映画『アバター』

 
アバター (字幕版)

アバター (字幕版)

 

 旧約聖書では、アダムとイブは、知恵の実を食べてエデンの園を追放される。失楽園である。その聖書を遠く受け継いだヨーロッパ人が、実際には世界中を股にかけ、植民地主義全盛の風を吹かせていたと考えると、皮肉なものである。だって、お前らだって他人を土地から追放しているじゃないか、と。

イードの例を引くまでもなく、少なくとも第二次世界大戦以後、或いはその萌芽は第一次世界大戦中及び以後のウィルソン大統領の民族自決に見られるのかもしれないが、「近代化」と言う名の「ヨーロッパ化」に対する急激な反省から、一気にそういうエスニックなものを肯定しようという流れに変わって来たらしいことは、ノーベル文学賞に植民地時代に英語などを押し付けられたマージナルな作家たちが選出されることが多いことからもわかる。

その結果、について、先月の「新潮」に興味深い対談があった。ドイツ語でも執筆し、ドイツ本国でも評価が高い(らしい)多和田葉子さんと、外国人でありながら(は余計かも知れないが)日本文学者で国文学研究資料館館長も務めるロバート・キャンベルさんの対談である。

多和田 昔、北米のあるフェスティバルに呼ばれたとき、私のセクションが「Literature of color」となっていて、色の文学って何のことだろうと不思議に思った経験があります。

キャンベル 何色でしょう(笑)。

多和田 赤色かな?(笑)。そうしたらなんと白人以外の文学を指すんですって。「私の書いているのは、有色文学?」。これはショックでした。「でもこれはいい意味なんです」と主催側は一生懸命言うんですよ。つまり白人の文学はつまらないから、こういう括りで面白い人を招待しているんだと。もうずいぶん前のことですけれど。*1

この時点で、「有色文学」に対するべき「無色文学」或いは「白色文学」の担い手である白人たちが、「自分たちの文学はつまらない」が故に、「私たち以外の人たちの文学を再評価しよう」というマインドであることが分かる。しかし「再評価」とは上位の人間が下位の人間に対して行うことではないか。それであるならば、それは一時期のジャポニズムブームと大差ない、「西洋と東洋」が「人類とナヴィ」に置き換わっただけの、一種の「オリエンタリズム」の焼き直しなのではないか。

少なくともこの映画『アバター』では、何とかしてそれを避けたい、という意図が見える。アメリカが犯してきた失敗(とされるようなこと)を意図的に彷彿とさせる描写があったりする。

であるから、この映画をそういう目線で見ようと思えば事欠かない。惑星パンドラにやって来る資本主義の権化的な企業。現地人を蹂躙する。現地人を擁護するのは、下半身麻痺の元軍人・女性科学者。

一方で、現地人の生活を丹念に描くことで、表層をなぞった「なんだか素敵」みたいなロマンチシズムを避けている。

自然保護の啓蒙というのもこの映画のポイントのひとつらしいのだが、少なくともそれは感じられなかった。登場する植物・動物はあまりに地球のそれらとは違って、なんだかそこから地球の自然を守ろうと喚起するのはいささか非効率的に思える。

あえてそこで、全く別の見方をしてみたらどうだろう。と言うのは、この映画にはアメリカのヒーローものの典型が見て取れるように思う。

個人的に深い関心を持って接している仮面ライダーについて、その本質について、以下のように考察している。

さて、軽く触れた通り、特撮における特徴は「外部と内部の境界は自明のものではない」という所だと思う。

アメコミのヒーロー作品にはそれほど明るくないが、あの作品とは、外部の存在だと思われたヒーローが内部に地位を獲得するまでを描いているのではないか。

日本の特撮では、その外部と内部という境界自体を揺らがせる。敵は敵に見えるが、なぜこの敵は敵なのか。ヒーローはヒーローに見えるが、なぜヒーローだと感じるのか。それを揺らがせるのが日本の特撮の特徴である。*2

 マーベルコミックスに代表されるアメコミなどは、(時として異形の)ヒーローが突如出現し、人々にヒーローとして評価されつつ悪役と戦う、ないし、戦うことによってその評価を勝ち得ていく、という構造を持っていると思う。つまり「内部で承認されること」という最終的なゴールに向かってヒーローは戦う。

ウルトラマンはこれに近いのだが、ウルトラマンの目的は「内部で承認されること」ではないし、ある時期になるとふらっと母星に帰ってしまうことから、ウルトラマンはあくまで「外部」の存在だと分かる。

仮面ライダーはもう少し複雑で、そもそも片足を外部に突っ込んだような性質を持つから、敵と戦い続けることで、あるいは念仏的に「正義」を唱え続けることで、「内部」に居続けようとする。

この観点から考えると、この物語は主人公のジェイク・サリーが現地人ナヴィたちの中で、仲間として認められるまでの経過を描いた作品のようにも思える。そこで(これも仮面ライダーの分析にも用いられるのだが)フロイトのエディプスコンプレックスの概念を導入してみるとどうだろう。

まず子供は母親を手に入れ、父親のような位置に付こうとする。男児においては母親が異性であり、ゆえに愛情対象である。子供は父親のような男性になろうとして(同一化)強くなろうとする。子供はじきに父親を排除したいと思う。しかし父親は子供にとって絶対的な存在であるので、そのうち父親の怖さに気付く。最初は漠然とした不安や憎しみしか抱いてないが、子供が実際に母親ばかりにくっついていると、父親は「お前のペニスを切り取るぞ」と脅すのだという。

ただしこの言葉は実際に言われるとは限らず、大抵の子供はこの脅しを無意識的な去勢不安として感じるようになる。こうして子供はジレンマに陥る。母親を求めれば「去勢される」し、父親の元に跪いて父親に愛される母親の立場に収まるのならば、子供は「去勢されている」と感じるのであり、どちらにしろペニスを保持するための葛藤にさいなまれるのである。

この際に子供は自分のペニスを保持するために、近親相姦をする欲求を諦め、また父親と対立することも諦めて、両親とは別の方向へ歩き出す。こうしてエディプスコンプレックスは克服されて、子供はペニスを保持しながらも社会に飛び立つ。その後の時期は潜伏期と呼ばれ、幼児的な欲求(性的な欲求)を無意識化に抑圧して、ほとんど表出しなくなるのである。*3

最後のシーンで、彼自身がナヴィとして生きることを決意した際、そのことを「誕生」と表現していることからも、人間がアバターを精神をリンクさせることは「誕生」と解釈できる。つまりジェイク・サリーも、その段階でもう一度生まれた、ということになる。

そう考えると興味深いのは、人間としてのジェイク・サリーは下半身の自由が利かないが、アバターとしてのジェイク・サリー(あるいはジェイクサーリ)は、自由に歩き回ることができる。アバターとしてネイティリと初めて会った際には「赤ん坊」と何度も繰り返され、オマティカヤ族での一応の身分が保障された際にも「歩き方から教えてあげなさい」という旨の台詞がある。

さて、ではこの新たなアバターであるジェイク・サリーの両親とは、誰だと考えられるか。まず、そもそもジェイク・サリーがアバターを操縦することになったのは、双子の兄が死んだことによる代理である。DNAが一致するという作中のコメントによるとどうやら一卵性双生児らしい。と考えると、人間とナヴィのDNAをかけあわせて作られたこのアバターの父(ここでは遺伝子の半分を提供した雄)は、この兄ということになる。しかしこの場合、兄は死んでいるので、エディプスコンプレックスと同時に語られる「親殺し」の必要は無くなる。エディプスコンプレックスの教訓とは、つまり同性の親を「殺す(=克服する、断念する、超越する)」ことによって成長が可能になる、ということだと思うから、この段階で既に「父」を失っているジェイク・サリーには成長の資格が与えられる。

では母は、と言うと、これはネイティリと考えるのが妥当だろう。前述の通り、ジェイク・サリーに「歩き方」から教えた彼女。当然募る母への恋慕を妨げる父は存在しない。ジェイク・サリーとネイティリが恋愛関係になるのは当然の成り行きともいえる。

もう一つ、「生まれ変わった」ジェイク・サリーについて面白いのは、彼の宗教観である。

地上にいて、海兵隊員であった時の彼がどのような宗教を信仰していたのか、あるいはしていなかったのかは明らかでないが、惑星パンドラでの宗教観は比較的明らかにされる。それがアメリカでの公開時に保守系などから非難を浴びたきっかけなのだろうが。

ナヴィたちが信じるのは汎神論である。これがただちに多神教と言えるかは難しいところで、「エイワ」という存在に神を見るのだが、その奥にナヴィたちが見据えている神というのは、たくさんいるというよりも、どこにでもいる一つの存在、という感じもする。日本人が、「米には米の神様」「川には川の神様」と考えたりするのとは、少し違うかもしれない。

この物語はそうした側面から言えば、ある男性が新しい宗教と出会い、その宗教に帰依するまでの話、と捉えることも可能になる。実際、この宗教観を支持するようにストーリーが展開されるのだから「少なくともこの星では」この宗教観は間違いないのだろう。

こう考えると、遠く宇宙の惑星と、そこの宇宙人を舞台にしたダイナミックな物語だったはずが、主人公の成長・マザコン・改宗の物語に収斂していく。確かにストーリーは大きく見えるが、もしかするとその本質はそうでもないのかもしれない。

本作が目指したであろうところ、例えばマイルズ・クオリッチ(大佐)とパーカー・セルフリッジの現地人に対する見方には着目すべきところがあると思う。

マイルズ・クオリッチは元海兵隊員で、好戦的な性格であり、言うことを聞こうとしないナヴィたちを軍事力で抑圧しようとする。パーカー・セルフリッジは惑星パンドラでの鉱業を任されている責任者で、ナヴィたちへの攻撃も辞さない態度を示すものの、実際に巨木を倒し、炎が揺らめく画面を見ると、思わず目を背けてしまう。見るべきものから目を背ける責任者と言うのは、民主主義によって戦争を支持したアメリカ国民を彷彿とさせる。

このように、この作品はかなり、単なるオリエンタリズムに陥らないように配慮しながら、かつ主人公の物語を描くことに挑戦しているし、それはある程度成功していると思う。

3Dが凄い、というのは確かにそうなのだが、それだけではない魅力もあると思う。

と、褒めちぎったところで、最後に一つ疑問を投げかけたい。

惑星パンドラに人類が進出し、ナヴィたちを抑圧した。だとするならば、人類は綺麗さっぱりそこから立ち去るのが筋ではないのか。少数の「ナヴィたちに理解ある」人間がパンドラに残った、というのは、本当に「オリエンタリズム」を超越できているのだろうか。

*1:多和田葉子・ロバートキャンベル「「半他人」たちの都市と文学」新潮社『新潮』第115巻第4号(2018年)、p.87

*2:仮面ライダーと外部性、恐怖の論理 - 特撮の論壇

*3:エディプスコンプレックス - Wikipedia

筒井康隆『文学部唯野教授』

 

文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)

文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)

 

かつてそれなりにヒットを飛ばした作品らしいが、それも納得であった。全9講を2講ずつ、5日かけて読もうと思っていたものが、面白さから思わず3日で読み終えてしまった。

きっかけは、この本が紹介されがちな「文芸批評理論の基本が分かる」というようなところに惹かれたのだが、実際にはそればかりではない。また、どこかで「所々入る理論の概説が邪魔」などということを書いている人もいたが、もちろんもっての外だろう。

この物語自体は、デフォルメされた大学におけるすったもんだと、唯野教授のふざけつつも本質に迫るような講義が、違和感なく、それも同じ章(講)に同居しているからこそ、「唯野の話を聞いてやろう」と思うのであり、「唯野はふざけた口調の中年ではない」と分かる。

現在の大学が、これほど愉快な場所だとは到底思えない。科研費が貰えただの貰えていないだの、官僚の天下りだの何だの。ある意味で「懐かしいかの頃」を──実際には経験したことが無いのだが──思い出させてくれる ようである。

作中に幾度となく登場する「エイズ」については、そこにある種の差別的な志向があるのは間違いないだろうと思う。感染経路や症状などについて著しく無理解だが、そこについて指摘することはおそらく意味をなさない。そういう、ポリティカルコレクトネス的な修正は作者が意図したところを逃してしまいかねないだろうと思う。ポスコロ批評なりフェミニズム批評は、作者すら意図しないような内面のイデオロギーを暴き出す意味はあるかもしれないが、この作中における「エイズ」表象は明らかに意図的に描かれているわけだし、ここを指摘して鼻高々に振舞うのは適切ではないだろう。

大学内の力学に奔走し、親友のために奔走し、愛する人のために奔走し。その奔走すら、軽やかな文体と唯野自身の語り口によってテンポよく進む。挟まれる講義すらその調子だから、難しい話もすんなりと入ってくる。

彼がなぜそこまで過敏に生きるのかについて、一見滑稽だとの感想を抱いてしまうが、彼が本当に志す野望について分かったとき、そうとばかりも言っていられない。その野望については途中、まま言及されて、第9講のポスト構造主義になってついに明らかにされる。そこまで知ったとき、必ずしも唯野教授を権力欲の塊の中身がない学者だと決めつけるのは誤りだと分かる(実際には他大学の非常勤で「文芸批評理論」の講義をやりたいという意欲の時点で推して知るべきところなのだろうが)。

何より、この本に収録されている唯野教授の講義が、永遠に前期を繰り返すことが悔やまれてならない。最後には「フェミニズム批評」や「精神分析批評」や、唯野教授自身の考える批評について後期で語ることが言明されているのに、それを読むことはできない。それが大変悔しくなってくるのである。

ドラマ「アンナチュラル」とドラマコミュニティの時代

TBS系のドラマ「アンナチュラル」が最終回を迎えた。視聴率こそ飛びぬけて高いというわけではなかったが、録画率や、あるいは話題性という点では、今クールはピカ一だったろうと思う。

殊に自分は、このドラマに対してそれなりの想いがあった。ドラマ放送以前には「逃げ恥の脚本家」などと宣伝されていた野木亜紀子氏が担当するオリジナル脚本のドラマであったからだ。

この人の担当したドラマを見ると驚く。「空飛ぶ広報室」「重版出来!」「逃げるは恥だが役に立つ」。映画に目を向けていても映画『図書館戦争』は、その続編も担当している。他にも『俺物語!!』『アイアムアヒーロー』といった作品を担当している。

さて驚くのは、全て良作であるというところだ。

どれも原作がある作品である。日本では漫画市場が大きいためか、漫画の映像化作品が多い。「映像化不可能と言われた」などという枕詞は、今や宣伝文句の定型句となりつつある。

また、漫画の映像化には困難も付きまとう。基本的に日本の漫画の連載は終わりが予め決められていないため、ある程度の長さごとに「編」ないし「章」といった具合に落ち着きを見せる。そうしたことから、これをドラマや映画にまとめようとすると、拾いきれない話があったり、逆に多くの話を拾おうとするあまり脈絡がなくなることもある。

しかし、この脚本家は違う。野木亜紀子氏の脚本では、そうした漫画などの特性を巧みに生かし、そのエッセンスだけを抽出し、巧みに物語を編み上げる。漫画ではないが、映画『図書館戦争』やその続編における手際は、圧巻だった。

だからこそ──そうした見事な原作解釈によって脚本を編み上げる人だからこそ──では作ってみてくださいと言われて、イチから世界を構築する姿に期待したのだった。

結果は、圧巻というより他にない。

今クールにもあったように「隣の家族は青く見える」だとか、だいぶ前にさかのぼると「結婚しない」だとか。社会的に問題とされることや、見過ごされがちなことを取り上げ、ドラマにする。そうした流れはある。しかしこのドラマはそうではなかった。確かに日本の死因究明の遅れについて取り上げたものとしては、「アリアドネの弾丸」などもドラマでは取り上げられた。しかし「アンナチュラル」ではそれだけではなく、もっと大きなものを包含した。

何より凄いのは、このドラマが包含したものについて、それらは是非と共に押し付けられたものでは無かったということだ。その是非の判断は視聴者に委ねられ、ドラマの中で押しつけがましい教訓が語られることはなかった。視聴者が、何か大きなものを胸に宿したまま、何かの想いを抱く、そういうドラマだった。

もう一つ特徴的なのは、いわば〝ドラマコミュニティ〟とすべきような関係性が、SNS上に広がっていたことが挙げられると思う。

数年前であれば、登場する俳優がイケメンだとか、女優がかわいいとか、そういうことで賑わっていたTwitterも、深い考察や感想が共有されるようになった。そしてその人々の中で、ある種のコミュニティが出来ている。

少なくとも確認できる最も古い例では「あまちゃん」がそうだったろうと思う。「好きな人がいること」は、会見をネットで中継するなどして、このコミュニティを形成しようと思っていらしいが、もしかすると成功しなかったかもしれない。

このコミュニティが形成され、そこに脚本家自身、そしてドラマの公式アカウント、主題歌を担当した歌手までもがそこに参加した。

そうしたドラマコミュニティが、日本のドラマの新たな時代を拓いていくのではないか、そう期待させてくれるドラマだった。

ドラマ「アシガール」と日本の運命感

古来、電灯があちこちに灯される以前、旅人は夜には出かけることを諦めていたという。どうしても夜道を進まなくてはならないときは、満月の光を頼りにしていたという。

これは、高校の古典の授業で、確か聞いたことのあるような話だが、それが本当であるか分からない。電灯なき時代に、満月と、せいぜい提灯の明かりがそれほど頼れるものであるか分からない。

この物語では速川唯は、満月の夜、大きな旅に出る。

筒井康隆の同名小説を原作に細田守が制作した映画『時をかける少女』のラストシーン、主人公の紺野真琴は「未来で待ってる」と言う間宮千昭に向かって、「うん、すぐ行く。走っていく」と返事をする。もちろん年月が経る速度は変わらず、走っていったところで間に合うはずもなく、それが多くのファンの想像をくすぐることとなる。

しかしこのドラマでは、想像するまでもなく、速川唯は走っていく。会うべき人の元へ、会いたい人の元へ。

さて、そうして走ることのできるヒロインが、日本のエンタメ作品の中にはどれほどいたろうか。

そして、戦国時代は、なぜか現代人の心を掴んで離さない。大河ドラマを見れば、ここ数年は戦国と幕末の繰り返し。「サムライ・ハイスクール」『信長のシェフ』など、機会があるたびに我々は、戦国の人と出会いたいと思うらしい。

このドラマには原作があるらしいが、それは良く知らないこともあって、ここではドラマからの乏しい所感を述べるより他にない。

胸がすくほど快活な少女・速川唯は、戦国時代の若君に一目ぼれする。この、何かがハマる感覚は、例えば新海誠の映画『君の名は。』にも見られる。瀧と三葉は最後に、この2人は会うべきだという感覚と共に〝再会〟を果たす。ここ数年の、日本のマンガやドラマや映画のもっぱらの課題は、この〝再会〟をどう描くか。つまりその2人が出会うことにはやはり〝運命〟としか言いし得ぬ何かがあって、それはきっと〝再会〟と呼ぶのがふさわしいのだ、という信憑性を持った物語をどのように創造するのかという点であった。

例えばドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」「カルテット」「あなたのことはそれほど」はTBSの火曜ドラマにあって、連続して放送された。個人的にはこれをまとめて語ることにはそれなりの意義があろうと思う。

逃げるは恥だが役に立つ」では、全く運命的ではない出会いをした男女が、極めてシステマティックな関係の中から愛情を育む。彼と彼女は、運命ではなく、自身の決意によってのみ、その関係が進歩するのだ。

「カルテット」では、運命的な出会いをしたように見えた男女が実際にはそうではなく、その欺瞞の中で、あえて欺瞞を貫き平穏を手にする姿が描かれる。そもそも運命というものの背景にある作為のようなものを描いた。

あなたのことはそれほど」では、初恋の人との再会に運命を感じつつ、その運命は現在の「一応幸せだった」状況をぶち壊すことになる。果たしてそれは、そこまで含めて運命だったのだろうか。

日本のマンガ・ドラマ・映画は、例えば『君に届け』のあたりから、運命的な出会い、運命的な恋愛に対して飽き始めたのではあるまいか。そして、もし仮に運命を描こうというようなことがあれば、映画『君の名は。』ほどの大きな舞台を用意せざるを得ないのではあるまいか。

さて、このドラマは、その舞台をタイムスリップに用意した。

タイムスリップし、400年以上もの時を超えて出会うからこそ、それを私たちは〝運命〟だと確信することが出来る。

もしかすると時代考証は滅茶苦茶かもしれないし、支離滅裂な設定ばかりかもしれない。しかし、それが、それこそが、早川唯は若君と出会わなくてはならず、その出会いとは〝運命〟なのだという〝確信〟へと繋がる。

と、こうした具合に御託を並べたところで、もしかするとこの物語には不釣り合いなのかもしれない。

この物語を支えているのは、そうした理屈ではなくて、純粋に「傍にいたい」「守りたい」という、誰しもが持ちうる普遍的な、それでいて強力な思いであるような気もするからだ。

さて、続編の製作も決定したと言う。この物語は、どう広がってゆくのか。そこにはどのような〝運命〟が、どのような〝思い〟が描かれるのか。しかと注目したいと思っておりまする。

映画『愛を読むひと』

 

 歴史とは、物語である。

このことは、何も物珍しい異端の信念ではなく、ある程度文学に触れる人の中では、普通に共有される観念だろう。

からして、「history」であり、「story」が内包される。歴史とは、物語なのである。

ハンナ・シュミッツという女性がいる。15歳の少年マイケルは偶然出会った彼女に首ったけになる。

15歳の少年にとって、女性の着替えやブラジャーなど、「そそる」ところがあったのだろう。少年は、友人たちと戯れるより、ハンナとの情事を優先させる。

初めてセックスをした日、マイケルは家に帰り食事をしつつ、家族に後ろめたさを感じる。と同時に、その唇に目をやってしまう。彼にとっては昨日まで、いや、ものの半日前まで、口というのは物を食べるためのものであり、キスや愛撫するためのものではなかった。少年の、ささやかで、微笑ましい一幕である。

マイケルは学生であるから、セックスばかりとはいかず、学校でも多くの物事を学ぶ。西欧文学の特徴とはその秘密性にあると習い、ホメロスの『オデュッセイア』を取り上げる。

このころからマイケルは、ハンナに朗読を始める。明かされないが、ハンナは文盲であり、朗読に頼るより他に文学に触れることが出来なかったのだ。

そうしてマイケルは多くの作品を「読む」。それは学校で習ったところに照らせば、多くの秘密を暴く、という行為であった。そしてそれはまたハンナの秘密に接近するということだった。

その夏を最後にハンナは姿を消し、マイケルは大学の法科で学ぶ学生に。その特別ゼミで、ナチ親衛隊として収容所の看守をしていた6人の女性の裁判を傍聴する。

そこにいたのは、ハンナ・シュミッツだった。

彼女は、他の5人が容疑を否認する中、容疑を認める。ハンナ・アーレントがアドルフ・アイヒマンを扱った裁判を傍聴し、その様子を「凡庸な悪」としたように、まさしくハンナ・シュミッツはその典型だった。

毎日収容所には60人やってくる。それは60人ずつあぶれるから、看守1人が10人ずつ選んで、アウシュビッツに送り返す。そこで待っているのは、死だった。

ハンナ・シュミッツは、では殺すつもりで10人を選んでいたろうか。いや、彼女は10人を選ばなくては、新たに来る囚人があぶれるから選んだのだ。

裁判でこれを指摘されたハンナ・シュミッツは「あなたならどうします」と訊ね返す。どうするだろうか。歯向かうか? それが現実的な選択肢として──それが最も倫理的な模範解答だとしても──ありえるのだろうか。

マイケルの友人はこの裁判を受けて、彼女らだけが悪人なのか、誰もが収容所で何が行われていたのか知っていたはずだ、と訴える。確かに一面的にはそうである。

ドイツにナチスがあった、そのことについての認識は、少なくとも日本では2通りではないかと思う。つまり、ナチスという危険な思想を持つ集団が突如悪を成し始めた、という捉え方と、ドイツの健全な民主主義の中からナチスが生まれた、民主主義とはもろ刃の剣なのだ、という捉え方。

あえて、あえて言えば、そのどちらも、正しくあるまい。ナチスを選んだのは、確かにドイツ国民であった。しかし、ナチスは悪人だったのか。アドルフ・アイヒマンが、優秀な公務員であり、その凡庸さから悪が生まれたように、ナチスの中には悪人はいたのか。もしかするとヒトラーすら、あのヒトラーすら、彼は悪をなすつもりで悪をなしたのか。もしくは、何かの必要性の中で──もちろんそれは倫理的に正しい模範解答ではないけれど──なされたのではないか。

日本の戦争責任のあり方について、丸山真男は「無責任の体系」であるとした。現在でも、昭和天皇の戦争責任が問われなかったことを言う向きは無いではない。しかし、本質的に悪とはそうではないか。つまり、悪をなそうと思って悪をなした人間など、本当に存在するのだろうか。

マイケルは、ハンナ・シュミッツが文盲であると、裁判の傍聴中に気が付く。ハンナはマイケルと過ごしたひと夏でさえ、一度も文字を読もうとはせず、ただマイケルが物語を読むのを、時に笑い、時に泣き、そうして聞いているだけだった。

ハンナ・シュミッツは文盲であることを隠匿し、そのために無期懲役刑を受ける。そのことを明かしていれば、彼女に押し付けられた罪は軽くなるはずであったのに。

マイケルは大人になり、娘をもうける。しかし妻と離婚するのに際して、帰郷する。そこで、帰郷をテーマに扱った『オデュッセイア』を手に取り、テープレコーダーに録音を始め、ハンナに送り始める。

ハンナは、棚に、送られてくるテープレコーダーを並べる。そして、そのテープレコーダーを手掛かりに、少しずつ、文字を覚える。まずは「The」から。

今まで適当にごまかしてきたサインを、丁寧に、ゆっくりと、書き順は違っていても、自分の名前で書き、テープレコーダーを受け取る。マイケルに手紙を書く。ロマンス小説を読んで、シラーにはいい恋人が必要ね、しかしその手紙にマイケルが返事をすることはない。

小坂節二は論文中で、ハンナについてこう記す。

殺人を犯した者は、無意識のうちに手を洗うという。ちょうどマクベス夫人のように。*1

いかにもハンナは綺麗好きであった。しかし、文字を知り、多くの本を読み、自分が何をしていたのかを知る中で、身を綺麗にし続ける意味など無くなった。

マイケルは釈放の算段をつけるために刑務所を訪ね、食堂へ行く。そこにハンナがいるはずだが、マイケルにはそれがどの人か分からない。かつての、あの清潔さを失ったからだろうか。

その時の彼女は「死者は生き返らない」という事実と共に、自分の過去を抱えていた。そして字を読むことを学んでいた。

さて、彼女は自ら死を選ぶことになる。

誰が、彼女を殺したのだろうか。

もちろんこれはミステリーではないから答えは彼女自身である。そうではなく、なぜ、彼女は死を選ばなくてはならなかったのか。

文字が読めなかったから、勤めていた会社で昇進する道ではなく、ナチ親衛隊に入って看守をしたのである。

文字が読めなかったから、裁判で有期刑ではなく無期懲役となったのである。

そして文字が読めるようになったから、自分のしたことを知ったのである。

しかし、それは、「凡庸な悪」の説明にも、言い訳にもならない。してはいけない。

歴史とは、物語である。

ハンナ・シュミッツがしたことは、擁護されても、正当化されてはいけない。そして、ハンナ・シュミッツに選ばれ、殺された人のことを思えば、擁護さえ、してはいけないのかもしれない。

しかし、そのハンナ・シュミッツは、悪人だったのか。

最後に、マイケルは娘にハンナ・シュミッツの話を語り始める。本は無いが、朗読を始めるのだ。それはつまりある秘密を暴く、ということを意味していた。

追記
この映画を見て、我を忘れるほどにおんおん泣き、そのノスタルジーの余韻の中でこの文章を記しているから、いささか情緒的で乱暴だろうと思う。最後、イラーナ・マーターが言うように、単なるカタルシスとしてはいけない。この映画の後、私たちは一体何を物語っていくのか。それが問題だろうと思う。

*1:小坂節二「ベルンハルト・シュリンクの小説『朗読者』」東京都立産業技術高等専門学校東京都立産業技術高等専門学校 研究紀要」2012年、第6号

青山裕企「スクールボーイ・コンプレックス」

 

スクールボーイ・コンプレックス

スクールボーイ・コンプレックス

 

 この本には、美少年は出てこない。

これには誤解を招くかもしれない。誰もみな確かに「かっこいい」のだが、例えばルネサンスの時代に美化されて描かれるような、そういう美少年ではない。そこにある美しさは、そういう、所謂黄金比によって仕組まれた作為的なものではない。

日常の中に美がある、というような考え方は、柳宗悦に始まる民芸運動から何らかの文章を引用してくるまでもなく、ある程度の実感を持って受け止められているだろうと思う。あるいは個人的には私は、坂口安吾の言うところの、「必要の中にある美」というようなものに着目して、それがこの写真集にも通底するのではないかと考えたい。

つまり、この本にいる少年たちには無駄なものが無い。

ある者は着替えているだけであり、ある者は窓の外を見やるだけ。彼らは決して華美な服を着ていないし、あるいは服を脱いでいかにも然としたベッドでの写真が掲載されていたりもしない。

学校での何気ない一幕。家での、自分の部屋での、さりげない一瞬。確かにそんなこともあったかもしれない、そう思わされる写真が連続される。

しかし大切なのは、実際にはそうした瞬間は無かった、ということである。

帯にはこうある。

少年時代から、カッコいい同級生や先輩たちに対して抱いていたコンプレックス、感じていた同性としての美と羨望。その眼差しを解禁した青山裕企初の試みの写真集、ついに完成!! 小学生から高校生まで、12人の男子たちの皮膚を突き抜けた「少年のなかにある美しさ」を収録。

著者・青山自身が同性に対して抱いていたのは、ホモセクシュアルな感情ではないだろう。むしろホモソーシャルな関係への羨望、あるいは「男性」もしくは「男子」そのものへの羨望ではなかったか。

例えば時々、半裸の男子が現れる。それはなぜか。著者のあとがきにもある。

僕は、昔から自分の身体にコンプレックスを抱き続けてきました。

小学校高学年ぐらいまでは、ものすごく痩せていました。

いわゆる、ガリガリってやつです。

その後、中学から一気に太り「痩せ過ぎ」から「太り過ぎ」でからかわれるようになったという。

ガリガリとからかわれてきた私にも、その気持ちが分からないではない。

男子同士のコンテクストの中で「脱ぐ」ということがどれだけ特殊なことを意味するか。例えば部活の最中、汗をかいて着ていられなくなったTシャツを脱ぐ。それが出来る人間と、出来ない人間がいる。身体的特徴のために、つまりガリガリであるからとか、太っているからとか、それで脱げないだけでなく、精神的に、脱ぐことを許されないという男子もいるのである。

スポーツをしている男子も出て来る。スポーツを楽しむことのできる男子がいる一方で、それを忌避することすらできない男子もいるのである。

はしゃぎあう男子も出て来る。男子と、首を掴んで、微笑みながら、それができる男子がいる一方、お互いを傷つけないように、それだけのために生きるような男子もいるのである。

この本にある男子は、ある意味の虚構──ある人々にとって、虚構である。そしてその虚構は、美化された世界に存在されたものではない。ただその虚構は日常の中に形作られたもので、人は、少なくとも私は、その虚構に羨望の眼差しを向けるしかできない。

この写真集はもどかしい。もどかしさを感じさせる。それでいてそれは不快ではない。ただ羨望の眼差しを向け続ける。それはそれで快いものがある。

ドラマ「精霊の守り人」とは何だったのか。

NHKが制作したドラマ「精霊の守り人」が最終回を迎えた。3年に渡って、断続的にではあるものの放送が続けられたことを思うと、時間の流れる速さのようなものを思わずにはいられない。

さて、このドラマは日本においては初めてと言っていい、本格的なファンタジーを扱ったドラマだと言えるだろう。過去にも似たようにファンタジーに挑戦したドラマはあったのかもしれないが、しかしある一定のクオリティを満たしたのは、この作品がおそらく初めてであろう。

その評価は芳しかったようには思わない。しかし、私はこの挑戦を評価したいし、評価せねばならないと思う。

日本のドラマは、ここ数年、ありえないほどの凋落を見せてきた。もともと日本のドラマのクオリティがアメリカやイギリスや、あるいは韓国と比較したとしても優位であったことはないだろう。それが加速度的な落下を見せた。

その象徴的な事例が、例えば「THE LAST COP/ラストコップ」であり、「愛してたって、秘密はある。」であった。

「ラストコップ」のドラマ最終回は、生放送部分を多く含んでいた。最後の数分だけ、ということで言えば「PRICELESS〜あるわけねぇだろ、んなもん!〜」や「恋仲」も似たようなことをしていたが、「ラストコップ」は断続的に半分近くが生放送であったように記憶している。しかしその結果、内輪ウケを重ね、ストーリーが分からなくなり、冗長なコントを見せられている風であった。

「愛してたって、秘密はある。」は決定的であった。あのドラマは、最終回だけでは釈然とせず、ドラマ中に張られた伏線などは、Huluで公開されることになっていた。それが意味するのはつまり、日本のテレビ局はテレビドラマを断念し、動画配信サービスに身売りしたのに違いないのだった。

そうした具合に日本のドラマは凋落してきた。ドラマは多く、もはや人気でもない漫画の映像化に勤しみ、あるいは話の中身が伴わないのにも関わらず、Twitterでのトレンド入りに勤しんだ。内容よりも話題性であり、クオリティよりも視聴率であった。

その中にあって、このドラマはNHKにしか出来なかったろう。

こうした物語は、時に、設定を説明することばかりに専心するものである。しかし、その説明はかなり省略されていたと思うし、必要なものもセリフの中に巧みに織り込まれるなどしていたろうと思う。例えば直近で言えば、野木亜紀子脚本の「アンナチュラル」にも似たような傾向がある。説明するのではなく、やはり「物語る」ために、いかにしてその準備を簡略化するか。あまりに簡略すると、見るものは見知らぬ土地に投げ込まれたように困惑してしまう。

さて、そうしたところを評価したところではあるが、一方、これを批判的に受け止める向きにも賛同は出来る。

というのも、このドラマの難点を挙げるとするならば、あまりに「画面がうるさかった」。CGがあるからこそその世界観が保たれる、その一方で、画面の情報量が多すぎ、日本のドラマの視聴者には難しかったのかもしれない。

かくいう私も、そういう側だ。代わり映えしない主人公のアパートの一室、おしゃれだがありふれた職場、そういうものを見慣れてきた。一方アメリカのドラマなどを見て、疲れてしまう人がいるとすれば、そのドラマでは情報量が多いからだろう。

今回のドラマは、確かにあまりに情報量が多かった。ただそれは日本というドラマ風土の中にあるものからかもしれない。だからこそ、あえて酷評するつもりはない。

日本のドラマが、こうした具合に、新たな挑戦を重ねながらやはり進歩してゆくことを望む、そして振り返ったとき、このドラマがその端緒であったのだとされることを祈る。