東日本大震災のこと(北条裕子「美しい顔」)

※こちらは私個人の震災体験が半分以上を占める記事です。小説「美しい顔」に焦点を当てた記事がございますので、こちらをご覧下さい。

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群像 2018年 06 月号 [雑誌]

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

 

説明すると面倒くさいですが、群像新人文学賞を受賞した北条裕子さんの「美しい顔」を読みました。

なるほどこれはすごい、というような圧がある。後半になって急にそれが減圧されていく感覚に違和感を覚えないではないですが、それでもやはり、そこにエネルギーを感じます。

そのエネルギーが感じられるのは、きっと自分もまた、東日本大震災を、幼いながらに経験したからに違いないのです。そしてその感想を書こうと思うと、やはり文体は常体よりも敬体の方がしっくりと、思ったことが出てくるように思われます。それはこの小説を、常体的に、つまりは論理的に語ることは、他の方がなさるだろうし、その二番煎じには意味がないと思うからです。

ということで、多くの普通の読者がそうするであろうように、まずは私自身の東日本大震災体験を書いておきたいと思います。蛇足の感は否めませんが、まだあの地震については消化しきれていない部分が多く、書くなり何なりしておきたいという気持ちでもあります。そしてそれは私にとって懺悔でもあります。

 

2011年3月11日には、北海道にいました。

当時小学6年生だった私は、卒業式を間近に控えていました。中学の卒業であれば高校入試があったりして慌ただしいのでしょうが、小学生にそういうのはないし、クラスメイトの半分以上は同じ中学校に行くので、その卒業式には本当に儀礼としての意味しかないようでした。

卒業式を控えた小学6年生の私たちには「校舎に恩返しをする」というミッションが課せられていました。

その日、14時46分。担任の坂口先生は、雑巾をクラスの児童30余名に見せながら、来るべき大掃除の説明をしていました。

地震の発生は14時46分でしょうが、それはあくまで東北沖で揺れが起きた時刻ですから、北海道に揺れが到達した頃が何時頃だったか、覚えていません。ただ、クラスメイトの大村さんが「先生、揺れてる」というようなことを言いました。

今から思い返せば、思い返せば、確かにその頃異様に地震が頻発していて、教室でも「揺れてる」と誰かが言うと、少し鈍感な先生が「そうか?」と返し、「揺れてるよ」とみんなでそんな様子の先生を笑う、というのが繰り返されていて、それと同じだと思いました。

教室の窓際には針金が渡してあって、そこに雑巾がかけられています。坂口先生は、そこにかけられた雑巾が揺れるのを見て地震を確認しました。

「机の下に入れ」と先生が言ったのは、あくまでマニュアル的な指示だったと思うのですが、当時地震が頻発していたわけですし、ふざけた感じで机の下に入りました。

揺れは収まりません。体感では、5分か、10分か続きました。途中で揺れの性質が変わったことにも気がつきました。それが初期微動の縦揺れと主要動の横揺れの切り替わりだったのだと知ったのは、その翌年、中学1年生の理科で地震について学んだ時です。

揺れは収まりません。いつもより異様に長く、気持ち悪い感じがありました。

実はその時、揺れが頻発していたこともあって、それに1月は阪神淡路大震災のあった月ですし、ネットサーフィンが趣味だった私は、阪神淡路大震災についてウィキペディアを熟読していたこともあって、そういうことを思い出していたのだと思います。

揺れは収まりません。机の下に入っているクラスメイトは、少し不安な、或いは反対にそういうアトラクションに乗って楽しい感じもありました。その中で金山くんという男の子が「死ぬときはみんな一緒だよ!」と叫び、クラスが笑いに包まれました。

揺れがやっと収まると、「先生方は職員室にお集まりください」という教頭先生の声の放送がありました。ギター片手にフォークソングを歌うような教頭でした。

私は、その手の大きな地震があったときには、きっと迷わず校庭に避難するのだろうと思っていました。よくよく考えると3月の北海道ですから、校庭には雪が積まれています。私の小学校では校庭にスケートリンクを作るのが常で、流石に3月にもなればスケートリンクはないでしょうが、スケートリンクはなくとも雪があったのは想像に難くありません。

職員会議は嫌に長かった。児童を帰すなら帰すと決めればいいのに、とイライラしていたのですが、体感では40分ほど先生がいませんでした。もちろん実際はそんなはずはないし、20分ほどだったと思います。

帰ってきた先生は、いつになく真面目な顔をして下校の準備をさせました。

私は下校しました。いつもどおりの道を、いつもどおりに歩きながら、下校しました。

家に着くと、母親と弟が玄関に迎えに出てきました。

「大丈夫だったの?」と聞かれました。弟は下級生で、その日は早く帰っていたようでした。

「震度が7だって」というようなことを言われました。マグニチュードの話だったかもしれないですが、それを聞いた私は、咄嗟に阪神淡路大震災ウィキペディアを思い出していました。そして、今回の地震の規模が、あれを凌ぐレベルのものだと直感しました。

当時はまだ少し分厚かったノートパソコンで、それほど仲の良かったわけでもない友達とメールで地震の話をしたり、テレビの津波の動画を見ていたりしました。

はっきり言えば、ワクワクしました。なんだかものすごい場面に立ち会ってしまったような浮遊感でいました。北海道弁ではこれを「おだつ」というのですが、間違いなく当時の私はおだっていました。

まもなく、インターネットは接続ができなくなりました。同時に、電話も繋がらなくなりました。私は、たかだか震度3か4を感じたに過ぎないところで、小さく孤立しました。

うちは最初はNHKでしたが、フジっ子だったのもあって、安藤優子キャスターが状況を伝えているのを見ていました。

津波津波津波。夜になって暗くなると、今度は石油コンビナートの出火。

翌朝の北海道新聞はぶち抜きで津波に襲われた東北の写真。

まるで日本が壊滅して、北海道だけが残ってしまったような。

当時は枝野官房長官でしたが、この人も寝ていなかった。みんな凄いなあ、と思いました。当然ですが、発生直後は被災者の映像なんかはなかった。繰り返されたのは津波の映像でした。

インターネットも電話もすぐに復旧しましたし、私はおだったままでした。

卒業式はつつがなく行われました。いいえ、つつがなくというのは嘘かもしれません。黙祷を捧げた記憶があります。そして校長先生が「東北には卒業できないたくさんの子どもたちがいます」と言いました。

4月には入学式でした。入学式、中学校の校長先生は「東北には入学できないたくさんの子どもたちがいます」と言いました。「この中学校でも3月に生徒会が中心になって募金が集められました」と言いました。

その時私は直感しました。私の人生は今後、すべて、この東日本大震災に呪われていくのだと。

中学校の卒業式。校長先生は「皆さんが入学した年には東日本大震災が起こり」と言いました。

高校の卒業式、PTA会長は「皆さんは激動の時代を生きてきました」と言いました。

私は、私の人生の節目が、東日本大震災に呪われていくことが嫌でたまりませんでした。

そして今も私は、東日本大震災に思いを寄せられずにいる。

だから私は「花が咲く」のような歌は大好きです。被災地に思いを寄せています、というようなフリができます。あれを聞いているだけで自分も、自分も被災地に同情を寄せられる人間なのだという気がして、自分が東日本大震災の呪いを憎んでいることを忘れられる気がして。

しかし時々思い返します。東北で2万人が死んだとき、私は友達の発した「死ぬときはみんな一緒だよ!」という冗談に大笑いしていました。東北で2万人が死んだとき、私はいつもの道をいつもどおりに歩いていました。東北で2万人が死んだとき、私はワクワクしながらテレビの津波の映像を眺めていました。東北で2万人が死んだとき、私はその地震が、自分の人生の門出を汚していくことを憎んでいました。

私にとってもうあの地震は、カタルシスにしかならないのかもしれない。ドラマチックな悲劇としか感じられないのかもしれない。上っ面だけの同情と哀れみに涙を流して、内心では自分の人生を邪魔した震災を憎んでいる。

 

さて、もうこの時点で3000字以上書いていますが、小説の内容に戻れば、この作家も私と少なからず同じ感覚を抱いていたようです。

それは「あの時何もしなかった」という感覚。

しかしこの作者は、それを小説にした。この作者は被災者ではない。東京の人です。けれど、「東京の人」が「東北」に向けたあの視線を、誰よりもよく自覚している。

十七歳の少女サナエは弟ヒロノリと二人きりで避難所にいる。

母親と会えない自分の境遇を売り物にして、東京のマスコミに頻繁に登場する。そこで悲劇のヒロインを器用に演じることで、自分自身が浄化されたような感覚を覚える。

東日本大震災の話になると思い出すのはドラマ「あまちゃん」でのセリフです。だれが言ったか、もう覚えていないですが、「私たちはいつまで被災者でいればいいんだ」というようなものだったと思います。

しかし彼女は、あくまで消費される「被災者」に徹することで平静を取り戻そうとしていく。彼女は〈東京のマスコミ〉を利用する。

かと言ってこれが、カタルシスに大災害を利用した〈東京のマスコミ〉への、一種ウヨクじみたマスコミ批判であるというわけではない。一人称で吐露される心情は、そうした余念を挟む余地なく、私たちを襲う。

希望と絆の良い話に消化した悲劇の実相。私たちが目を向けることのできなかった現実。読者に同情を挟む余地はない。ただ、恐怖心だけが巻き起こる。

面白い小説を評価するのに「ページをめくる手が止まらない」というものがありますが、本作についてはどうでしょう。少なくとも私は「読むのを止めたい」と思いました。何度も。けれども前述の後悔からでしょうか。「読まねばならない」というような使命感もありました。

主人公〈私〉に同情できるかはかなり微妙です。けれども、そうでないにしても、彼女の内心は私たちに何かを突きつける。そしてそれは、希望には昇華しきれないものです。

それについては、私がこの小説中で一番好きだった部分が、近からず遠からぬ表現をしていると思います。

 これから、いくどもいくども日常との戦いに敗れ、敗れて敗れて、もうこれ以上負ければ駄目だと思いながらも負け続け、しかしやはり負け続ける以外に生きていく術がなく、それに気がついては絶望するのだろう。

多彩な、という表現が適切かわからないけれども、圧倒的な圧力を持った筆致の中で、特に好きな部分。

私たちは、地震を希望や絆の悲劇に昇華することをやめる。ロミオとジュリエットは死んでしまったけれどキャピュレット家とモンタギュー家は仲良くなりましたとさめでたしめでたし、みたいな終わり方は認めない。

私たちは、あの地震に負け続ける。そしてそのことを知っている。勝とうと、その地震カタルシスに矮小化はしない。ただ、負け、負け続ける。

それは被災者に限った話ではないのではないでしょうか。

本作は芥川賞へのノミネートも期待されているようです。

そうしたところから考えても、この作品が「震災後文学」の一ページに確かに刻み込まれることは間違いないと思われます。

しかしそれが「敗北」の宣告と自覚を意味するのだということを、忘れてはいけないのだという気がします。