ドラマ「サバイバル・ウェディング」

冒頭を割いて吉沢亮の魅力を書き尽くしたいところですが、少し抑えます。それでも書かないわけにはいかないので、一段落だけお付き合いください。

最初に吉沢亮を見たのは「仮面ライダーフォーゼ」で、違う高校からやってきたミステリアスなキャラクターが、正体がバレた途端コメディチックになる。次に見たのは映画『オオカミ少女と黒王子』だったんだけれど、これは主演が二階堂ふみで、相手役が山崎賢人! 山崎賢人! 吉沢亮山崎賢人! なら、断然吉沢亮! と思っていた僕個人は、とても落ち込んだのでした。それからアミューズのハンサム・シリーズをよく見ていて、やっぱりイケメン! 美形! 尊い! と繰り返していたところ、近頃ポツポツ色々な映画で主演級を張るようになって、やっと! やっとこの役!

という感慨があった上での本作です。

タイトルから分かる通り、「結婚する」というのが明確なゴールとして示されているわけですが、ここ数年だと似ていたのは「ボク、運命の人です。」だろうか。あれは「運命」という陳腐化したエッセンスを逆手にとってコメディアレンジした完成度の高い作品だった。

もう少し遡れば「野ブタ。をプロデュース」とかもあるわけで、「結婚」というゴールを追求するような作品は存外に多い。

むしろ反対を張っていたのは「結婚しない」というドラマ。当時徐々に若者の未婚率の上昇が問題になっていて、それが「結婚できない」ではなく「結婚しない」という決断である、というのが取りざたされるようになった上での文脈だった。

当時第一話でそのグラフが紹介されていた。グラフ! と当時の私は戦慄した。以後そうで、フジテレビ系は「現代」を捉えた(とアピールしたがるような)ドラマが続いた。

一種これはポリティカル・コレクトネス的なのだと思う。「とりあえず結婚しとけ」的な流れへのアンチテーゼ。志は高いのだろうが、ドラマは高い志だけで作られるものではない。

例えば野木亜紀子の脚本は、ポリコレ的でも少し違う。「逃げるは恥だが役に立つ」は典型だと思う。「結婚」という概念を揺さぶったこともさることながら、そこに登場したゲイへの対応がまさにそれだった。

ゲイであると知ったら、驚くか、気味悪がるか、陰口をたたくか、現実ではそうなのだろうが、この作品では誰もが普通に通り過ぎる。それはポリコレ的で、「正しい」。

「結婚だけが正しいゴールではない」というのは、頭では誰しも分かっているポリコレ的な解答だろう。しかし多くの人は結婚した他人に「おめでとう」と言うのだし、未婚の他人に「結婚しないの?」と言う。この辺りは村田沙耶香の作品を読むと暴かれる感覚である。『コンビニ人間』など、そういう言わば「社会」としか呼ぶことのできない何かを描いた作品が目立つ。

その「何か」とは何なのか、はまだよく分からないし、ここでは本筋ではないのであまり深堀はしない。

じゃあ、そんなポリコレ的な流れにあって「サバイバル・ウェディング」にはどのような仕掛けが隠されているのだろうか。

というと、その答えは「資本主義」だと思う。

雑誌業界を描いたドラマとしては「ファーストクラス」なんかが取り上げられると思うのだが、やはりそこにあるのは、前月号の部数が如実に現れる「資本主義」的な側面だと思う。

正しく黒木さやかに宇佐美博人が伝授したのはマーケティングだった。「資本主義」的な社会の中で、男性を消費者とした場合、選択される女性たれと指導した。

もちろんこれは「女性の商品化!」だの「男の傲慢さの表れ!」だのいう批判を招きかねないのだが、この作品はそれを嘲笑する。「だって実際そうでしょ?」と。

そういうポリコレ的な男女平等がある前に、現実に我々が面している「選択」を媒介とした「結婚」という制度。「だってそうじゃん」とこのドラマは高尚な志を嘲笑う。

 

とは言いつつ、この作品が好ましいのは柏木祐一がさやかを選択するまえに、さやかが柏木を選択したことだった。「好きな男に好かれるためのマーケティング」であって、「男性から好かれるためのマーケティング」ではない。対象が絞られているし、その絞っている主体がさやかであることで、フェミニズム的な気持ち悪さを回避している。

もっと別の観点から言えば、このマーケティングは柏木から好かれるための「手段」に過ぎず、男性から選ばれるというような「目的」ではない、ということだと思う。

 

と、ここまで語れば避けられないのはインドの話題だと思う。

柏木のインド信仰ったらないのだけれど……ちなみに言うと柏木の父親・柏木惣一が言う経済観はだいぶトンチンカンで*1、この親子にはびっくりさせられるのですが、インドってそんなに素敵なところかしら、とは思う。

この辺り、柏木が「意識高い」人間であることを証す仕掛けなんだろう、ということで、あまり深入りしたくない。というのは、やっぱりここには一種のオリエンタリズムがあるのだろう。

 再び「結婚」の話題に戻ろう。「結婚」が果たして人間にとってどのような意味合いを持つことになるか。例えば平塚らいてうはこう言います。

 それから申し忘れましたが、昨日お母さんから結婚もしないで、若い男と同じ家に住むといふのはおかしい、子供でも出来た場合にはどうするかといふやうな御話もございましたが、私は現行の結婚制度に不満足な以上、そんな制度に従ひ、そんな法律によつて是認して貰ふやうな結婚はしたくないのです。私は夫だの妻だのといふ名だけにでもたまらない程の反感を有つて居ります。それに恋愛のない男女が同棲してゐるのならおかしいかもしれませんけれど、だから其場合にこそ他から認めてでも貰はねばならぬ必要があるかもしれませんけれど、恋愛のある男女が一つ家に住むといふことほど当然のことはなく、ふたりの間にさへ極められてあれば形式的な結婚などはどうでもかまふまいと思ひます。(平塚らいてう「独立するに就いて両親に」(『青鞜』第四巻第二号(青鞜社、一九一四年二月)))

流石らいてう先生、という感じだろう。「現行の結婚制度に不満足」であり、「そんな制度に従」うことはできないので、「法律によつて是認して貰うような結婚はしたくない」というのだ。

結婚とは少なくとも現下の社会システムにおいて、国家にある男女間の恋愛関係を届け出て、両者の経済的共生関係を法的なものにすることでしょう。それに対して「恋愛の愛男女が一つ家に住む」のは「当然」だから、「形式的な結婚などはどうでもかまふまい」というらいてうの発言は、あくまでその通りのように思われる。

ではそんな「結婚」をハッピーエンドと見なすことができるか、あるいは「束縛」への道だと考えるかは人によって異なる。

さて、ここが面白いところだと思う。

僕も昔リレー小説のようなものをやったことがある。かなり楽しかったのでその後も何度かやろうとしたことがあるのだが(できていないが)、何が楽しいかと言えば、他人が自分と同じものを違うように見ていることが実感できる点だ。

「結婚」をどのように捉えるのか。「ボク、運命の人です。」なんかはそれが「子供を作る」ないし「世界を救う」にと接続することで、「結婚」それ自体を空洞化しているようにも思える。つまり「結婚」を素晴らしいものに仕立て上げるべきではない、という感覚が働いていたのだろう。

あなたのことはそれほど」なんかを見てみると、その「結婚」が「束縛」として機能していたことが分かる。「カルテット」も然りだろうか。

そうした中で「サバイバル・ウェディング」はあくまで「ウェディング」がゴールで、そこに向かっていく。ではその「ウェディング」をどのように扱うのか。

例えばそこには「ボク、運命の人です。」のような空洞化された「結婚」はない。

面白いのは、そこに「インドでの新生活」という要素が付け加わり、「私が養います」と言ってのけるさやかがいることで、「結婚」の先にある「生活」に焦点が合わされていることだと思う。

この作品の面白さは、むしろその「生活」が透いて見えるところではないだろうか。

*1:柏木惣一は金融緩和反対派、外国人労働者反対派なわけだけれど、金融緩和(もといマネタリズム)政策なしで経済が上手くいくならとっくに自民党政権のバラマキで経済がよく上手くいっているはずで、外国人労働者は既に入ってきてしまっているし、企業経営者は概ねそれに賛成している。