ドラマ「アシガール」と日本の運命感

古来、電灯があちこちに灯される以前、旅人は夜には出かけることを諦めていたという。どうしても夜道を進まなくてはならないときは、満月の光を頼りにしていたという。

これは、高校の古典の授業で、確か聞いたことのあるような話だが、それが本当であるか分からない。電灯なき時代に、満月と、せいぜい提灯の明かりがそれほど頼れるものであるか分からない。

この物語では速川唯は、満月の夜、大きな旅に出る。

筒井康隆の同名小説を原作に細田守が制作した映画『時をかける少女』のラストシーン、主人公の紺野真琴は「未来で待ってる」と言う間宮千昭に向かって、「うん、すぐ行く。走っていく」と返事をする。もちろん年月が経る速度は変わらず、走っていったところで間に合うはずもなく、それが多くのファンの想像をくすぐることとなる。

しかしこのドラマでは、想像するまでもなく、速川唯は走っていく。会うべき人の元へ、会いたい人の元へ。

さて、そうして走ることのできるヒロインが、日本のエンタメ作品の中にはどれほどいたろうか。

そして、戦国時代は、なぜか現代人の心を掴んで離さない。大河ドラマを見れば、ここ数年は戦国と幕末の繰り返し。「サムライ・ハイスクール」『信長のシェフ』など、機会があるたびに我々は、戦国の人と出会いたいと思うらしい。

このドラマには原作があるらしいが、それは良く知らないこともあって、ここではドラマからの乏しい所感を述べるより他にない。

胸がすくほど快活な少女・速川唯は、戦国時代の若君に一目ぼれする。この、何かがハマる感覚は、例えば新海誠の映画『君の名は。』にも見られる。瀧と三葉は最後に、この2人は会うべきだという感覚と共に〝再会〟を果たす。ここ数年の、日本のマンガやドラマや映画のもっぱらの課題は、この〝再会〟をどう描くか。つまりその2人が出会うことにはやはり〝運命〟としか言いし得ぬ何かがあって、それはきっと〝再会〟と呼ぶのがふさわしいのだ、という信憑性を持った物語をどのように創造するのかという点であった。

例えばドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」「カルテット」「あなたのことはそれほど」はTBSの火曜ドラマにあって、連続して放送された。個人的にはこれをまとめて語ることにはそれなりの意義があろうと思う。

逃げるは恥だが役に立つ」では、全く運命的ではない出会いをした男女が、極めてシステマティックな関係の中から愛情を育む。彼と彼女は、運命ではなく、自身の決意によってのみ、その関係が進歩するのだ。

「カルテット」では、運命的な出会いをしたように見えた男女が実際にはそうではなく、その欺瞞の中で、あえて欺瞞を貫き平穏を手にする姿が描かれる。そもそも運命というものの背景にある作為のようなものを描いた。

あなたのことはそれほど」では、初恋の人との再会に運命を感じつつ、その運命は現在の「一応幸せだった」状況をぶち壊すことになる。果たしてそれは、そこまで含めて運命だったのだろうか。

日本のマンガ・ドラマ・映画は、例えば『君に届け』のあたりから、運命的な出会い、運命的な恋愛に対して飽き始めたのではあるまいか。そして、もし仮に運命を描こうというようなことがあれば、映画『君の名は。』ほどの大きな舞台を用意せざるを得ないのではあるまいか。

さて、このドラマは、その舞台をタイムスリップに用意した。

タイムスリップし、400年以上もの時を超えて出会うからこそ、それを私たちは〝運命〟だと確信することが出来る。

もしかすると時代考証は滅茶苦茶かもしれないし、支離滅裂な設定ばかりかもしれない。しかし、それが、それこそが、早川唯は若君と出会わなくてはならず、その出会いとは〝運命〟なのだという〝確信〟へと繋がる。

と、こうした具合に御託を並べたところで、もしかするとこの物語には不釣り合いなのかもしれない。

この物語を支えているのは、そうした理屈ではなくて、純粋に「傍にいたい」「守りたい」という、誰しもが持ちうる普遍的な、それでいて強力な思いであるような気もするからだ。

さて、続編の製作も決定したと言う。この物語は、どう広がってゆくのか。そこにはどのような〝運命〟が、どのような〝思い〟が描かれるのか。しかと注目したいと思っておりまする。