「ニッポンのジレンマ」2019元日スペシャルについて

この2年くらい、「ニッポンのジレンマ」の元日スペシャルを見るのが恒例になっている、というのも今年が2年目なので「恒例」と言って良いものか怪しいのだけれど。

というのもやはり「朝まで生テレビ」への失望感というのがある。「朝生」は昔はどうだったか知らないが、今では田原総一朗の独壇場(ほとんど思い出話)で、その誤解をコメンテーターが訂正したり、コメンテーターが知識を自慢したり。もうほとんど絶望的な惨状。

一方こちらはと言えば……と言いつつ、去年出演していた三浦瑠麗さんが出るというので見たのだけれど、思い出話するほどの思い出を重ねていない、つまり若い層が集まっていて、それもニュースのコメンテーターなどでは見ないような人が並んでいて楽しく見た。

惜しむらくは、全体的なコメンテーターの層が、いわゆる「意識高い系」という感じがすること。経営者マインドみたいなのを持っている人が多くて、副業で30万稼ぎ始めそうな感じ。

言ってみれば人文学を担ってくれる人が少ない、と言ってもいい。だからこそ、深さが足りないような気もするのだけれど、「朝生」を見るよりずっといいかな、と。

 

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なぜ僕は「意識高い系」が苦手なのだろうかと考えると、2つくらい理由があるんじゃないかと思う。

まず1つ目は、彼らが資本主義のルールの中での勝ち方しか考えていないこと。もちろんそれを壊そうとしているんだろう、という感じの発言も見られないではないし、「意識高い系」の代表格・西野亮廣なんかは絵本を無料公開していたりするんだけれど、でも結局それって「資本主義ver.2.0」というか、「資本主義ネオ」ではないの、という感じが。

やっぱり自分は人文学が好きで、文学が好きで、哲学は苦手だけれど不思議と惹かれるところもあって、そうなると、マルクスだとか、そういう時にあった大きなパラダイムシフトのようなものを、コペルニクス的転回のようなものを期待したくなってしまう。それなのに「資本主義を新しく!」みたいなことを言われても、「なるほどそうか。でもそれってすごいのか」と思ってしまう。

2つ目は、彼らが現実離れしているという点で、彼らはいつも希望を捨てないでいる。そういうのはとても大切で、それは頭ではよく分かっているのだけれど、例えば僕はちょっと冷笑主義的なところがあって、ニヒリストっぽいところがある、そういう人からすると、その希望というのはもうほとんど「思い込み」にしか聞こえない。

この点に関して言えば、いくら希望を語ったところで、とことん未来に絶望した人々には響かない。それなのに、「未来は明るいのでは」みたいな結論に持って行かれても、ちょっと困ってしまうなあ、と。

結局今回も、概ねこの点を脱することはできなかったんじゃないだろうかと思う。

 

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それでも「議論」についての議論なんかにはすごく魅力を感じた。

まず「議論」はエンタメなのかという点なんだけれど、東浩紀さんが日本には座談会文化があるというのはとても納得していて、エンタメとして「議論」を消費する土壌っていうのはあるんだろう。

ただ、「議論」というのが必ずしも「結論」、平成的な言い方をすれば「論破」を求めて行われるものではないというコンセンサスは、普通教育の段階で得る、というか、授けていくべきなんだろう。

じゃあなんで「議論」するのかと言えば、もちろんそれが楽しいはずだ、というのはあって間違いないと思うんだけれど、それは「他者の内面化」という点につきるんじゃなかろうか。

「議論」の中で他者のマインドセットを内面化する、そうすれば思考に複数性を帯びる。

民主主義というのは、畢竟「議論」のプロセスに意味があるのではなくて、「多数決」に意味がある。ただそのときに、じゃあどうやって一票を投じるのか、というのときに、単数的な、一人の自分の中にある一つの意見ではなく、複数的な、一人の自分の中にある複数の意見を集約する形で一票を投じるべきだ、という話だと思う。

あれ、そんなこと言っていた哲学者がいたなあ、と思うわけだが、そう、ルソー。

特殊意志の集合としての全体意志ではなくて、それぞれが複数性を持った一票を投じた結果の一般意志の問題。

 

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とか言いつつ、この番組がやっぱり未来について語ることができた、というのはかなりよかったんだろうと思う。

結論が、「日本はよくない現状だ」だとか「一人一人が『議論』に参加していく必要がある」だとかいう、手垢のついた種類のものになってしまったことは残念だが、まともに「議論」を深めるつもりがない「朝生」なんかよりはずっとまともだろう。

ということで、来年は誰か人文学の人をもっと入れていただきたい……。以上でした。