村田沙耶香「地球星人」

新潮 2018年 05月号

新潮 2018年 05月号

 

 村田沙耶香さんの「地球星人」。ネットでは概ね好評で、時々、その終わり方に不快感を示す方もいらっしゃる様子。

さて、結論から言えば、この小説は確かにすごい。そして、確かにその終わり方は快いものではない。

奈月は、姉・貴世と両親の4人家族の中に、居場所を見出せずにいた。そんな彼女は、自分がポハピピンポボピア星からやって来た魔法警察のピュートから魔法少女として任務を託されていると信じることで、何とか耐えていた。

毎年夏になると行く田舎・秋級で出会ういとこの由宇は、自分が宇宙人だと信じながら暮らしており、二人はそうした点から小学生ながら恋人になっていた。

奈月は、通う学習塾の大学生講師・伊賀崎に性的な行為を強要されるが、伊賀崎は奈月が幽体離脱を想像した時に何者かに殺害される。更に奈月は、祖父の葬式に合わせて向かった秋級の地で、由宇と「セックス」をする。

そのことが露見し引き離され、二度と由宇とも会えず、秋級の地に訪れることもなかった奈月は、家族から監視され続け、その監視から「すり抜け」るように、便宜上の妻を探していた智臣と便宜上の結婚をする。

かねてから奈月が智臣に語っていた秋級の土地に向かった奈月と智臣は、人間の「工場」と化す社会に違和感を覚え、智臣は「工場」ではない性交をと兄弟との近親相姦を試みるも、それが露見し、奈月と智臣の夫婦が「仲良し」をしていないことを不思議がられる。

そんな「工場」としての社会から逃げ出した奈月・智臣は、由宇をも巻き込んで秋級の土地で、感染したポハピピンポボピア星人として暮らしていく。

あらすじはこんなところだろうが、この後もだいぶ続く。というかむしろショッキングなのはその後である。

三島由紀夫の「美しい星」との比較で語る向きもあるそうだが、お恥ずかしながらそちらは未読。共通するのは、「自分たちが地球人ではない」という意識。この場合は「地球星人」と呼ぶべきなのだろうが。

作品全体を通して、生殖によって人間を生産するための「工場」としての〝地球〟と、仮想される合理化された〝ポハピピンポボピア星〟の中間として理想化された田舎としての〝秋級〟が存在する。

オリエンタリズムに対して、いわばカントリズムとも呼ぶべき、一種の田舎賛美が見られる作品というのは存外に多いが、この作品では、実際に彼らが都会といういかにも「工場」的な所から逃避した先としての秋級で〝ポハピピンポボピア星人として〟生活していたという点で、異化された田舎がある意味立証される。*1

一方で、奈月や幼い頃(そして大人になってから)の由宇、智臣の感じていた、他者からの圧倒的な疎外感。彼らはそれが「自分たちが洗脳されていないため」と解し、自己防衛的に奈月が用いたポハピピンポボピア星という設定が共有されていく。

興味深いのは、〝地球星人〟たりえるために必要な〝地球人の目〟は〝洗脳〟であるが、一方で〝ポハピピンポボピア星人の目〟は〝ダウンロード〟されるという非対称性である。

後半における秋級での共同生活は、読者目でも、明らかにお互いに〝ポハピピンポボピア星人〟たれ、と洗脳し合っているようにしか見えない。こうした相互の洗脳は、むしろ地球星人が行う教育(ないし成長)を〝洗脳〟と呼ぶこととダブって見える。

また彼らはその共同生活で貨幣を使って生活することに合理性を見出せず、隣家から盗むことにする。この貨幣に対する違和感、あるいはそれ自体が価値尺度としてではなく価値そのものとして存立する違和感はマルクス以来のものだろうが、非常に原始的かもしれないが、むしろ〝人間性〟を感じる。

彼ら自身が、実際には秋級という、地球とポハピピンポボピア星の中間に位置する異化された田舎の、夏には親戚が集まるような人間くさい(あるいは地球星人くさい)家でポハピピンポボピア星人として生活を送っていたこと、服を着ることに合理を感じられず〝アダムとイブ〟のように裸で生活すること、性欲を切って捨てた上で、奈月はほのかに性欲を覚えること、性欲を捨てた彼らが、食欲を満たすためにカニバリズムをいとわないことは、むしろ彼らが〝ポハピピンポボピア星人〟ではなく〝人間〟であることを明らかにするようである。

彼らは〝地球星人〟から〝ポハピピンポボピア星人〟に合理的に発展する一方で、むしろ非常に人間的に回帰しているのではあるまいか。

むしろこれは、科学技術の発展や時代の進展と共に人間性を喪失し、私たち自身がむしろ〝地球星人〟として異化されていることへの警鐘なのではないか──〝警鐘〟というのは嫌いな言葉遣いなのだが。

ただ、生殖を普通とした確かに「工場」的な我々の世界の〝人間らしさ〟なる欺瞞に気付かされた今では、〝ポハピピンポボピア星人〟の言い分が間違っているとは必ずしも思われない。

その果てしない不安感(と「不快感」)が読後に残る作品である。

*1:一方で映画『君の名は。』における糸守も「母なる大地」的な聖地化された田舎として存立するが、そこに妥当性は垣間見られない。(なぜあれが東京と大阪では駄目だったのか分からない)