「この世界の片隅に」は何があるのか

この世界の片隅に
 

※原作漫画を参照せずこの文章を書いているため、あえて周作・白木リンの交流などには触れない。また、ネタバレを多分に含む。

映画『この世界の片隅に』を見た。あの邦画に『君の名は。』『シン・ゴジラ』といったヒット作が続いた2016年にあって、負けず劣らずの話題を振りまいた作品である。

そもそも別に見たかったというようなことはなくて、必要の上から、やむにやまれず、といった感じで見たのだが、結論から言えば、良くも悪くも、だったと思う。

考えてみれば当時も、「戦時下の生活の知恵が」や「実際に暮らしていた人々が描かれ」や「街並みが再現され」という風に話題になっていたのであり、ストーリーに関する話題はあまりなかった気もする。

戦争を描いた作品と言えば、個人的に最も遡れるのは「岸壁の母」くらいのもので、その次は映画『火垂るの墓』とか。ちなみに『火垂るの墓』は見たことがないので、偉そうには語れない。

自分の短い人生の中で言うと、お盆頃の終戦記念ドラマの類は、あえて誤解を恐れずに言えば「好きだった」という都合もあって、よく見ていた。その他にも小説『永遠の0』は映画化もされ、記憶に新しい。

そうしたところから、統計的でも何でもなく思われるのは、徐々に戦争の描写が軍についてに偏ってきているのではないかという点だった。

というのも、まだ終戦後しばらくは、戦争を経験した世代が雄弁に語り、戦争を経験した世代自身が作品を生み出したのだろう。しかし、その隆盛が終わると、多くの資料が集められ、なおかつ多くの証言も得られている軍に関するものが増える。

例えば戦争に関わらなくとも、歴史学で取り扱うのは、例えば平安時代ならば宮中や行政についてであって、当時の人々の暮らしは民俗学に分類されるのだろう。こうした具合に、機構的な歴史学的作品が、従来の民俗学的な作品にとって代わったということだろう。

この点は、多くの資料を踏まえて書かれたと思われる『日本のいちばん長い日』などに象徴的だ。

その後、その機構の中で、オーラルヒストリーの限界を感じ始めたころに生み出されたのが『永遠の0』。おそらく戦争経験者の声を聞く、という形で書く小説としてはこれくらいの時期が限界だったろう。戦争経験者の口を借りて、当時の彼らが知り得なかった情報を語らせている、という批判もあるらしいが、ここではあえて深くは取り上げまい。

その中にあって、この作品は時代錯誤の「民俗学的な」戦争映画ということになるかもしれない。

となると、やはり比較したくなるのは映画『火垂るの墓』である。その作品を見ていない分際で多くを語りたくはないものの、実際あれは「幼い子どもの死」を通して、反戦を訴えた、ある面では非常にイデオロギーにまみれた作品であると思われる。

しかしこの作品が決定的に違うのは、「誰一人として戦争に良いとか悪いとかいう判断を下さない」という点だ。この辺りは『はだしのゲン』などと対照的である。

日常を語ることに意味はあるか

この映画最大の特徴は、当時話題にもなったように、かなり生活に即した形で戦争が描かれたことである。否、この映画に描かれているのはあくまで「戦争」ではなく、「戦争の時期を生きた」というだけの「人々」である。

主人公・すずは絵を描くのが好きな少女である。であるからこそ、彼女の生きる世界は、少し幻想的である。

詳しくは後述するが、彼女の世界には獣的な異形の者や子供の形をとる妖怪のような何かが登場する。この点で、彼女の生きる世界とは、また「彼女自身によって描き出される世界」と一致する。

しかしこれはある時点をもって状況が一変する。時限爆弾で右手を失った瞬間から、彼女は「世界を描く」ことができなくなる。今まで一定のフィクション性を伴って彼女に迫っていた世界は、この途端急にリアリスティックに感じられる。しかし却ってそれは彼女にとって現実的ではない。否、写実的ではないと言っても良い。

彼女は右手を失った後の世界を「左手で描いた絵みたいに」いびつであると言う。彼女は右手を失ったことで、ますます「戦争」という現実に直面しなくてはならない。それだけでなく、これまでの右手の思い出を振り返ることで、遡及的に、フィクションだったはずの過去さえ、急にリアリスティックに変容する。しかしその時でさえ彼女は「戦争」に何らかの価値判断を下さず、まるでそれが避けられない天災であるかのように暮らす。

最後、玉音放送を聞いた後の彼女は、そうではいられない。(セリフはディクテーションにつき、精確さを保障するものではない)

そんなの覚悟の上じゃないんかね。最後のひとりまで戦うんじゃなかったんかね。今ここにまだ5人おるのに。まだ左手も両足も残っとるのに。

彼女がこう言った、否、彼女にこう言わせたのは、愛国心の類ではないだろう。それはその後に見える。

飛び去っていく。うちらのこれまでが。それでいいと思ってきたものが。だから我慢しようと思ってきたその理由が。ああ、海の向こうから来たお米、大豆。そんなもので出来とるんじゃなあ、うちは。じゃけえ、暴力にも屈せんといかんのかね。ああ、何も考えんうちのまま死にたかったなあ。

玉音放送後、彼女を襲ったのは、愛国心の危機、ましてや天皇陛下への尊崇の念の危機といったものではなく、もっと根源的な「アイデンティティの危機」であった。戦争のためを思って多くを我慢し、闇市で買った台湾米だの何だので食い凌ぎ、挙句右手まで差し出した戦争が──その戦争は「一億総火の玉」だの「本土決戦」だの威勢のいいことを言っていたのに──中途半端に終えられてしまい、それまでの自分の存在が危ぶまれるということに対する恐怖、憤り。

それだけでは、実際には私たちに「反戦のメッセージ」を直接伝えるものではない。もちろん、その豊かさからは程遠い生活、原爆の被害などを見て、「戦争はいけない」と感じる。しかし、あえてそれを誰の口からも話させない。きっとそれが、また一つのリアリズムなのだろう。

最後に彼女は、「左手で描いたような」いびつな世界から脱出する。そのことを、獣の形をした異形のものが証す。

さて、日常を語ることに意味はあるか。

再構成された物語は歴史叙述たりうるか

この物語は、前述の通り、いわゆる「妖怪」のように思われるものが登場する。獣の形をとり、すずと(おそらくは幼いころの)周作を連れ去る獣人と、すずの実家で屋根裏から現れる子供である。

前者にはどうやら兄が、後者にはどうやら白木リンが投影されているようであり、なおかつ、この存在が実在のものなのか、フィクションなのかは判然としない。しかし前述の通り、右手で絵を描くことを好んでいたすずにとって、この時の現実とフィクションの境目は意味をなさない。

そうした彼らが登場することだけでなく、他にもこの物語のフィクション性を示唆するのは、登場人物に悪人がいない点である。彼らは良い人だけの「構成された市民」として登場する。もしかすると実際には、当時の広島にはいい人ばかりだったのかもしれない。しかし、その可能性はほとんどないというくらいに低いだろうと思うし、違和感を覚えるほどである。

また、周作がいやに戦艦に詳しく、それを「女子供」であるすずや晴美に教えており、これがどの程度当時に即してリアルなのか疑問である。*1

こうした点から、例え街並みが当時そっくりで、当時そこにいたかもしれない人が実際に登場したとしても、この作品は「再構成された」と言うより他にない。

さて、再構成された物語は歴史叙述たりうるか。

この世界の片隅に」は何があるのか

そもそも「この世界」とはどこか。それについてはどこかの考察で「私達の生きる世界そのもの」とあったが、それには個人的には賛同する。それだけでなく、これに「普通の」というような含意があって、南の島の戦場のような特殊空間でなく、非戦争から戦争へと持続的に変化していった世界そのものを指しているのだろう。

「世界」という語がセリフとして登場するのは2度あったように思う。一度は最後の方にすずが夫・周作に礼を言う場面だが、その前にもある。幼い頃にどうやら好き同士だったらしい水原のこのセリフである。

お前だけは最後まで、この世界で普通で、まともであってほしい。

つまり、「この世界」を私達の日常とするのなら、当時、その世界に、徐々に戦争の波が押し寄せてきており、それによって「普通」でも「まとも」でもない世界に変容してきていると。その中にあって最後まで「普通」であり「まとも」であれ、ということである。

実際にはすずは、右手を失った時点でこの世界からは離脱を余儀なくされる。しかし彼女は最後に、疑似的に右手を取り戻すことによって「普通」で「まとも」に戻る。

それは原爆症で床に臥せるすみに話をしたり、最後に獣人を再び見たり、子供が抱きついてきたりするシーン、そして、エンディングでこちらに手を振る右手に象徴される。

この世界の片隅に」はすずがいた。すずは、その右手──この右手はすずの想像力そのもの──で世界を描いていた。彼女はある時、その右手とともに「この世界」からは離脱してしまったものの、戦争が終わり、再び「この世界」へと戻る。何かのきっかけというより、時間の流れのおかげかもしれない。

さて、その他には「この世界の片隅に」は何があるのか。

*1:ただしこの描写自体が、例えば映画『君の名は。』において、三葉の街が隕石によって破壊される一方、瀧が隕石を見て「美しい」と感じるというような対比のように、むしろ戦争に現実味を与えているとも言える。