ベルンハルト・シュリンク『朗読者』

朗読者 (新潮文庫)

朗読者 (新潮文庫)

 

 「歴史とは、物語である。」

この『朗読者』が原作である映画『愛を読む人』について書いた記事では、このように書きだした*1

これをきっかけに、歴史叙述に興味を抱くようになった。何かの本を検索したりせず、一人で思索ごっこにふけるあたりがいかにも不徹底なわけだが、いくら考えても、答えは出ない。そもそも明確な問いさえ持てていないのだから当然だが。

特に日本にあって考えると、所謂慰安婦問題然り、南京大虐殺問題然り、歴史をどのように捉えるかが時折問題になる。その時、特に(私が属していると自負する)保守派界隈では「事実は一つだ」というような文句が用いられたりする。

しかし思うのは、「事実は一つだ」というのは必ずしも「歴史は一つだ」と一致するものではない。「歴史の審判」なる語があるように、「歴史」というものは時間の流れの中で恣意的に審判をくだすものなのかもしれない。

学校で「歴史」を教えるように、「歴史」は時として恣意的に用いられる。しかし本来は一人一人に歴史があるはずであり、それが連綿として続いていく。

例えばそれが単に「故人を回顧する」ということであれば、宮部みゆきさんの『ソロモンの偽証』のようになる。あの作品は、亡くなった柏木卓也が、なぜ死んだのか、その真実を「裁判」という形式を借りて探求する。それこそまさに疑似的な「歴史の審判」との一致が見られる。その裁判での判決が真実であるかどうかは明言されないが、一応納得する。その時彼らの中にある種「恣意的な歴史」が一つ存在することになる。

と考えると、本作もそれに似た構造があるのかもしれない。

Ⅰでは、ハンナ・シュミッツとミヒャエル・ベルクの精神的肉体的な交流が描かれる。Ⅱでは、時間がしばらく経ってハンナ・シュミッツに対して下される審判が描かれる。Ⅲでは、その後ハンナ・シュミッツが文字を覚え、「自裁」を遂げる様が描かれる。

物語全体は、ミヒャエル・ベルクがハンナ・シュミッツを回顧する形で書いた小説のように示唆される。これは映画では、ミヒャエルが娘に対して語る物語であるように示唆されるわけだが、この翻案は感慨深い。

いずれにせよ、文学という場における「歴史叙述」について、ある側面から挑戦していることが分かる。

それだけでなく、この作品における「他者」というものを考えたい。

例えば先に挙げた『ソロモンの偽証』も然り。あの作品は。柏木卓也を生前においてすら理解するひとがいなかったということに端を発している。同じクラスであってもやはり「他者」に違いない柏木卓也を、その後どう「思い出すのか」ということでもある。

「思い出す」ことによって、その人がいかに「他者」であるかに気が付く。

ミヒャエルはハンナに対して嘘の年齢を教えていたし、ハンナはミヒャエルに大変なことを隠していたことになる。

ハンナの最大の秘密とは文盲である。それゆえ彼女が清潔さを保つことで担保していた何かがあった。文字を覚えた後彼女は清潔さを捨てた。彼女はあらゆることを悟った。彼女自身も自身の秘密に回顧的に自覚した。そのため彼女は「死ぬしかなかった」。

或いは彼女は彼女自身が殺した人々に引きずりこまれたのかもしれない。情緒的で短絡的な発想だが、文字を得て死者を追い払うことのできなくなった彼女が死を選んだことには、言語化された論理で説明できないような必然性を覚える。