拝啓「死にたい」と言わせない社会へ

先日ふと死にたいというようなツイートをすると、それが原因でアカウントが凍結された。それを凍結と呼んで良いのか分からないが、該当のツイートを削除することを強要された上に、12時間アカウントが閲覧以外で利用できなかった。

該当のツイートの内容は上述の通り消してしまったので、実はもう分からないのだけれど、「死にたい」ということを書いていたのだろう。それも、今までも書いたことがないわけではなかったので、かなり決定的な書き方をしていたのだと思う。(じゃないと納得できない)

サクッと言えば、「それで誰かに迷惑をかけましたか?」という感じがする。

「死にたい」と呟いている。確かにそれは目障りだろう。しかしTwitterのタイムラインは常に目障りなツイートが並んでいるものだし、日本で今日この日もたくさんの人が自らの命を絶つことを選んでいる現状の一方で、「死にたい」と呟くとそれが削除されていく、ということに違和感を感じはしないか。

この違和感は、かつてどこかでチラと聞いた「平壌では障害者と出会わない」という種のものと通じると思う。見えなければいいのか?

もちろん自傷行為に走るのは良くない。僕個人の問題だが、リストカットの画像や、それを仄めかす画像がTwitterで回ってきたときは、そのアカウントをブロックしたり、程度によっては通報することもある。けれど、漠然と、「死にたい」と呟くことは、そんなに「悪い」ことだろうか。

もちろん答えは「悪い」のだろう。「死にたいなんて言っちゃダメ! きっとこれから生きてれば楽しいことがあるよ! がんばろう!」と優しい声で慰めてくれるのが聞こえてくるようだ。だが、その慰めに本質的にどのような意味があるのか?

今この国で、あるいは世界的に、「死にたい」と考えることが難しくなっている。「死にたい」と検索すれば、「まずは相談して」みたいな感じでNPOの電話番号が表示される。まともに「死にたい」と思うことさえ許容してくれない。

ここで「死にたい」と思う人達によって芸術は大成してきたのだ、太宰を見てみろ、芥川を見てみろ、三島を、川端を、と言ってみてもいい、のだが、そうすると肝心の自分が入らない気がするので、あまり論は広げないでおく。

ただ、「死にたい」というのがある種「メメントモリ」の変種であることは理解されてもいいだろうと思う。

「死にたい」と考えるとき、「いつ死のうか」と考える。それまでに何かやり残したことはなかったろうか、遺書には何と書くべきだろうか。きっと家族は悲しむだろうから何か書いていってやらなくてはならない。

本当に死ぬのかは、「死にたい」と思うこととは明確に「別問題」である。

それなのに、それなのにだ。「死にたい」に対して「死んじゃダメ」などと言ってみろ。「自分はしてはいけないことを願ってしまっている」と罪悪感を抱いた人は、もう救われない。きっと電話もしない。ネットに頼ることもしない。深々と自分の弱くて脆い内面を直視し、羞恥心と罪悪感の中で、今度は誰にも悟られることないように「死にたい」と呟くのだ。Twitterではない、ボソッと口元で。誰にも聞こえない音量で。

「死にたいなんて言っちゃダメ」と言う奴らが、同じ口で「いじめられている子達は学校に行かなくてもいい、逃げ場所はたくさんあるんだよ」などと言う。馬鹿馬鹿しい話だ。

自殺志願者にとって「死にたい」と独りごちることがその人にとって「逃げ場所」であることになぜ気がつかない? 「死にたい」が永遠に「死にたい」であり続ける限り、実際に死ぬことなどありはしない。その中に自分を閉じ込め、何とか懸命に生きようとしている姿に対して「死にたいなんて言わないで」だ? 「死にたい」を否定された自殺志願者は、いわばストッパーを失ったも同然だろう。

そもそも電話で相談に一体どんな意味があるのか。電話してみたことはないから分からないが、老後のボランティアで若い人の話を聞く、みたいなスタンスの人たちが、毎回コロコロと担当を変え、「いかにも」に返答してくれたって、全ての人が救われるわけではない。

メールで相談することができる場合もある。自分も一時期酷く精神がやられていて、殆んど逆流性食道炎みたいになっていたときに東京カウンセルという無料でメールを通したカウンセリングを受けられる、というのを試したことがある。楽になったか? いや、全くだ。

「今初めてご家族のことを話してくださいましたね。ここまで話したがらないなんて、きっとご家族のことがあなたの精神状況に影響しているんでしょう」

何を言うか。お前が今の今まで訊かなかったから答えなかっただけじゃないか。

もちろんメールじゃ分からないこともたくさんあるし、一日一通メールをするだけというのに端から難があるのだろう。じゃあ精神科に行こうか。ダメだ、保険証を通じて家族にバレる。地域の保健福祉センターにはそういう対応をしてくれるところがある。無料だ。普通のカウンセリングは50分5,000円を取ったりするから、良心的ということだろう。でもそうすると、まるで「病人」じゃないか。

ふと「死にたい」と呟き、線路に飛び降りたいと願い、首を吊りたいと思う。それはタダだ。そのことの一体何がいけないのか? そう考え続ける限り、実際に死んだりはしないのだから。

自殺者を減らしたいなら真っ先にすべきは「自殺しないで」と自殺志願者に言うことじゃない。自殺へ導かせることになった環境を変えることだろう。

失業率と自殺者数に相関があるなら景気を良くしろ、失業率を下げろ。いじめを苦にして自殺するなら、いじめを素早く察知できる体制を整えろ。そういう問題だろう?

自殺しそうな人の自殺を思いとどまらせるのは、効果の有無に関わらず「いいこと」に違いあるまい。けれど、それは解決策ではなく、大勢の「いい人」の自己満足であり、「死ぬのを止めました」というアリバイでしかない。けれど人は死に続けるだろう。「死にたい」と願う人は、決して「いい人」を求めてはいない。「一緒に死のう」と言ってくれる人を求めているのでもない。反対に「お前なんて死んでしまえばいい、そうだ、自殺しろ」と唆す人を求めているのでもない。

「死にたい」と言ったことを誰かが覚えてくれていて、それでも世界は何事も無かったかのように動いていく、タイムラインはつまらないギャグと聞いていない誰かの今の報告で埋め尽くされる。それでいい。そんな社会で「死にたい」とは思わない。自分が消えても何も変わらない社会で、自分が消えようとは思わない。最後に歴史に名を刻むようなことをしよう、とあらぬ方向にその意思が向いてしまう場合を除いて、良心が残る限り、「死ぬのは少しの間待っておこう」と思う。それでいいじゃないか。なぜこの社会では「死にたい」と言うことが許されないのだろうか?