映画『愛を読むひと』

 

 歴史とは、物語である。

このことは、何も物珍しい異端の信念ではなく、ある程度文学に触れる人の中では、普通に共有される観念だろう。

からして、「history」であり、「story」が内包される。歴史とは、物語なのである。

ハンナ・シュミッツという女性がいる。15歳の少年マイケルは偶然出会った彼女に首ったけになる。

15歳の少年にとって、女性の着替えやブラジャーなど、「そそる」ところがあったのだろう。少年は、友人たちと戯れるより、ハンナとの情事を優先させる。

初めてセックスをした日、マイケルは家に帰り食事をしつつ、家族に後ろめたさを感じる。と同時に、その唇に目をやってしまう。彼にとっては昨日まで、いや、ものの半日前まで、口というのは物を食べるためのものであり、キスや愛撫するためのものではなかった。少年の、ささやかで、微笑ましい一幕である。

マイケルは学生であるから、セックスばかりとはいかず、学校でも多くの物事を学ぶ。西欧文学の特徴とはその秘密性にあると習い、ホメロスの『オデュッセイア』を取り上げる。

このころからマイケルは、ハンナに朗読を始める。明かされないが、ハンナは文盲であり、朗読に頼るより他に文学に触れることが出来なかったのだ。

そうしてマイケルは多くの作品を「読む」。それは学校で習ったところに照らせば、多くの秘密を暴く、という行為であった。そしてそれはまたハンナの秘密に接近するということだった。

その夏を最後にハンナは姿を消し、マイケルは大学の法科で学ぶ学生に。その特別ゼミで、ナチ親衛隊として収容所の看守をしていた6人の女性の裁判を傍聴する。

そこにいたのは、ハンナ・シュミッツだった。

彼女は、他の5人が容疑を否認する中、容疑を認める。ハンナ・アーレントがアドルフ・アイヒマンを扱った裁判を傍聴し、その様子を「凡庸な悪」としたように、まさしくハンナ・シュミッツはその典型だった。

毎日収容所には60人やってくる。それは60人ずつあぶれるから、看守1人が10人ずつ選んで、アウシュビッツに送り返す。そこで待っているのは、死だった。

ハンナ・シュミッツは、では殺すつもりで10人を選んでいたろうか。いや、彼女は10人を選ばなくては、新たに来る囚人があぶれるから選んだのだ。

裁判でこれを指摘されたハンナ・シュミッツは「あなたならどうします」と訊ね返す。どうするだろうか。歯向かうか? それが現実的な選択肢として──それが最も倫理的な模範解答だとしても──ありえるのだろうか。

マイケルの友人はこの裁判を受けて、彼女らだけが悪人なのか、誰もが収容所で何が行われていたのか知っていたはずだ、と訴える。確かに一面的にはそうである。

ドイツにナチスがあった、そのことについての認識は、少なくとも日本では2通りではないかと思う。つまり、ナチスという危険な思想を持つ集団が突如悪を成し始めた、という捉え方と、ドイツの健全な民主主義の中からナチスが生まれた、民主主義とはもろ刃の剣なのだ、という捉え方。

あえて、あえて言えば、そのどちらも、正しくあるまい。ナチスを選んだのは、確かにドイツ国民であった。しかし、ナチスは悪人だったのか。アドルフ・アイヒマンが、優秀な公務員であり、その凡庸さから悪が生まれたように、ナチスの中には悪人はいたのか。もしかするとヒトラーすら、あのヒトラーすら、彼は悪をなすつもりで悪をなしたのか。もしくは、何かの必要性の中で──もちろんそれは倫理的に正しい模範解答ではないけれど──なされたのではないか。

日本の戦争責任のあり方について、丸山真男は「無責任の体系」であるとした。現在でも、昭和天皇の戦争責任が問われなかったことを言う向きは無いではない。しかし、本質的に悪とはそうではないか。つまり、悪をなそうと思って悪をなした人間など、本当に存在するのだろうか。

マイケルは、ハンナ・シュミッツが文盲であると、裁判の傍聴中に気が付く。ハンナはマイケルと過ごしたひと夏でさえ、一度も文字を読もうとはせず、ただマイケルが物語を読むのを、時に笑い、時に泣き、そうして聞いているだけだった。

ハンナ・シュミッツは文盲であることを隠匿し、そのために無期懲役刑を受ける。そのことを明かしていれば、彼女に押し付けられた罪は軽くなるはずであったのに。

マイケルは大人になり、娘をもうける。しかし妻と離婚するのに際して、帰郷する。そこで、帰郷をテーマに扱った『オデュッセイア』を手に取り、テープレコーダーに録音を始め、ハンナに送り始める。

ハンナは、棚に、送られてくるテープレコーダーを並べる。そして、そのテープレコーダーを手掛かりに、少しずつ、文字を覚える。まずは「The」から。

今まで適当にごまかしてきたサインを、丁寧に、ゆっくりと、書き順は違っていても、自分の名前で書き、テープレコーダーを受け取る。マイケルに手紙を書く。ロマンス小説を読んで、シラーにはいい恋人が必要ね、しかしその手紙にマイケルが返事をすることはない。

小坂節二は論文中で、ハンナについてこう記す。

殺人を犯した者は、無意識のうちに手を洗うという。ちょうどマクベス夫人のように。*1

いかにもハンナは綺麗好きであった。しかし、文字を知り、多くの本を読み、自分が何をしていたのかを知る中で、身を綺麗にし続ける意味など無くなった。

マイケルは釈放の算段をつけるために刑務所を訪ね、食堂へ行く。そこにハンナがいるはずだが、マイケルにはそれがどの人か分からない。かつての、あの清潔さを失ったからだろうか。

その時の彼女は「死者は生き返らない」という事実と共に、自分の過去を抱えていた。そして字を読むことを学んでいた。

さて、彼女は自ら死を選ぶことになる。

誰が、彼女を殺したのだろうか。

もちろんこれはミステリーではないから答えは彼女自身である。そうではなく、なぜ、彼女は死を選ばなくてはならなかったのか。

文字が読めなかったから、勤めていた会社で昇進する道ではなく、ナチ親衛隊に入って看守をしたのである。

文字が読めなかったから、裁判で有期刑ではなく無期懲役となったのである。

そして文字が読めるようになったから、自分のしたことを知ったのである。

しかし、それは、「凡庸な悪」の説明にも、言い訳にもならない。してはいけない。

歴史とは、物語である。

ハンナ・シュミッツがしたことは、擁護されても、正当化されてはいけない。そして、ハンナ・シュミッツに選ばれ、殺された人のことを思えば、擁護さえ、してはいけないのかもしれない。

しかし、そのハンナ・シュミッツは、悪人だったのか。

最後に、マイケルは娘にハンナ・シュミッツの話を語り始める。本は無いが、朗読を始めるのだ。それはつまりある秘密を暴く、ということを意味していた。

追記
この映画を見て、我を忘れるほどにおんおん泣き、そのノスタルジーの余韻の中でこの文章を記しているから、いささか情緒的で乱暴だろうと思う。最後、イラーナ・マーターが言うように、単なるカタルシスとしてはいけない。この映画の後、私たちは一体何を物語っていくのか。それが問題だろうと思う。

*1:小坂節二「ベルンハルト・シュリンクの小説『朗読者』」東京都立産業技術高等専門学校東京都立産業技術高等専門学校 研究紀要」2012年、第6号