本を読んで賢くなることと語り合うこと

本を読むと賢くなる。というのは、まさにこの一年実感していることだった。

自慢じゃないが、今年は本を読む年だった。実はそれでも足りないくらいの読書量が自分には求められているのだが、それでも人生でも屈指にたくさん読んだ年だった。

主軸は文学に据えたつもり、だった。塩野七生の『ローマ人の物語』に手を出してみたり、『ゲンロン』を買い始めてみたり、『新潮』や『国語と国文学』を定期購読するようになったりしたこともあって、途中で文学から離れかけた節もあったのだが、夏頃から軌道修正もできたと思う。

だからこそ、今年の自分の知的な成長幅は人生でも屈指だ、と自負している。その「賢くなった」という自覚は、同時に、「分かっていたことが分からなくなった」ということと同義で、だからこそそれが次の知的好奇心を喚起するわけだが、その循環が徐々に構築されつつあると思う。

具体的に言うと、今年は毎月読むことに決めている本のシリーズや雑誌のほかに、それぞれ「海外文学」「批評」などとテーマを決めて、それぞれのテーマに適する本を毎月読んだ。何かに偏りがある読書を避けるためだ。来年はこれをさらに進化させて、「哲学」というテーマを作ってみたり、新書に目を向けたりもしていきたい(無論、新書は筆者の偏見に満ちた、あらゆる事柄の導入と入門にしかならない)。

この「賢くなった」という感覚は、同時にむず痒さを覚えるものでもある。

例えば、大学入試などであれば、新たな知識を得て「賢くなった」と自覚したということを、実際に問題を解いて確かめることができる。そもそも学校の勉強、特に問題を解くというのは「分かっていることを確認する」のではなく、「分かっていないことを確認する」ことに比重が置かれるべきなのであって、○をつけることよりも、×をつけることの方が本質的に大切だ。

と、これを今の「勉強」に導入してみると、これが存外難しい。例えば今年はキェルケゴールの『死に至る病』を読んだ。が、まるで分からなかった。しかしそこには「賢くなった」という自覚がある。これは単なる誤解なのかもしれない。他にも、村田沙耶香の『コンビニ人間』を読んだ。ここにある問題意識は、非常によく分かったつもりだ。もちろんそこには「賢くなった」という意識もある。ただ、それが本当に「分かって」いて、本当に「賢くなった」のかは分からない。

このブログはそういう点で機能している。

そもそも自分は、インプットの量とアウトプットの量に大幅な不均衡があると、体調が悪くなる、という特異な体質なのだけれど、その中でインプットしたことを、本当に自分の血肉にできているのかを、何かテーマを決めながら書いていく。大抵は「分からない」などと思うわけだし、そこに悔しさがある。もっと「勉強」しなくては、という結果になるわけだ。

本で読んで賢くなる、というのはかなり難しいところで、例えば「テスト勉強で教科書を読む」などと言い始めたら、それはきっと悪い点数を取るフラグだ。「読む」だけで頭の中に入るのであれば、みんなハーバードだって夢じゃない。

さて、やっぱりそこで大切になるのは、極めて限定的な意味での「アクティブラーニング」だと思う。例えばこうして、心もとない知的水準で文章を書いてみる、ことがそういうのに当たる。

大学の演習だとか、あるいは自主ゼミもそういう類なのだが、やっぱりそういうのを経て感じる「賢くなった」という感覚は、本を読んで感じる曖昧なものと明確に違う。

あえて「語る」という微妙な言い方をせずに「喋る」という言い方をすれば、やっぱりそういうのは大切だろうと思う。「喋る」中で、ふわっと小説家の名前が出て、その小説のあらすじを説明したり、アニメの魅力を語ったりすると、自分でも気がつかなかったところに気が付いたりする。これは「対話」ということだけではない(格好つけて「自分との対話」と言ってもいいが)。

「賢くなった」というのは、すなわち「知識」を身につけられた、ということだけではない、と思う。本を読んだり、(今度は多くの意味を含む)「語り合う」という行動の中で、パラダイムが手に入る。

格好つけているように見えるかもしれないが、話はもっと単純で、あるアニメを「好きではない」と考えているときに、それを「好きだ」と思う人と会う。そうするとそこでそのアニメについて語り合う。自分が魅力だとは思わなかった点を熱く語るその中で、「そういうところに魅力を見出すのか」というのが分かる。別にこれに同調する必要はないのだが、メタ的にそれを知ることができる、というのはかなりありがたい。

良い本とは何か、ひいては古典とは何か。それは多義性だと思う。それをもっと具体的に言えば「再読可能性」と言ってもいいと思うし、あるいは「読み返して面白いか」と書き下してみてもいい。特にそれが現れているのは渡部昇一の『知的生活の方法』で、彼は自分が面白いと思って何度も読み直した本は世間的な評価も高かった、と書く、それは間違いない。

もちろん優れた人間は、自分で読んでも、その多義性に親しむことができる。優れていなくてもできる場合がある。それが「愛読書」ということだったり、「時々読み直す」というようなことなんだろう。

さて、本を読むのは大切だ、と思うのだが、なぜ自分がそれに拘泥するのか、というと、当然「賢くなるため」だろう。じゃあなぜ「賢くなること」に拘泥するのか、はちょっとよくわからない。

ふとこの間、他の人に自分が言った言葉に、我ながらふと思ったことがある。それというのは「知らないっていうのはとっても恥ずかしいことなんだよ」だった。

普通「知らないっていうのは恥ずかしいことじゃない。だから他人に訊きなさい」みたいな用いられ方をするのだと思うが、自分にとって知らないということは恥ずかしいことで、「知らない」という状態が耐えられないから恥を忍んでも本を読むらしい。

そこで知ったところで、知らないことがさらに増えるだけだ。そして知ったと思ってもそれが定着しているかはわからない。

自分は人文学徒なつもりだけれど、人文学というのはそれを利用するチャンスが少ない。何らかの読書会などを通じて、いわば戦争、実戦の中でそれを定着させる方法もあるだろうと思う。

例えば、自分は東浩紀が好きで(と言うと人文学界隈からは白い目で見られたりする。けど、自分は東浩紀経由でしか批評や哲学書を読まないのでなんとも言えない)、ゲンロンのYouTubeの無料生放送を見たりする。お酒を飲みながら9時間ぐらい語り合ったりするその様は、もうほとんど狂気だと思うのだけれど、それを面白そう、と考えている自分もいる。それはやっぱりそういう実戦を経験してみたい、という側面があるからかもしれない。

ただ、人文学にはゲリラ戦的な戦いの場面もある。何か社会的な事柄について、急に人文学的なパラダイムが求められたりする。例えば、デュシャンの『泉』に変な解説が加えられたり、バンクシーが自分の絵をシュレッダーにかけてみたり、東山魁夷の絵がエロゲに似てると言ってみたり、『美しい顔』という小説に盗作疑惑が持たれたりしたときだ。

芸術にはとんと疎い自分も、やっぱり考えざるを得ない。というのは、人文学徒ぐらいはこういうことを真面目に考えないとならないだろうし、それぐらいできる人文学徒になりたいからだと思う。(と言いつつ、現代美術に疎い自分は、大抵どうでもいい、と思ってしまっている側面もある)

バンクシーの絵の話なんかはかなり面白いと思った。それはそれが「作者が作品を発表後も支配する試み」だと思ったからだ。

文学でも京極夏彦が版面にこだわったり、黒田夏子が横書きでひらがなばかりで作品を書いたり、そういう形で、生み出したものを受け取る読者の感覚を支配しようとする。もちろん解釈という自らの精神への複写の時点で、その複写は失敗することが確定しているわけだが、その試み自体は面白いと思う。

バンクシーの絵も同様で、「絵を描いたらあとは任せます」的な態度を取らず、その絵が数年後まで自らの構想の支配下に置こうとするのは面白いと思う。(本当に置けているかは別として)

そしてそういう発想には、ロラン・バルトの言う作者の死なり、ジュリア・クリステヴァの言う間テクスト性を精密に理解する必要があることになる。そんなことは出来ていない。つまりそういったことを自分は「知らない」し、だから「恥ずかしい」と思う。

 

 

話がとっちらかって回収が難しくなっているが、要するに「これからも恥ずかしい思いをしたくないので頑張ります」と言いたいわけだ。

なぜそんな話をするかというと、実はもう今年も2ヶ月を切っているから。これから今年読んだ小説や、見たアニメや映画なんかを振り返りながら何か書きたい、と思うので、そういうシリーズの第一弾として、2018年はそういう心持ちでした、というのを書いておいた。

残り2ヶ月(切っていますが)、一生懸命頑張ります。(何かを)