映画『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使い』

さて、「ハリー・ポッター」シリーズの魅力はどこにあるのか。

魅力的な魔法の世界? いや、違うと思う。というのも、実際には魔法を取り扱った作品はたくさんあったはずだし、「ハリー・ポッター」でなくてもいい。

今までも有名なファンタジーはたくさんあった。『指輪物語』や「ナルニア国物語」シリーズには往々にして魔法が登場する。

指輪物語』はハイファンタジーの名作として名高い。作品の世界は私たちの住む世界とは違う、どこか別の場所。そういうのが想像力を掻き立てるのだろう。

ハリー・ポッター」シリーズの魅力はそうではないところにあった。つまり、この作品で描かれる世界は、私たちの隣にあるのであって、別世界の話ではない、という点だろう。

私たちが「マグル」と呼ばれて作品世界の中に取り込まれる。

ハリーはもしかしたら私たちの隣の家に住んでいる小さな男の子なのかもしれない。私たち自身のところにもホグワーツ魔法魔術学校からの手紙が届くかもしれない。そういうところが「ハリー・ポッター」の魅力だったのではなかったか。

 

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とは言いつつ、私たちはハリーたちの暮らす世界が私たちの住む世界に隣り合っていることを決して忘れないわけだが、かといって重なり合っているという感じはあまりしなかった。

実際あの作品でマグルの世界が描かれるのは、ハリー界隈か、或いは『謎のプリンス』なんかでデスイーターたちの悪影響がマグルにも及んでいるシーン、『死の秘宝』でハリーたちが隠れ穴からロンドンに逃げるシーン、ぐらいだろう。

とは言いつつ、私たちは「ハリー・ポッター」シリーズからJ.K.ローリングの想像力が、マグルの歴史の影響力下にあることも知っている。

端的に言えば、デスイーターとはそのままナチスだろう、ということが分かるわけである。

かつてハリーは赤ん坊の時ヴォルデモートを「倒した」わけだが、その後、少なくない数のデスイーターが「服従の呪文」のためにヴォルデモートに従っていたのだ、という風に言った。これこそまさにナチスなき後、自分がナチスに従っていたことを、周囲の環境のせいにしたようなかつての人々を想像させはしないだろうか。

 

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と言うのは、あまりに深読みが過ぎるのかもしれない、と思っていたところ、今回の映画は、まさにJ.K.ローリングの想像力が、実際には我々の歴史にも及んでいることを明確にしていた。

グリンデルバルドが語る甘い言葉に多くの魔法使いが騙される。特記すべきは、彼の思想が、かつての(厳密には後の時代に来るべき)ヴォルデモートとは違って、それほど分かりやすくない、というところだ。

ヴォルデモートの思想とは、要するに「マグルを殺せ」というところに尽きるわけだが、グリンデルバルドの思想は端的にそういうわけではなさそうだ。というのが、彼がクリーデンスを執拗に追いかけるところにも現れている。

なぜグリンデルバルドが執拗にクリーデンスを追い求めるのか、その理由は今のところ明らかにされていないが、そこにグリンデルバルドの思想の根幹があるのは明白だ。それがこの5作で描かれることになる。

 

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5作、と言えば、実はこの作品の結末は決まっている。

もちろん「ハリー・ポッター」シリーズも厳密には結末が分かりきっていた。あの物語が、ハリーの敗北、ヴォルデモートの勝利、という形で終わることはほとんどあり得なかった。

けれどそれ以上に「ファンタスティック・ビースト」シリーズは結末が分かりきっていた。なぜなら、このシリーズは「ハリー・ポッター」シリーズの前史に位置づけられるからであり、J.K.ローリングは、ダンブルドアとグリンデルバルドが戦い、ダンブルドアが戦う、というところまですでに明らかにしているからである。

もっと言えばJ.K.ローリングはこのダンブルドアとグリンデルバルドの間の恋愛関係も明らかにしているわけだが、それは今回クリーデンスがダンブルドアの弟なのかもしれない、ということでさらに混迷を深めそうだ。

また、グリンデルバルドは、マグル(或いはノー・マジ)に任せていては人類は戦争に突入する、と魔法使いたちを先導するわけだが、私たちが第一次世界大戦後、第二次世界大戦に突入したことはすでに起こった事実であり、避けようがない。

ハリー・ポッター」シリーズは、ダンブルドアの構想をめぐる物語だった。

ダンブルドアが構想したヴォルデモートを倒すルートを、ハリーが辿る物語。もちろんその構成は、ダンブルドアの最後とニワトコの杖の顛末をめぐって破綻するのだが、少なくともそれまではダンブルドアの構想を辿る物語だった。

では「ファンタスティック・ビースト」は? 

人類の歴史と、魔法界の歴史はすでに設定の中に組み込まれていて、結末がわかっている。問題はそこへ行くまでのルートをどのように描くかで、それがここから先面白いところだ。

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専ら本作に関して言えば、不評もあるだろうと思う。

J.K.ローリング本人が脚本を担当している、というのもあって、脚本の盛り上がりがない、というのはある。

本と映画というのは全く違う。

本の中の時間は、ページをめくらなければ進まない。だから、つまらなければページをめくらなければいい。それでまたは話が気になれば読めばいい。本の中の時間は、しおりが挟まれた箇所から進まずに止まっている。

映画の時間はそうはいかない。映画の感想に「ジェットコースターに乗っているようだった」という種のものがあるように、始まってしまえば映画が終わるまで止まることはない。途中でトイレに立てば、戻ってきた時にはその分物語が進んでいる。

J.K.ローリングはこの違いが分かっていないのではないか。

というのはこの映画が終始単調で、いまいち盛り上がりに欠けるところからも感じられる。

しかし、「ハリー・ポッター」シリーズのファン、ポッタリアンからしてみれば、垂涎の内容だった。

かつてアーサー・ウィーズリーがハリーに語ったように、当時の魔法省ではフクロウ便が用いられていたり、ダンブルドアが闇の魔術に対する防衛術の教授として真似妖怪ボガートを使った授業をしていたり。

残り3本……かなり長い時間かかる予感がするのだが、ニュート・スキャマンダーがこの先どのように魔法界の歴史に関わっていくのか(というか実はその中の恋模様)を丹念にこの調子で描いて欲しい。

 

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追伸。

ニュートをコミュ障とする向きもあるようだが、個人的には発達障害だと思う。

同じく名言されないが発達障害を描いたのであろう「僕らは奇跡でできている」が放送中で、それが終わった段階で発達障害の表現のされ方については考えたい。