを考えよう、というのがアンリの提案だった。
なのにそれが「生まれてきたから幸せも経験できた」って、それは全く同じ土俵には上がれていない。結局アンリも、そうやって大仰な理屈をつけているが、自分の環境に辟易しただけなんでしょう、みたいなのは、「安楽死」や「死」や「生」に迫ろうと思ったら、あまりに浅薄な議論。
というわけで、結構そこが詰められていなかったのに、今流行りの「安楽死」について考えました、みたいな顔をするのは、ちょっと詐欺の領域。
この映画の見所は、古川琴音の演技。彼女はまだデビューしたてだということで、この先別の役でどんな演技を見せるか、が気になるところ。頑張っていただきたいですね。
ボカロについての書きなぐり part.2
前回の内容は、つまりボーカロイドは作曲者であるPたちによってそのキャラクターが肉付けされていくはずが、かえってそれぞれのPがボーカロイドを所有することで、その人気が落ち着いていってしまった、ということ。
その中で、人々は「ストーリー」を求めるので、それぞれのPに所有されたストーリーよりも、歌い手という、まさに人生という「ストーリー」を堪能するようになっていってしまったという話。
そこで歌い手について考えてみると、その隆盛は、かなりの部分がツイキャスのブームと重なっているんじゃなかろうか。
つまり人々は、その人が次にどんな歌を歌うんだろうか、だとか、ツイキャスで何を言うんだろうか、というような「ストーリー」を人々が求めているのだ。
ではその歌い手はというと、ブームの終焉は概ね小林幸子の登場と見てよいだろう。
歌い手の「ストーリー」を負う、いわばアイドルを応援するようなベクトルは、いつのまにか小林幸子という権威が、サブカルチャーであったはずのボーカロイドに触れた、というふうに単純に消費されてしまった。
その後ツイキャスがどうなったか。そのころにvineも流行の兆しを見せ始めるのだが、前者が「どれだけ長く放送できるか」というところに力点があったのに対して、vineの方は「短いなかにどれだけ面白さを詰め込めるか」というところに力点が置かれた。
もちろんvineにも綺麗どころはいて、イケメンや美少女と騒がれたりするのだが、そうした層はその後snowに移り、TikTokにたどり着いたと言っていいだろう。
ツイキャスの場合、ツイキャスは1枠30分で、リスナーからの課金によってそれを延長できる。だから2時間や3時間放送するのは当たり前。
それが没落したのは大きく2つの理由があるだろうと思う。
まず1点目は、人々が「短くてわかりやすい」ものを求め始めたという点。結局TikTokが流行るというのはそういうことだ。
2点目は、次の配信者の育成、いわば世代交代に失敗した点。
この点については、ボーカロイドにも言える。
ボーカロイドの楽曲を制作する側の世代交代は進んだものの、聞く側の世代交代は滞ってしまった。だから落ち込んでいった。
結局、生身の人の挙動に注目するという形で「ストーリー」を切望する人々だが、それがボーカロイドには無かった。その「ストーリー」というのは、いわば親近感と置き換えても良い。
かつて歌が上手ければ歌い手になり、顔が良ければツイキャスを配信し、面白さに自信があればvineを投稿するという流れは、親近感という点でvine以外が衰退する結果を招いた。
さしあたり思いついたのはこれぐらいなので、以上。
文学部病について
どういうわけかトレンド入りまでしてしまった「古典は本当に必要なのか」というイベントのYouTubeの中継を、一応一通り見て、思うところがあり、ただそれは結局「文学部病」の話なんじゃないかと思ったので、メモがてらさしあたり。
まず、「古典は本当に必要なのか」については、次のような答えを提示しておきたい。
- 1.古典は必要ではない
- 2.古典は情緒を学ぶためにあるのではない
- 3.古典は日本人のルーツを辿るために学ぶのではない
- 4.古典は有用性のために学ぶのではない
- 5.学校は有用性のためにあるのではない
- 6.有用性は絶対のものではない
- 7.本は幸福になるために読むのではない
- 8.文学部は優越感に浸るべきではない
否定文が続いたのは、肯定文を使った積極的な意見を主張できないからなんでしょうね。
1.古典は必要ではない
そもそも「古典は本当に必要なのか」と聞かれたときに、「必要だ」と感情的になるのは得策じゃない。だって「必要ない」と感じている人がいるのに、「必要だ」と言ったって水掛け論になるばかりだし。
さしあたり「確かに必要ないかもしれないね」というくらいの譲歩は見せるべきで、その上で、それでも古典を勉強する必要性というのを考えていくべきなのだ。
2.古典は情緒を学ぶためにあるのではない
よく言われるのは、「古典を学ぶと情感豊かな人間になる」だとかいう話。
それはまあ、無いでしょう。
時枝誠記という有名な学者が、「古典を現代風に解釈するような古典抹殺論はナンセンス」みたいなことを言っていて、それは正しくそのとおり。
古典からエッセンスを取り出して、立派な人間になりましょう。いや、だって世の中のサイコパスだって殺人鬼だって、みんな古典を勉強しているわけです。それでもやべえ奴はいるし、どう考えても国語の授業を思い返したとき、あれを学んでないと人を殺してたな、というようなことはないでしょ。
「情緒」を学ぶだなんていう情操教育は、せいぜい小学生くらいのときまでにやっておくべきなのであって、例えば村田沙耶香『コンビニ人間』は社会に共感できない人間の問題を描いたんだけれど、それでもなお「共感しろ」と言うような教育が古典に求められているなら、そんな古典はやはり滅びるべきです。
3.古典は日本人のルーツを辿るために学ぶのではない
じゃあなんで古典を学ぶのかしら、っていうと、「日本人のルーツを学ぶため」みたいな立派な回答が返ってくるわけだけれど、それはまあ無いです。
というのも、江戸時代でさえ世の中の八割は百姓。識字率なんて五割あったか知れない。つまり大多数はそうした文学作品に触れずに過ごしていたのに、その子孫が「古典に触れれば先祖のことが分かる」などというのも、先祖からしてもびっくりだろう。だって先祖も多分『源氏物語』だなんて読んでないですよ。
4.古典は有用性のために学ぶのではない
このイベント、というかシンポジウムで、古典反対派のセリフは「有用性」みたいなことを言うんだけれど、はっきりいって古典に有用性なんてない。
そりゃもちろん、古典の知識が教養としてあれば、それを下敷きにしたような作品を楽しめるだろうし、ジョークだって飛ばせるんだろうが、ただそれを「有用」と言うのはどう考えても無理。
彼らが言う「有用」とは、就職に使えるとか、仕事に役立つとか、そういう話をしているのであって、会社のプレゼン中に『徒然草』の話なんて始めた暁には、ですよ。
5.学校は有用性のためにあるのではない
さあて、じゃあ学校から古典を排除すれば、だなんていうのはおかしい。
だって学校って有用性のためにあるんですか?
そりゃ学校っていうのは、近代国家=国民国家のために、つまり国民製造機としてあるんだけれど、これから先もそれでいいんですか、っていう話。
高校の授業が、一日六時間(うちの高校は七時間だったのだが)、週五日あるとしても週三十時間。これを全部「有用性」のために費やすというのは、いくらなんでもちょっと怖すぎないですか。
朝の八時に学校に来て、夕方五時に帰るまでの間、ずっと「有用」なことを仕込まれているっていうのは、もう軽いホラーです。
だとしたら「必要ないかもしれないけれど、無駄じゃないよね」みたいな要素が、一種オアシスとして紛れ込まされていてもいいだろうし、というか、そっちのほうが健全なんじゃなかろうか。
6.有用性は絶対のものではない
これは古典擁護派がよく言うことなので、もう実は手垢が付いているんだけれど、そういう「有用」という概念は、実はあっさり「不要」になってしまったりする。
例えば、そろばんの技術だなんてのは電卓にとってかわられ、今や電卓がなくてもExcelがあればいいんだから、今更そろばんの技術を習ったって意味がないわけです。
その点古典というのは、一応長い時間みんなが「なるほどこりゃ面白い」と言い続けてきたわけだから、ある瞬間価値がなくなる、ということはない。その点で、「有用性」の脆弱性、みたいなものを「古典」というのは補完しうるわけです。
もちろんこの辺はなんだか反論が多そうなので、あえて深くは突っ込まない方針で。
7.本は幸福になるために読むのではない
このイベントの二番目あたりの質問者が、「幸福」という観点から古典教育の必要性を問うたんだけれど、いやいや「幸福」というのはそんなに大切ですか、とは思います。
そもそも本を読んだら幸福になりますか、というと、なりません。
ベルンハルト・シュリンク『朗読者』というのは、文盲の女性が、文盲であるが故に職場に居続けられなくて、ナチスに勤めた、という話。戦後彼女は裁判で裁かれることになるんだけれど、刑務所の中で文字を覚えて、ホロコーストに関する本を読んで、自分の犯したことへの罪の意識を覚えて自殺してしまう、という話。
つまり、彼女は文字なんか覚えず、本なんか読まないほうが、ずっと幸福だったわけです。世の中にはそういうのがままあって、つまり「知らない方が幸せ」ということは結構多い。
そういうのを「知っている」人間からすると、「あの程度で幸福だなんて《幸せ》な人だわ」と皮肉るんだけれど、つまり「本を読む」というのは、「自分が幸福ではない」ということに気が付くために読むのではないですか。
つまり、「幸福ではない」ということに気が付ける「幸福さ」というのに目を向けるべきで、そのために本を読むんです。
だから「古典は本当に必要なのか」に対して、「幸福になるため」と答えるのは全くナンセンスで、むしろ高校生活を通して「自分は幸福ではないのだ」と気がついて、そのことにきっちりと悩むための素材を提供する必要があるんでしょう。
それができないとどうなるか、というと、ある瞬間、自分の幸福が崩壊した瞬間、もう死ぬしかない、というようなことになるわけです。
8.文学部は優越感に浸るべきではない
と、こういうことを文学部は考えるべきです。
「無駄なものからこそ文化は生まれる」だとか、「不要」で「無用」なものこそ尊いのだ、というような考え方にたどり着いて悦に入る。でもそれって、ますます社会との距離感を広げるだけなわけです。
これを「文学部病」と呼びたいわけですが、でも社会は「必要」を求めているわけです。そんなときにドヤ顔して「君たちには分からないんだろうね、ハハッ」なんていうのはバカバカしい話で、もうちょっと理解しあうための努力をするべき。
文学部の優越感というか、教養エリート意識みたいなものは、窮地に立たされた人々の打開の策で、国際競争力が落ちた日本にだってトイレがある! みたいな話をしているのと、もうほとんど同じなんだろうと思います。
だから文学部はさしあたりこの「文学部病」を克服するところから……まあ完治は無理なので、それを自覚するところから始めるべきだと思います。
以上。
ボカロについての書きなぐり
ある準備のために、ボカロについて考えたことを書いておく。
ボカロ草創期から衰退まで
ボカロがなぜ一時期あそこまで盛り上がったのかという点について、多分死ぬほど論考や論文が出てるであろうことを丸ごと無視すると、やっぱりその第一の魅力は、誰でも作曲家、というようなことにあったんだろう。
というのも、やっぱりクリエイティブなことに対する多くの人の関心、それも「クリエイターになりたい」という関心はあって、例えばその中で「小説家になろう」といったサイトや「pixiv」が流行るんだけれど、その音楽バージョンがボーカロイド、と考えていいだろうと思う。
自分が声を出さなくても「美少女」が歌ってくれる。それも実際には演奏不可能なようなバンド音声に合わせて。
それがブームになったわけだけれど、それが現在下火である、ということについて考えると、それはやっぱり「小説家になろう」から傑作が生まれない、というのと同じ問題だろうと思う。
「小説家になろう」で何が起きているか、と言えば、ある程度パターン化された「ジャンル」の作品が有象無象に増えた結果、そのクオリティは上がらなかった。
切磋琢磨、というような、あるいは資本主義的な「競争」の中で名作が生まれるようなことはなく、結局、いかに「ハズす」か、というところに力点が置かれた。けれど結局たどっているプロットは同じ。
と、同じことがボーカロイドでも起きたんじゃないだろうか。
つまり、有象無象の「P」が登場して、ピンからキリまでのクオリティの作品を発表した。けれどそれは何かの真似であり、どこかで聞き覚えのあるような何かを繰り返し精算することにしかならなかった。
結果、その裾野が広がれば広がるほど、クオリティは下がり、盛り上がりもなくなっていってしまった、ということなんじゃないだろうか。
データベース消費の失敗
とは言いつつ、それだけじゃないと思うので、もう一つ。
東浩紀の提起した「データベース消費」という概念、つまり設定や歴史がデータベースとして、その中のある部分をかいつまんで新たな物語を作り上げるということを考えてみると、ボーカロイドはそれに失敗したんじゃないだろうか、と思う。
例えば初音ミク、のようにボーカロイドにはパーソナリティが設定されていた。
当初の目論見では、「初音ミク」なる歌手がいて、その歌手をネット上のたくさんの人々が「P」としてプロデュースする、という設定、つまり「初音ミク」にまつわるデータベースを、他の人々が消費していく、という二次創作的な構造を期待したのだろう。
ただし、それには失敗した、と言わざるを得ない。
(主観だが)ボーカロイドのイントロに冗長なものが多いことに端的に現れているように、楽器をガンガン打ち鳴らすボーカロイド系の楽曲にあって、声を合成するソフトとしてのボーカロイドは、あくまで楽器の一つでしかなかった。
それ自体は、つまりPerfumeがそのコンセプトであるように、声すらも楽器として扱うのだとすれば、それはそれでいい。
しかしボーカロイドの曲を聴く側は、ストーリーを求めていた。
そのストーリーを「初音ミク」に設定されたパーソナリティに求めることもできたはずである。けれどそれは不可能だった。なぜなら、「初音ミク」というデータベースを聞き手に伝えるために媒介するはずだった楽曲は、あくまでボーカロイドを楽器としか扱わなかったからである。
ストーリーの担い手
では歌を聴く人々はどこにストーリーを求めるようになるのか。
ボーカロイドはダメだ。なぜならあくまで「楽器」だから。
結果それはどうなるかというと、生身の人間になっていった。それは「歌い手」と呼ばれたりするわけだけれど、生きている人間は生き様がそのままストーリーになりうるので、その「歌い手」を応援する。
それはどう結実したのか、と言えば、小林幸子が『千本桜』を歌うことになるわけだし、米津玄師が登場するわけだ。
そこにこそボカロの凋落が見て取れる。結局人々は「ストーリー」を求めて、生身の人間から離れることは出来なかった。
それが端的に現れたのは『ラブライブ!』などの作品で、そこには当然ストーリーがありつつ、その中で二次元のキャラクターが歌う。アニメのストーリーだけではなく、声優もまた、ストーリーを抱えているのだから、ストーリーを消費する上ではこの上ない状況だ。
それがもう一つの形で結実したのがVtuberだと思うのだが、あまり詳しくないので今回はこの辺で。
「ニッポンのジレンマ」2019元日スペシャルについて
この2年くらい、「ニッポンのジレンマ」の元日スペシャルを見るのが恒例になっている、というのも今年が2年目なので「恒例」と言って良いものか怪しいのだけれど。
というのもやはり「朝まで生テレビ」への失望感というのがある。「朝生」は昔はどうだったか知らないが、今では田原総一朗の独壇場(ほとんど思い出話)で、その誤解をコメンテーターが訂正したり、コメンテーターが知識を自慢したり。もうほとんど絶望的な惨状。
一方こちらはと言えば……と言いつつ、去年出演していた三浦瑠麗さんが出るというので見たのだけれど、思い出話するほどの思い出を重ねていない、つまり若い層が集まっていて、それもニュースのコメンテーターなどでは見ないような人が並んでいて楽しく見た。
惜しむらくは、全体的なコメンテーターの層が、いわゆる「意識高い系」という感じがすること。経営者マインドみたいなのを持っている人が多くて、副業で30万稼ぎ始めそうな感じ。
言ってみれば人文学を担ってくれる人が少ない、と言ってもいい。だからこそ、深さが足りないような気もするのだけれど、「朝生」を見るよりずっといいかな、と。
◆
なぜ僕は「意識高い系」が苦手なのだろうかと考えると、2つくらい理由があるんじゃないかと思う。
まず1つ目は、彼らが資本主義のルールの中での勝ち方しか考えていないこと。もちろんそれを壊そうとしているんだろう、という感じの発言も見られないではないし、「意識高い系」の代表格・西野亮廣なんかは絵本を無料公開していたりするんだけれど、でも結局それって「資本主義ver.2.0」というか、「資本主義ネオ」ではないの、という感じが。
やっぱり自分は人文学が好きで、文学が好きで、哲学は苦手だけれど不思議と惹かれるところもあって、そうなると、マルクスだとか、そういう時にあった大きなパラダイムシフトのようなものを、コペルニクス的転回のようなものを期待したくなってしまう。それなのに「資本主義を新しく!」みたいなことを言われても、「なるほどそうか。でもそれってすごいのか」と思ってしまう。
2つ目は、彼らが現実離れしているという点で、彼らはいつも希望を捨てないでいる。そういうのはとても大切で、それは頭ではよく分かっているのだけれど、例えば僕はちょっと冷笑主義的なところがあって、ニヒリストっぽいところがある、そういう人からすると、その希望というのはもうほとんど「思い込み」にしか聞こえない。
この点に関して言えば、いくら希望を語ったところで、とことん未来に絶望した人々には響かない。それなのに、「未来は明るいのでは」みたいな結論に持って行かれても、ちょっと困ってしまうなあ、と。
結局今回も、概ねこの点を脱することはできなかったんじゃないだろうかと思う。
◆
それでも「議論」についての議論なんかにはすごく魅力を感じた。
まず「議論」はエンタメなのかという点なんだけれど、東浩紀さんが日本には座談会文化があるというのはとても納得していて、エンタメとして「議論」を消費する土壌っていうのはあるんだろう。
ただ、「議論」というのが必ずしも「結論」、平成的な言い方をすれば「論破」を求めて行われるものではないというコンセンサスは、普通教育の段階で得る、というか、授けていくべきなんだろう。
じゃあなんで「議論」するのかと言えば、もちろんそれが楽しいはずだ、というのはあって間違いないと思うんだけれど、それは「他者の内面化」という点につきるんじゃなかろうか。
「議論」の中で他者のマインドセットを内面化する、そうすれば思考に複数性を帯びる。
民主主義というのは、畢竟「議論」のプロセスに意味があるのではなくて、「多数決」に意味がある。ただそのときに、じゃあどうやって一票を投じるのか、というのときに、単数的な、一人の自分の中にある一つの意見ではなく、複数的な、一人の自分の中にある複数の意見を集約する形で一票を投じるべきだ、という話だと思う。
あれ、そんなこと言っていた哲学者がいたなあ、と思うわけだが、そう、ルソー。
特殊意志の集合としての全体意志ではなくて、それぞれが複数性を持った一票を投じた結果の一般意志の問題。
◆
とか言いつつ、この番組がやっぱり未来について語ることができた、というのはかなりよかったんだろうと思う。
結論が、「日本はよくない現状だ」だとか「一人一人が『議論』に参加していく必要がある」だとかいう、手垢のついた種類のものになってしまったことは残念だが、まともに「議論」を深めるつもりがない「朝生」なんかよりはずっとまともだろう。
ということで、来年は誰か人文学の人をもっと入れていただきたい……。以上でした。
「ゾンビランドサガ」を考察しようと試みる
上記の記事をもとに、「ゾンビランドサガ」について考えていきたいと思う。と言いつつ、あのアニメが果たしてどれほどの考察に耐えうるかという強度の問題は全く未知数なので、途中から破綻をきたすかもしれない。
その上で、記事中の次の部分に注目しておきたい。
そもそもゾンビとは「時間の停止」を表すものだと考えられます。ゾンビは死の段階で固定されて「成長」することが出来ません。その一方で、昨今のアイドルグループは「成長」に焦点が置かれます。「成長」を見守る、というのが若いアイドルグループを応援する際の大きな楽しみです。ゾンビ(時間の停止)とアイドル(成長)は本来相反するものなのです。
【感想】アニメ『ゾンビランドサガ 』〜なぜゾンビがアイドルを!?〜 - 掌のライナーノーツ
なるほどそれは全く考えても見なかった点だった。
というのもそもそもゾンビものをそれほど見ない自分にとって、この発想がなかった。
これまでに見たゾンビものと言えば映画『ウォーム・ボディーズ』だったりするけれど、さすがにあれを見てゾンビに「時間の停止」という意味を見出すのは難しい。
と、考えてみると、確かに「ゾンビランドサガ」中で起きたあらゆる問題は、彼女たちが停止した時間にいる、という距離感のために生まれていることに気が付く。
例えばそれは、彼女たち自身の時間が停止したタイミングの差によるものであったり、時間が停止したあとも時間が進み続ける「まだ生きている」人々との差であったり。
もしかすると私たちがゾンビを見て怖いと思うのは(と言いつつ『ウォーム・ボディーズ』や『セル』からゾンビは怖いと思うのはかなり至難の業なのだけれど)、そうした時間的な差が問題なのかもしれない。
◆
そういう点から翻って、バンパイアについて考えてみたい。
ここで引き合いに出したのはステファニー・メイヤーの『トワイライト』に始まる一連のシリーズである。
一年のかなりを曇りか雨で過ごす街・フォークスに引っ越してきた女子高生ベラと、その高校で不思議な魅力を湛えているエドワードの恋愛を描いた物語だが、このエドワードが要するにバンパイアである。
彼はスペイン風邪大流行の際にバンパイアになっているから、すでに数世紀の時間的隔絶があるということになる。
それも考えてみれば、もしかするとあの高校でエドワードを始めとしたバンパイアたちが一種畏敬の念を向けられていたのも、その圧倒的時間差、あるいは時間を超越した存在としての崇高さなのかもしれない。
その一方で、「ゾンビランドサガ」のゾンビ、もといゾンビィたちを「崇高」という形容詞をもって表現するのはいかにも乱雑のように思われる。だから、もう少し考えてみたい。
◆
星川リリィが「永遠の小学生」を自称するように、そしてそれはすでに決定的な事実になってしまってるわけだが、彼らは決して年を取らない。
彼女たちは畢竟、「死」なるものを克服しているわけだが(そしてそれは最終話に生かされているわけだが)、「時間」なるものを克服しているわけではない。
なぜならそれは、彼女たちが「芸能界」に片足を突っ込んでいるからで、「アイドル」だからにほかならない。
紺野純子が活躍したときとはすでにアイドルのあり方が大きく変わっており、水野愛が所属していたグループは水野愛の死を糧にメンバーが代わっても人気を維持している。
そういう早い時の流れの中で、例えば田舎町フォークスの高校で超然とするバンパイアのような「崇高さ」がないのは当然で、彼女たちは成長するが、それは実は時間の流れに必死に食らいつくためなのではないか。
巽が地方アイドルは全盛を既に終えている、しかしだからこそ当たればインパクトがある、というように説明するとき、彼女たちは少し古い時代から、全く新しい時代を切り開く宿命を背負わされているのであって、それが若い彼女たち自身の「成長」へとつながっていく。
ドラマ「僕らは奇跡でできている」
タイトルが何を意味するのか。つまり、「奇跡でできている」とはどういうことなのか。あまり分からない気はするのだけれど、それでもこのドラマの意義があるとすれば、それは発達障害を描いたこと、ということになるでしょう。
作中において、相河一輝が発達障害である、と明示はされないけれど、まずそう考えて間違いないだろう。それは端的には宮本虹一(虹一くん)との邂逅によく現れている。あれは発達障害同志がお互いを肯定する、という話だったと思う。
近頃発達障害がほのかな話題である、というのは知ってる方も多いと思いますが、NHKが「発達障害って何だろう」というキャンペーンをしたりもしていて、あるいはTwitterでも定期的に発達障害への無理解の実例がツイートされて、軽く炎上しているところ。
もちろん発達障害への無理解は駆逐されるべきだし、彼らが住みにくいと感じているのであれば、それはいけない現状だ。
ただし、私たちは発達障害にあまりに多くを期待しすぎているのではないか。
多和田 昔、北米のあるフェスティバルに呼ばれたとき、私のセクションが「Literature of color」となっていて、色の文学って何のことだろうと不思議に思った経験があります。
キャンベル 何色でしょう(笑)
多和田 赤色かな?(笑)。そうしたらなんと白人以外の文学を指すんですって。「私の書いているのは、有色文学?」。これはショックでした。「でもこれはいい意味なんです」と主催側は一生懸命言うんですよ。つまり白人の文学はつまらないから、こういう括りで面白い人を招待しているんだと。もうずいぶん前のことですけれど。
(多和田葉子・ロバートキャンベル「「半他人」たちの都市と文学」新潮社『新潮』第115巻第4号(2018年)、p.87)
これは多和田葉子とロバート・キャンベルの対談だが、「白人の文学はつまらないから」有色人種の文学に活路を見ている白人の様子が分かる。つまり彼らは、一向に有色人種の文学を白人のものと同じ地平で評価するつもりがないのだ。
同じことはフェミニズムでも起きてはいないか。
少なくともこの国でフェミニズムは、「男性ばかりの中に女性の視点を」とか「女性の細やかな配慮で」みたいな風に受容されてきた。「男性ばかりではつまらないから」女性の存在に活路を見出しているのであって、それは男性と女性が本当に同じ地平で活躍することを意味しない。
発達障害に戻ると、発達障害もそうなのではないだろうか。つまり、「健常者ばかりではつまらないから」障害者の存在に活路を見出す。
◆
似たドラマに「僕の歩く道」や「ATARU」があったと思う。前者は自閉症、後者はサヴァン症候群で、前者は比較的しっかりと丹念に自閉症が描かれていたのに対して、後者は一種サヴァン症候群が神聖視されている節があった。
あの時期TBS全体が、自閉症の書道家や、サヴァン症候群の特殊能力、みたいな風に障害を補って余りある(と彼らの考える)健常者の持ちえない(と彼らの考える)能力を紹介していた時期があった。もちろんそれは醜悪極まりないのだが、一方日本テレビがもうだいぶ長く「24時間テレビ」というより醜悪な番組をやっていることを考えれば、咎める気にならない。
「障害を補って余りある特殊能力」という点は今回は、「周囲の人を感化する」というところにあった。
実際その能力の根源は、むしろ相河一輝の文法にあったと言っていい。
「楽しみです」といった「○○です」的な発言に代表されるように相河は細かなモダリティを付け加えるような表現をほとんど用いない。その断定調が、相河の「空気を読まない」みたいな性質と抱き合わせて効果している。
「空気を読む」ということが一転して批判され、「空気を読まなくてもいいじゃないか」という風になってしばらく経つが、その系譜のこの作品は位置づけられる。
「マイペースな相河が周囲の人を感化する」というのは、「発達障害の新たな可能性」を見出すものであって、単純に認められるものではない。
◆
と言ったところで、さて、そんなところでこのドラマの悪口を言っても仕方がない。
良かった点を言うと、まず、高橋一生の演技は概ね上手かった。というのも「ATARU」ぐらいとびぬけたキャラであれば、演技が上手かどうかという話ではなくなるのだが、今回はかなり微妙で難しかったろうと思う。
一方で何より、周囲の人々の好演が光ったところでもある。この作品のコメディ的属性を一手に引き受けたのは、熊野久志を演じる阿南健治と、山田妙子を演じる戸田恵子が分担して担っていた。前者が大学、後者が家庭といった具合に分担がされていたとも言って良い。
結末があれだけコメディチックだったことを思えば、この二人が担ってきたコメディ属性のようなものの重要性を感じずにはいられない。
熊野久志とは大学の事務長だが、大学という舞台のチョイスが秀逸だった点は特記されるべきだろう。
もちろん発達障害を描くとき、発達障害の人が社会になじめない、というのを描く事には十分意味があるし、そういうドラマが出てきてもいいと思うが、今回はむしろ「周りを感化する」ということを書くのに大学を選んだ。「大学は自由だ」というイメージをフルに活用していると言える。それだけでなく熊野事務長のキャラクターが、今の大学の置かれた複雑な状況を端的に表しているだろうと思う。
熊野事務長のキャラクターは、コメディ調にしなければ、かなり嫌味な人物になっていたはずなのだが、それを軽やかに演じたのは「功績」と言える名演だったと思う。
◆
ということで、実はこのクールはドラマをあまり見られていなかったのだけれど、本作は佳作といった具合だろうと思う。冒頭に書いた通り、この風潮が続くことに危機感を覚えないではないが、個人的に日本のドラマの可能性を会話劇に見ていることもあって、その点でこのドラマはかなり優れていた。
また違ったかたちで(そしてそれは弱者に可能性を見出す形でなく)会話劇を生かしたドラマを期待したい。