サブカルと国家表象の備忘録

土曜日、本当は暇じゃないしやらなきゃならないことがあるので図書館にいますが、かと言って無機質な「オシゴト」ばかりでも嫌になっちゃう。

ということで、暇つぶしに備忘録を書いておこうと思う。

ここ最近考えているのがまさにここ、「国家表象」なんですね。

なぜかというと、仮面ライダー仮面ライダーに関してはもう別のブログでやっているんだけれど、現在放送中の「仮面ライダービルド」はある意味で異例だった。

というのは、この作品、作中で日本が3つに割れているという話なんだけれど、仮面ライダービルドなどの主人公ライダーたちは、その中の東都という国に与して戦う。

「国に与して戦う」? 実はこれが個人的なこの作品に対する評価を下げている。

仮面ライダー、戦隊ヒーロー、ウルトラマン、そうした特撮モノは、つまりヒーローものであるがゆえに、そのヒーローの強大な力を国家とは切り離さなくてはならなかった。

だって、国家に与すると、その途端、ヒーローは「軍事力」に変貌する。

このあたりについてぼんやりと考えていることを、できるだけ他作品を参照しながら書き留めていきたい。

まず、軍事力化するヒーローがどう忌避されてきたかという点で考えると面白い。

例えば、「ウルトラマン」シリーズにおいては、主に助力者組織が登場する。科学特捜隊に連なる系譜だが、基本的に彼らは国家機関ではない。国家機関にすると、それはたちまち軍に変貌を遂げるからだ。

それを避けるための方法は2つある。1つには、国際機関にしてしまうこと。つまり、国家が軍事力を保有することに抵抗はあっても、国連軍的な国際秩序と平和を保つための軍事力は許容されやるい。もう1つは、民間組織にしてしまうこと。こちらに関しては「ウルトラマンコスモス」の例しか知らないのだが、軍事力を保有している民間組織、というのは設定が難しく、最終的には国際機関になってしまっている。その上、「ウルトラマンコスモス」に登場するSRCという組織は、常に自衛隊的な存在らしい防衛軍とやたら対立する。つまり国家権力との対立を描くことによって、その距離感を演出している。

という手法についてはあまり珍しくない。例えば「仮面ライダードライブ」では主人公は警察官だが、自らが所属するはずの桜田門にある警視庁庁舎からは遠く離れた自動車学校に本拠地を持ち、作中一度自らの所属するはずの警察から指名手配を受けている。その上、主人公・泊進之介の父の仇は参議院議員であり国家防衛局長官の真影。仮面ライダーにおける「父の克服」という命題から言えば、この真影を倒すことは至上命題であって、つまり泊進之介は「父を克服」すると同時に「国家を克服」しなくてはならない。

戦隊にしてもそうで、現在放送中の「快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」におけるパトレンジャー。もちろんパトレンジャーは「特捜戦隊デカレンジャー」の系譜にあるはずなのだが、こちらは「国際警察」を舞台としている。

現在放送中の「ルパパト」に関してはその「国際警察」というのありきで、そこから銭形警部を想起させる形でルパンレンジャーが登場している事実は否定のしようがない。

警察ひとつ出すのに「国際警察」という舞台を用意しなくてはならない。そうでなくても、サスペンスドラマに出てくる警察といえば基本は所轄署であり、そうでなければ警視庁内の窓際部署。つまり国家権力に属してはならないという命題は、セカイ系の議論とつながりそうな気もするのだが、それを考え出すと面倒くさいので今回はやめておく。

さて、そうやって国家権力と距離を置くのって普通なのだろうか、というと、確かに普通なのだが、アメコミを見るとそうともいえない。

キャプテン・アメリカなんて名前に国を背負っているし、彼らは国家のために戦うことができる。そのへんがアメリカと日本の違いだと思う。これに終始した話ではなくて、例えば「007/ダブルオーセブン」シリーズを見てみてもそう。彼はイギリス人で、イギリスのために戦うスパイだけれど、執拗なまでの濡れ場があったり、最近の作品を除けばポップな作品も多い。

反対に日本で言えば、珍しく日本のスパイものを扱った「外交官 黒田康作」シリーズなんかがドラマ化・映画化もされたところだが、なぜかそうなるとハードボイルドになってしまう。「ジョーカー・ゲーム」もアニメにも映画にもなったと思うが、舞台は戦前に置かざるを得なかったし、やはりハードボイルドな感じになる。

国家のためにポップに働く、というのはどうやら日本ではうまくいかないらしい。

国家との抵抗について真正面で向き合った作品と言えば「PSYCHO-PASS サイコパス」があると思うのだが、これが面白いのは作中では「国家」とは「シビュラシステム」に置き換えられるわけだが、常守朱はシビュラシステムの手足として働く一方で、彼女自身シビュラシステムへの疑念を深めている点。疑念を深めている、というような簡単なものではなく、シーズン2でははっきりと対抗している。

最近見ていて面白いと思ったアニメに「プラネテス」というのがある。宇宙開発の現実味が神話ではなくなってくる一方で、その現実味にやはり我々が幻想と可能性を感じているという状況だからこそできたアニメなのだろうが、そのなかに「スペースデブリ」という現実を突きつけつつ、それに対処する人びとを描く。

面白いのは、宇宙だから国境がない。そして人種も様々。国家を超越したところから反対に国家を語る、というところは、例えば同じ宇宙を舞台にする「機動戦士ガンダム00」なんかとは違う。あれは国家から離脱したところから国家を攻撃する、ただし否定しているわけではない。

アニメ「ガールズ&パンツァー」なんかは、国家の描かれ方が面白い。というのは二種類ある。

主人公ら女子高生は、文科省の政策で廃止されそうになった自分たちの学校を守るために「婦女子のたしなみ」とされる戦車道で廃校を阻止しようとする。まずこのあたり、つまり、女性とはおしとやかであれ、的な言説に対して、「女らしい戦車道」という設定。これはロックだ。

つまり彼女らは、「女らしさ」なるものに対して仮想的な「女らしさ」で対抗し、なおかつそれを通して「文科省(国家)」にも対立している。しかもそれだけでなく、彼女らが戦う学校はいずれも擬似的な国家であり、アメリカ的な学校、イギリス的な学校、ロシア的な学校、日本的な学校などが登場する、模擬戦争となっている。

この自分たちの学校を廃校に追い込もうとする文科省(国家)に対抗しつつ、そのために擬似的に国家のステレオタイプを背負った学校を「女らしい」戦車道で戦う、という構造自体、今までの国家表象に一石を投じたと思う。

というところまで書いて、備忘録は終了。また思い出したらまとめよう。

村田沙耶香「地球星人」

新潮 2018年 05月号

新潮 2018年 05月号

 

 村田沙耶香さんの「地球星人」。ネットでは概ね好評で、時々、その終わり方に不快感を示す方もいらっしゃる様子。

さて、結論から言えば、この小説は確かにすごい。そして、確かにその終わり方は快いものではない。

奈月は、姉・貴世と両親の4人家族の中に、居場所を見出せずにいた。そんな彼女は、自分がポハピピンポボピア星からやって来た魔法警察のピュートから魔法少女として任務を託されていると信じることで、何とか耐えていた。

毎年夏になると行く田舎・秋級で出会ういとこの由宇は、自分が宇宙人だと信じながら暮らしており、二人はそうした点から小学生ながら恋人になっていた。

奈月は、通う学習塾の大学生講師・伊賀崎に性的な行為を強要されるが、伊賀崎は奈月が幽体離脱を想像した時に何者かに殺害される。更に奈月は、祖父の葬式に合わせて向かった秋級の地で、由宇と「セックス」をする。

そのことが露見し引き離され、二度と由宇とも会えず、秋級の地に訪れることもなかった奈月は、家族から監視され続け、その監視から「すり抜け」るように、便宜上の妻を探していた智臣と便宜上の結婚をする。

かねてから奈月が智臣に語っていた秋級の土地に向かった奈月と智臣は、人間の「工場」と化す社会に違和感を覚え、智臣は「工場」ではない性交をと兄弟との近親相姦を試みるも、それが露見し、奈月と智臣の夫婦が「仲良し」をしていないことを不思議がられる。

そんな「工場」としての社会から逃げ出した奈月・智臣は、由宇をも巻き込んで秋級の土地で、感染したポハピピンポボピア星人として暮らしていく。

あらすじはこんなところだろうが、この後もだいぶ続く。というかむしろショッキングなのはその後である。

三島由紀夫の「美しい星」との比較で語る向きもあるそうだが、お恥ずかしながらそちらは未読。共通するのは、「自分たちが地球人ではない」という意識。この場合は「地球星人」と呼ぶべきなのだろうが。

作品全体を通して、生殖によって人間を生産するための「工場」としての〝地球〟と、仮想される合理化された〝ポハピピンポボピア星〟の中間として理想化された田舎としての〝秋級〟が存在する。

オリエンタリズムに対して、いわばカントリズムとも呼ぶべき、一種の田舎賛美が見られる作品というのは存外に多いが、この作品では、実際に彼らが都会といういかにも「工場」的な所から逃避した先としての秋級で〝ポハピピンポボピア星人として〟生活していたという点で、異化された田舎がある意味立証される。*1

一方で、奈月や幼い頃(そして大人になってから)の由宇、智臣の感じていた、他者からの圧倒的な疎外感。彼らはそれが「自分たちが洗脳されていないため」と解し、自己防衛的に奈月が用いたポハピピンポボピア星という設定が共有されていく。

興味深いのは、〝地球星人〟たりえるために必要な〝地球人の目〟は〝洗脳〟であるが、一方で〝ポハピピンポボピア星人の目〟は〝ダウンロード〟されるという非対称性である。

後半における秋級での共同生活は、読者目でも、明らかにお互いに〝ポハピピンポボピア星人〟たれ、と洗脳し合っているようにしか見えない。こうした相互の洗脳は、むしろ地球星人が行う教育(ないし成長)を〝洗脳〟と呼ぶこととダブって見える。

また彼らはその共同生活で貨幣を使って生活することに合理性を見出せず、隣家から盗むことにする。この貨幣に対する違和感、あるいはそれ自体が価値尺度としてではなく価値そのものとして存立する違和感はマルクス以来のものだろうが、非常に原始的かもしれないが、むしろ〝人間性〟を感じる。

彼ら自身が、実際には秋級という、地球とポハピピンポボピア星の中間に位置する異化された田舎の、夏には親戚が集まるような人間くさい(あるいは地球星人くさい)家でポハピピンポボピア星人として生活を送っていたこと、服を着ることに合理を感じられず〝アダムとイブ〟のように裸で生活すること、性欲を切って捨てた上で、奈月はほのかに性欲を覚えること、性欲を捨てた彼らが、食欲を満たすためにカニバリズムをいとわないことは、むしろ彼らが〝ポハピピンポボピア星人〟ではなく〝人間〟であることを明らかにするようである。

彼らは〝地球星人〟から〝ポハピピンポボピア星人〟に合理的に発展する一方で、むしろ非常に人間的に回帰しているのではあるまいか。

むしろこれは、科学技術の発展や時代の進展と共に人間性を喪失し、私たち自身がむしろ〝地球星人〟として異化されていることへの警鐘なのではないか──〝警鐘〟というのは嫌いな言葉遣いなのだが。

ただ、生殖を普通とした確かに「工場」的な我々の世界の〝人間らしさ〟なる欺瞞に気付かされた今では、〝ポハピピンポボピア星人〟の言い分が間違っているとは必ずしも思われない。

その果てしない不安感(と「不快感」)が読後に残る作品である。

*1:一方で映画『君の名は。』における糸守も「母なる大地」的な聖地化された田舎として存立するが、そこに妥当性は垣間見られない。(なぜあれが東京と大阪では駄目だったのか分からない)

「この世界の片隅に」は何があるのか

この世界の片隅に
 

※原作漫画を参照せずこの文章を書いているため、あえて周作・白木リンの交流などには触れない。また、ネタバレを多分に含む。

映画『この世界の片隅に』を見た。あの邦画に『君の名は。』『シン・ゴジラ』といったヒット作が続いた2016年にあって、負けず劣らずの話題を振りまいた作品である。

そもそも別に見たかったというようなことはなくて、必要の上から、やむにやまれず、といった感じで見たのだが、結論から言えば、良くも悪くも、だったと思う。

考えてみれば当時も、「戦時下の生活の知恵が」や「実際に暮らしていた人々が描かれ」や「街並みが再現され」という風に話題になっていたのであり、ストーリーに関する話題はあまりなかった気もする。

戦争を描いた作品と言えば、個人的に最も遡れるのは「岸壁の母」くらいのもので、その次は映画『火垂るの墓』とか。ちなみに『火垂るの墓』は見たことがないので、偉そうには語れない。

自分の短い人生の中で言うと、お盆頃の終戦記念ドラマの類は、あえて誤解を恐れずに言えば「好きだった」という都合もあって、よく見ていた。その他にも小説『永遠の0』は映画化もされ、記憶に新しい。

そうしたところから、統計的でも何でもなく思われるのは、徐々に戦争の描写が軍についてに偏ってきているのではないかという点だった。

というのも、まだ終戦後しばらくは、戦争を経験した世代が雄弁に語り、戦争を経験した世代自身が作品を生み出したのだろう。しかし、その隆盛が終わると、多くの資料が集められ、なおかつ多くの証言も得られている軍に関するものが増える。

例えば戦争に関わらなくとも、歴史学で取り扱うのは、例えば平安時代ならば宮中や行政についてであって、当時の人々の暮らしは民俗学に分類されるのだろう。こうした具合に、機構的な歴史学的作品が、従来の民俗学的な作品にとって代わったということだろう。

この点は、多くの資料を踏まえて書かれたと思われる『日本のいちばん長い日』などに象徴的だ。

その後、その機構の中で、オーラルヒストリーの限界を感じ始めたころに生み出されたのが『永遠の0』。おそらく戦争経験者の声を聞く、という形で書く小説としてはこれくらいの時期が限界だったろう。戦争経験者の口を借りて、当時の彼らが知り得なかった情報を語らせている、という批判もあるらしいが、ここではあえて深くは取り上げまい。

その中にあって、この作品は時代錯誤の「民俗学的な」戦争映画ということになるかもしれない。

となると、やはり比較したくなるのは映画『火垂るの墓』である。その作品を見ていない分際で多くを語りたくはないものの、実際あれは「幼い子どもの死」を通して、反戦を訴えた、ある面では非常にイデオロギーにまみれた作品であると思われる。

しかしこの作品が決定的に違うのは、「誰一人として戦争に良いとか悪いとかいう判断を下さない」という点だ。この辺りは『はだしのゲン』などと対照的である。

日常を語ることに意味はあるか

この映画最大の特徴は、当時話題にもなったように、かなり生活に即した形で戦争が描かれたことである。否、この映画に描かれているのはあくまで「戦争」ではなく、「戦争の時期を生きた」というだけの「人々」である。

主人公・すずは絵を描くのが好きな少女である。であるからこそ、彼女の生きる世界は、少し幻想的である。

詳しくは後述するが、彼女の世界には獣的な異形の者や子供の形をとる妖怪のような何かが登場する。この点で、彼女の生きる世界とは、また「彼女自身によって描き出される世界」と一致する。

しかしこれはある時点をもって状況が一変する。時限爆弾で右手を失った瞬間から、彼女は「世界を描く」ことができなくなる。今まで一定のフィクション性を伴って彼女に迫っていた世界は、この途端急にリアリスティックに感じられる。しかし却ってそれは彼女にとって現実的ではない。否、写実的ではないと言っても良い。

彼女は右手を失った後の世界を「左手で描いた絵みたいに」いびつであると言う。彼女は右手を失ったことで、ますます「戦争」という現実に直面しなくてはならない。それだけでなく、これまでの右手の思い出を振り返ることで、遡及的に、フィクションだったはずの過去さえ、急にリアリスティックに変容する。しかしその時でさえ彼女は「戦争」に何らかの価値判断を下さず、まるでそれが避けられない天災であるかのように暮らす。

最後、玉音放送を聞いた後の彼女は、そうではいられない。(セリフはディクテーションにつき、精確さを保障するものではない)

そんなの覚悟の上じゃないんかね。最後のひとりまで戦うんじゃなかったんかね。今ここにまだ5人おるのに。まだ左手も両足も残っとるのに。

彼女がこう言った、否、彼女にこう言わせたのは、愛国心の類ではないだろう。それはその後に見える。

飛び去っていく。うちらのこれまでが。それでいいと思ってきたものが。だから我慢しようと思ってきたその理由が。ああ、海の向こうから来たお米、大豆。そんなもので出来とるんじゃなあ、うちは。じゃけえ、暴力にも屈せんといかんのかね。ああ、何も考えんうちのまま死にたかったなあ。

玉音放送後、彼女を襲ったのは、愛国心の危機、ましてや天皇陛下への尊崇の念の危機といったものではなく、もっと根源的な「アイデンティティの危機」であった。戦争のためを思って多くを我慢し、闇市で買った台湾米だの何だので食い凌ぎ、挙句右手まで差し出した戦争が──その戦争は「一億総火の玉」だの「本土決戦」だの威勢のいいことを言っていたのに──中途半端に終えられてしまい、それまでの自分の存在が危ぶまれるということに対する恐怖、憤り。

それだけでは、実際には私たちに「反戦のメッセージ」を直接伝えるものではない。もちろん、その豊かさからは程遠い生活、原爆の被害などを見て、「戦争はいけない」と感じる。しかし、あえてそれを誰の口からも話させない。きっとそれが、また一つのリアリズムなのだろう。

最後に彼女は、「左手で描いたような」いびつな世界から脱出する。そのことを、獣の形をした異形のものが証す。

さて、日常を語ることに意味はあるか。

再構成された物語は歴史叙述たりうるか

この物語は、前述の通り、いわゆる「妖怪」のように思われるものが登場する。獣の形をとり、すずと(おそらくは幼いころの)周作を連れ去る獣人と、すずの実家で屋根裏から現れる子供である。

前者にはどうやら兄が、後者にはどうやら白木リンが投影されているようであり、なおかつ、この存在が実在のものなのか、フィクションなのかは判然としない。しかし前述の通り、右手で絵を描くことを好んでいたすずにとって、この時の現実とフィクションの境目は意味をなさない。

そうした彼らが登場することだけでなく、他にもこの物語のフィクション性を示唆するのは、登場人物に悪人がいない点である。彼らは良い人だけの「構成された市民」として登場する。もしかすると実際には、当時の広島にはいい人ばかりだったのかもしれない。しかし、その可能性はほとんどないというくらいに低いだろうと思うし、違和感を覚えるほどである。

また、周作がいやに戦艦に詳しく、それを「女子供」であるすずや晴美に教えており、これがどの程度当時に即してリアルなのか疑問である。*1

こうした点から、例え街並みが当時そっくりで、当時そこにいたかもしれない人が実際に登場したとしても、この作品は「再構成された」と言うより他にない。

さて、再構成された物語は歴史叙述たりうるか。

この世界の片隅に」は何があるのか

そもそも「この世界」とはどこか。それについてはどこかの考察で「私達の生きる世界そのもの」とあったが、それには個人的には賛同する。それだけでなく、これに「普通の」というような含意があって、南の島の戦場のような特殊空間でなく、非戦争から戦争へと持続的に変化していった世界そのものを指しているのだろう。

「世界」という語がセリフとして登場するのは2度あったように思う。一度は最後の方にすずが夫・周作に礼を言う場面だが、その前にもある。幼い頃にどうやら好き同士だったらしい水原のこのセリフである。

お前だけは最後まで、この世界で普通で、まともであってほしい。

つまり、「この世界」を私達の日常とするのなら、当時、その世界に、徐々に戦争の波が押し寄せてきており、それによって「普通」でも「まとも」でもない世界に変容してきていると。その中にあって最後まで「普通」であり「まとも」であれ、ということである。

実際にはすずは、右手を失った時点でこの世界からは離脱を余儀なくされる。しかし彼女は最後に、疑似的に右手を取り戻すことによって「普通」で「まとも」に戻る。

それは原爆症で床に臥せるすみに話をしたり、最後に獣人を再び見たり、子供が抱きついてきたりするシーン、そして、エンディングでこちらに手を振る右手に象徴される。

この世界の片隅に」はすずがいた。すずは、その右手──この右手はすずの想像力そのもの──で世界を描いていた。彼女はある時、その右手とともに「この世界」からは離脱してしまったものの、戦争が終わり、再び「この世界」へと戻る。何かのきっかけというより、時間の流れのおかげかもしれない。

さて、その他には「この世界の片隅に」は何があるのか。

*1:ただしこの描写自体が、例えば映画『君の名は。』において、三葉の街が隕石によって破壊される一方、瀧が隕石を見て「美しい」と感じるというような対比のように、むしろ戦争に現実味を与えているとも言える。

映画『イフ・アイ・ステイ 愛が還る場所』

 いやはやこのセンスの悪い和訳は何とかならないものか。

原題は「If I stay」──それならまだわかるが、これをカタカナの羅列にしてしまうともう我慢ならない。中学生の英語の教科書に付された読み仮名みたいだ。

少し疲れたこともあって、極力頭を使わないものを、単純に楽しいエンタメ映画を、と思ったのだが、間違いなかった。たしかにテーマは少しシリアスなのだけれど、やはりラブロマンスという感じに展開するし、そういうオチを迎える。

不意に命を落としたあと、何らかの体験をするという例は、枚挙に暇がない。「If I stay」というタイトルからしてそうであるように、この映画は「選択」というのが一つのキーワードになる。

「あなたの選択があなた自身を作るのです」みたいな作品を見たことがある気がするのだが思い出せない。ドイツ文学だった気も、安っぽい日本映画だった気もする。まあ、つまりこれもさほど珍しい考え方ではなくて、運命論と同じくらい、もしかするとそれ以上に頻繁に取り扱われるだろうと思う。

主人公のメアはチェロの才能に恵まれた女性。両親がパンクでロックだったのに比べると、クラシックを好む彼女はまさに「秩序」の中にいる。

その「秩序」から、死が目前に迫る中、大きく逸脱した体験をする。それがこの映画であると言って構わない。

途中途中、過去回想が含まれることになり、なぜ彼女が直ちに「死のう」とも「生きよう」とも決められないのか明らかになる。

彼氏のアダムは、先に「トワイライト」シリーズをきっちり見ていると、なんだか振る舞いが陳腐に見えてしまうのだが、あれがいわゆる典型的な「イケてる男子」の振る舞いなのだろう。日本で言う壁ドンみたいな。

そう考えると、「トワイライト」でも2階のベラの部屋からエドワードを見下ろすシーンが幾度となくあったし、この映画でもそういうシーンがあったわけで、『ロミオとジュリエット』だなあ、と感じる。英米文学に与えしシェイクスピアの影響は偉大なり。

ロミオとジュリエット』と言うと、映画『ウォーム・ボディーズ』が、『ロミオとジュリエット』の美化されたバッドエンドを一笑に付すかのような痛快なハッピーエンドで好きなのだが、次見るときはきっちり頭を使って見ようと決めていたので、今夜の気分ではなかった。

その彼氏のアダムはロックな人間で、いわゆる「秩序」ど真ん中なメアとは合わないように見えて、これが合う。音楽ができる人間というのは、クラシックもロックも差別しないのだろうか。アダムもクラシックに興味があるらしいし(少なくともチェロの演奏会に行ったのが嫌々だったりデート目的だったりするとは思えない)、メアもアダムのロックの才能に関しては認めていた。

問題はメアが音楽を学ぶために遠距離恋愛になるかもしれない、との件。

大抵の恋愛もののお決まりパターンは漫画『君に届け』にあるというのが自説なのだが、進路に迷い、夢か、遠距離恋愛か、という命題は、きっちり『君に届け』にも収録されている。『君に届け』は偉大なり。

そうでなくても、やっと思いが通じ合った2人が、「夢」だの何だので引き裂かれるという話はよくある。大抵は北海道かバンクーバーがそれに使われるので、北海道出身としてはいたたまれない。

確かドラマ「きょうは会社休みます」のラストも似た感じで、最後は田之倉くんが帰国した空港のシーンだったような。空港は出会いと別れの場所。これは島国日本ってことなのかもしれないけれど。

そんなこんなで、クラシックという秩序の中のメアと、ロックという、むしろそれに歯向かおうとするはずのアダムがうまくいきつつも、遠距離恋愛につっかかる。

交通事故で重体の自分を、幽体離脱した自分が見下ろしつつ、自分がいかに愛されているかを知る、という。この手の「自分をいかに客観視するか」という点では、様々な作品が趣向を凝らしているところ。

もしかすると入れ替わりものもそういう傾向があるのかもしれないし、『ツナグ』なんかは故人との思い出をきっかけに自分を見つめ直す、ということだと思う。誰かの死に触れると自分を見つめ直す、というのは割に必然的なことかもしれない。メメントモリっていう。

となると、「いつ死ぬかわからないから毎日を大切に生きましょうね」という陳腐なメッセージになりがちなのだけれど、その点この映画はすばらしい。

かなり直前までメアは死のうと思っていて、最後にアダムがギターを演奏してくれたから考えを改めるものの、それまでは祖父の声かけも、親友の声かけも意味を成さなかった。

むしろ、家族をいっぺんに失ったメアが死を選ぶのは必然のように思われて、最後にそれを引き止めたのは愛だった。より陳腐に「音楽の力」と言う人がいるかもしれないが、「音楽の力」というのは聞こえがよくて好きじゃない。だって誰も「文学の力」だなんて言わないし、大抵「音楽の力」を標榜する歌は「前を向け」「走れ」「歌を歌おう」だけで構成されているんだもの。

もちろんメアとアダムに音楽が大きな意味を果たしていたのは間違いない。映画全体も、音楽に彩られている感じがあった。そして音楽とどう接するか自体が彼らの将来を決めるわけでもあるし。

しかし、音楽はあくまで彼らの「居場所」なのであって、利己的に音楽を愛している。

最後にメアは、チェロが実際には集合体の一部であり、ソロのためだけの孤独な楽器ではないと気がつくが、これはメアが多くの人に囲まれてきたことを象徴しているわけで、別に「音楽はすばらしい」という話じゃない。「音楽はすばらしい」を批判したいわけじゃないが。

つまり、メアが臨終に付して自覚したのは、多くの人に囲まれているということ。父は娘の才能に賭けて自分の夢を諦め、母も自分を応援してくれており、弟も協力的。アダムは最初こそ反対するものの、最終的には遠く離れた学校に行くことを応援してくれているし、キムは一番に寄り添って心配してくれている。

アダムのギターとメアのチェロでセッションしたときのように、実際にはたくさんの人に囲まれていて「ひとりじゃないんだよ」みたいなのが本旨なのだと思う。

「If I stay」に、例えば「in this world」と続くとすると、彼女に待ち受けているのは、きっと家族が誰もいないという苦境。しかし、それでも彼女は生きることにしたし、これからの彼女は自分が一人ではないと知っているぶんだけきっと強い。なんかそんなセリフどこかで聞いたことが。

まあ、そういう点で、「いつ死ぬかわからないから」云々という陳腐な話よりも、「あなたのそばにはたくさんの味方がいるんだよ」「ひとりじゃないんだよ」という方が、よほど優しく心に染み入ってくる。

その点で──アダムとメアのキスシーンが存外に多かったことを差し引きしても──この映画は見ていて気持ちのいい作品だったと思う。

セックスとしての映画『君の名は。』

君の名は。

君の名は。

 

 数年前に日本中が湧いたのがこの映画である。何だかそれにしては、例えば映画『千と千尋の神隠し』などが名作として名を残しているのに比べて、なんだかあの一時のものだった感が否めない。それは自分の界隈だけの話なのかもしれないが。

ユリイカさえ新海誠特集を組んだのだし、世の中にはこの映画を考察したブログが氾濫している。入れ替わりに際しての3年の誤差をどう説明するか、云々。

この手の物は、実際には制作陣が考えないはずがない。得てして問題とは出題は簡単でも解くのが難しい。入れ替わって云々とキャッキャしているのは、やはり制作陣の掌の上で喜んで転がっている気がして好きにはなれない。

無論、例えば「糸守」などといった地名や「瀧」などといった人名と、様々な神話・伝承が織りなす物語としては面白い。脈絡として雄大なスケールを取り込んだ、和歌の本歌取りのような狡さもある。この映画は一本の映画でありながら、複数のエピソードを抱えているのであり、それだけに何だか見ていてワクワクするし、そのエピソードを読み解こうと何度も映画館に足を運ぶ。

しかし、もうあれから何年も経つわけだし、そこまで含めて、大体の物好きは考察をまとめてブログに掲載している。実際映画を見た後それを参考にした節もある。頷けるものもあるし、首を傾げたくなるものもあった。

あの作品がゲーム的リアリズムのような構造を持っており、運命的な出会い(再会)を果たす瀧と三葉の過去のある可能性が遡行的に描かれている、というのは納得できる見方である。

そういうあらかた分かり切ったことを改めてここでリライトする必要はないだろうと思うので、あえて「映画『君の名は。』はセックスである」という荒唐無稽な命題を立ててみたい。

なぜキュンキュンしないのか

過去の以下の記事で、「運命」について考えたことがある。

raku-rodan.hatenablog.com

典型的なタイムスリップもののドラマ「アシガール」について、以下のよう記述した。

日本のマンガ・ドラマ・映画は、例えば『君に届け』のあたりから、運命的な出会い、運命的な恋愛に対して飽き始めたのではあるまいか。そして、もし仮に運命を描こうというようなことがあれば、映画『君の名は。』ほどの大きな舞台を用意せざるを得ないのではあるまいか。

ドラマ「アシガール」と日本の運命感 - ダラクロク

この前段にも映画『君の名は。』にも触れた箇所があるのだが、それも、この大がかかりな「運命装置」についてだった。

この恋愛モノの系統に本作を位置づけることにはあまり違和感はないだろうと思うのだが、それにしては、と思いはしないだろうか。

ある時期日本映画では、福士蒼汰や山﨑賢人を主演に据えて、恋愛漫画の映画化に勤しんだ。惰性でそういう映画を続けて見ていた時期があるのだが、そういう映画には大抵パターンがあって、結末が結ばれてハッピーエンドというだけではなくて、随所に女性客を「キュンキュンさせる」ような描写が見られる。例えば直近で言えば映画『わたしに××しなさい』はそのポスターからしてその辺りを狙っているのが分かる。

一方翻って見ると、映画『君の名は。』にそんなシーンあったろうか。

無かったと思うのだが、その理由は大きく2つあると思う。

まず第一は、観客に「キュンキュン」させることをそれほど想定していない点。これは、新海誠監督自身のフェチズムが投影された三葉と、それに釣り合う正統派男子高校生を引き合わせる上で、必要な要素では無かったということになる。つまり、上記の恋愛映画では、観客はヒロインに感情移入する。だからこそそうした映画のヒロインは概して「普通」とわざわざ形容されることが多い。別にこれは日本に限った話では無くて「トワイライト」シリーズにおいても主人公のベラは運動神経が悪く、肌が白いこと以外は普通だし、「ハリー・ポッター」シリーズにおいても、ハーマイオニーはドレスアップすれば美人でも、それ以外ではパッとしないという設定である。

第二に──これが本題でもあるのだが──この映画が描きたいのは、恋愛ではない。あくまで「出会い」であり、それは「疑似的なセックス」と言い換えることもできる。そこに至るまでの陳腐な切った貼ったの恋模様は要らない。というか、そもそも「結ばれる運命」なのだから、そういうのはいらない。

母なる大地

後半、瀧が口噛み酒を飲み後ろに倒れた後、意味深なシーンが続く。意味深と言っても、隕石が落ちて受精卵になって、みたいなことなのだが、要するに言いたいのはここだ。

このシーンを見れば、ティアマト彗星が精子に見立てられており、地球が卵子に見立てられているのは一目瞭然。この後、三葉の成長が描かれるから、三葉の誕生自体が、この宇宙規模のセックスを遡行的に予感させる出来事だったようにも思えてくる。

そうなると「母なる大地」なる語は、まさしく「母なる」であったと分かり、なんだか不思議な心地がする。もちろん、この宇宙規模でのセックス(ここでは綺麗に「出会い」と読み替えるべきなのかもしれないが)は、七夕伝説と照応するようでいて綺麗に見える。

つまり、卵子は地球に、精子はティアマト彗星に読み替えられ、それはほとんど受精であったと言えるし、この関係は、卵子を三葉に、精子を瀧に置き換えても問題はない。

だからこそ、三葉が東京に言っても瀧と結ばれ得るはずがない。卵子は女性の中にあって、そこに精子が行くのだから、瀧が会いに行かない限り、2人は結ばれるはずがないのだ。

そう考えると、口噛み酒を飲むシーンそれ自体が、疑似的なセックスと捉えることもできるようになる。そもそも口噛み酒は「魂の半分」と言及されている(はずな)のであり、これは遺伝子の半分が減数分裂によって生殖細胞になることと重なるようでもある。

最後に

個人的には、広義の文学作品において、人類の至上命題とは「性」である、というような振る舞いが好きではない。

人間の本質は「性」にこそ現れるのだ、というようなのも好きではない。

フロイトがリビドーをもっぱら性欲と考えたのにも納得がいかない。

それというのは、自分自身が、人間はもっと理性的な生き物のはずだ、単なる生殖を目的とする動物とは違う、とどこかで信じたいからなのかもしれない。

しかし、今までのように、疑似的にセックスする様子が見られる映画が、歴史的な興行収入を記録すると言うこと自体に、「性」の普遍性が存在するのかもしれないと考え、少しだけ落ち込んでしまうのである。

ベルンハルト・シュリンク『朗読者』

朗読者 (新潮文庫)

朗読者 (新潮文庫)

 

 「歴史とは、物語である。」

この『朗読者』が原作である映画『愛を読む人』について書いた記事では、このように書きだした*1

これをきっかけに、歴史叙述に興味を抱くようになった。何かの本を検索したりせず、一人で思索ごっこにふけるあたりがいかにも不徹底なわけだが、いくら考えても、答えは出ない。そもそも明確な問いさえ持てていないのだから当然だが。

特に日本にあって考えると、所謂慰安婦問題然り、南京大虐殺問題然り、歴史をどのように捉えるかが時折問題になる。その時、特に(私が属していると自負する)保守派界隈では「事実は一つだ」というような文句が用いられたりする。

しかし思うのは、「事実は一つだ」というのは必ずしも「歴史は一つだ」と一致するものではない。「歴史の審判」なる語があるように、「歴史」というものは時間の流れの中で恣意的に審判をくだすものなのかもしれない。

学校で「歴史」を教えるように、「歴史」は時として恣意的に用いられる。しかし本来は一人一人に歴史があるはずであり、それが連綿として続いていく。

例えばそれが単に「故人を回顧する」ということであれば、宮部みゆきさんの『ソロモンの偽証』のようになる。あの作品は、亡くなった柏木卓也が、なぜ死んだのか、その真実を「裁判」という形式を借りて探求する。それこそまさに疑似的な「歴史の審判」との一致が見られる。その裁判での判決が真実であるかどうかは明言されないが、一応納得する。その時彼らの中にある種「恣意的な歴史」が一つ存在することになる。

と考えると、本作もそれに似た構造があるのかもしれない。

Ⅰでは、ハンナ・シュミッツとミヒャエル・ベルクの精神的肉体的な交流が描かれる。Ⅱでは、時間がしばらく経ってハンナ・シュミッツに対して下される審判が描かれる。Ⅲでは、その後ハンナ・シュミッツが文字を覚え、「自裁」を遂げる様が描かれる。

物語全体は、ミヒャエル・ベルクがハンナ・シュミッツを回顧する形で書いた小説のように示唆される。これは映画では、ミヒャエルが娘に対して語る物語であるように示唆されるわけだが、この翻案は感慨深い。

いずれにせよ、文学という場における「歴史叙述」について、ある側面から挑戦していることが分かる。

それだけでなく、この作品における「他者」というものを考えたい。

例えば先に挙げた『ソロモンの偽証』も然り。あの作品は。柏木卓也を生前においてすら理解するひとがいなかったということに端を発している。同じクラスであってもやはり「他者」に違いない柏木卓也を、その後どう「思い出すのか」ということでもある。

「思い出す」ことによって、その人がいかに「他者」であるかに気が付く。

ミヒャエルはハンナに対して嘘の年齢を教えていたし、ハンナはミヒャエルに大変なことを隠していたことになる。

ハンナの最大の秘密とは文盲である。それゆえ彼女が清潔さを保つことで担保していた何かがあった。文字を覚えた後彼女は清潔さを捨てた。彼女はあらゆることを悟った。彼女自身も自身の秘密に回顧的に自覚した。そのため彼女は「死ぬしかなかった」。

或いは彼女は彼女自身が殺した人々に引きずりこまれたのかもしれない。情緒的で短絡的な発想だが、文字を得て死者を追い払うことのできなくなった彼女が死を選んだことには、言語化された論理で説明できないような必然性を覚える。

澁谷知美『日本の童貞』

日本の童貞 (河出文庫)

日本の童貞 (河出文庫)

 

 個人的に興味のある分野というのがいくつかあって、その一つが「ジェンダー」だった。と、言ったところで、なんだか女性性を取り扱って、フェミニズムを叫び出したり、LGBTの権利を、などと虹色の旗を振り始めたりするわけではない。

むしろ興味があるのは男性性で、社会や国家が男性性をどのように管理しようと試み、男性性はどのような社会を構成するのかという点だった。

そんなわけでこの本の結論部で、澁谷知美さんの意図も、社会や言説という観点から男性性を「童貞」を手掛かりにその実相に迫ることにあったらしいと分かって、安堵した。

一方で疑問点もいくつかある。当初「女性に処女を求めるなら男性は童貞を」的な言説から始まったのはよく分かる。それがある時点から「恥ずかしいもの」へと変化した。それがいつごろで、どのような言説と共に変化したのかは分かるのだが、その理由は分からない。言説の分析が目的で、そこは範囲ではないということなのかもしれないから、特段この本にその答えがないことを非難するつもりはない。純粋に疑問を抱いた。

一方で明確に非難したいのは、文庫版へのあとがきにあるこの部分だ。

結論部では、「童貞に好奇の視線をそそぐ、童貞であることに恥じらいをおぼえるような、そんな社会とはいかなる社会なのか?」という問いに答えを出している。それにたいして、次の四つの解を示した。「恋愛とセックスが強固にむすびついている社会」、「「正しい童貞喪失」の基準が設けられた社会」、「基準から外れた童貞は、その「原因」が追求され、「病人」として扱われる社会」、「男性が女性に値ぶみされる社会」である。

これにもとづいて、さらに、一二年を経た現在の所感を加味して、男性の性についての普遍的テーゼを示すならば、「セックスにかんして、男の首を絞めるのは男である」というものになる。*1

最初の方は分かる。男性に「童貞だなんて」とセックスに基づいた価値観で失格の烙印を押す社会、そしてその言説を女性たちの意見によって支持させる社会。そこに対する違和感は分かる。

しかし最後の方。「セックスにかんして、男の首を絞めるのは男である」──え、何それ? と思ってしまった。確かに本の内容を調べてみると、男性向けの雑誌における言説が童貞について批判的に語っているわけだし、そこに登場する女性の声もかなり男性によって「編集」されたものらしいことは分かる。

それであったとしても、この結論は、最後に「童貞に関心を持たない社会」を切望した著者らしからぬものであるように感じられる。何だか突然「男子ってバカね」というような視線を向け、突き放したように感じられるのだ。

それって結局、例えば中学校や高校の教室でバカ騒ぎする「男子」に向けて、端っこで井戸端会議している女子が「男子ってバカね」と笑っているみたいなことじゃないのか。そういうステレオタイプな風景を彷彿とさせる。

童貞言説を丁寧に抽出した著者の苦労は推して知るべし。自分も、その変遷に関心を抱けたし、社会が男性性をどのように扱ってきたのか、その入門編として面白かった。

*1:澁谷知美『日本の童貞』河出文庫、2015年、p.246