私的反幸福論

なぜこれを書くのか、まず『反‐幸福論』という本があるようですが、それを読んだわけではありません。また、三大幸福論と言われるような種の本を読んだからでもありません。

まず第一に近頃周囲の人が賢そうな記事を書いているのに(その知的水準にはとても及ばないながら)触発されたこと、第二に、「100分de名著」というテレビ番組での発言に気になる箇所があったからです。

今月の「100分de名著」はモンゴメリによる『赤毛のアン』を取り上げていました。案内人は茂木健一郎さんで、あの「脳」を連発するちょっと胡散臭い説明をしていたんですが、その中でもやっぱり気になったのは「幸福」についての言及でした。

アンは最終的に故郷を離れて大学に進学するという夢を、止むにやまれぬ事情で断念し、故郷に残るわけですが、それについて「普通で平凡な幸福に気がついた」みたいな言い方をするわけです。

やっぱり「知らない幸福」「気がつかない幸福」というのはある種あります。例えばベルンハルト・シュリンクの『朗読者』に出てくるハンナは文盲で、それゆえに自らの犯した過ちを理解しきれずそれなりに暮らしていくわけですが、刑務所の中で文字を覚え、自分のしたことに気がついたとき、自殺するわけです(あえて「自裁」と表現すべきかもしれません)。

このように「知らなければ幸福」というのはあるわけですが、果たしてそれが「本当の幸福」なのか、という問いは立てられます。そうすると「本当の幸福」とは何なのか、という哲学的な命題が立ち上がってくるわけです。

ここで「幸福」を「生きがい」と読み替えて、神谷恵美子が「生きがいとはやりたいこととやらなければならないことが一致したときに生まれる」という旨のことを言ったのをここであえて紹介してみるのも有用かもしれません。

今回は「私的反幸福論」ですから、「幸福」を論じる必要はないでしょうし、そのつもりもありません。最も僕個人は「幸福」というのはもう一種脳のホルモンの働き、ぐらいに割り切って考えてみてもいいと思っているのです。

今回徹底的に批判したいのは「平凡な毎日にある【幸福】」みたいな話です。この際、以下ではこの幸福観を嘲笑する意味合いを込めて【幸福】と表記したいと思います。

 

 

さて、例えば「自分には金がなくて恋人もなくてお先真っ暗。こんな自分は不幸だ。」と考える人がいるとします。

そんな人に【幸福】論者が「それでも一日三食食べられて、少なくとも今日明日の心配はしなくて良いのだから【幸福】でしょう」と言ったとする。

言われた当人は、もしかすると「確かにそのとおり、なんて自分は馬鹿だったんだ」と思うかもしれないですし、その結果新たな【幸福】を自覚するかもしれません。しかしそれは少し前の話に戻りますが「知らないという【幸福】」に準ずるものではないでしょうか。

というのもその人は「金もあって恋人もいて将来ずっと心配がない。自分は幸せだ、恵まれている。」という感覚を知らないで【幸福】と感じることになります。もちろんその先に更にそういった未来がやってくるかも知れない、けれど一応現段階ではメタ的に見れば仮初の【幸福】に浸っているということになるでしょう。

言ってみれば、ここですり替えが起こっているわけです。自分が「不幸だ」だとか「幸せとまでは言えない」と考えているのを、「平凡」を盾にとって【幸福】とすり替えるわけです。これと似た例を挙げたいと思います。

 

 

大学にはサークルというものがあることが多いですが、サークルの設立はそれほど難しいものではありません。やはりサークルを設立するくらいということであれば、きっと何かパッションのようなものがあるのでしょう。

野球をしたい、と思えば、野球サークルを設立するだろうし、将棋が好きだ、となれば、将棋サークルを設立するでしょう。こうしたサークルは当初はそうしたパッションを具体化するための「手段」として設立されることになります。

しかし多くのサークルは次第に「手段」としての役割を失っていきます。

過去に僕が行ったことのあるサークルは壮絶なもので、サークルの練習後、その日の練習の悪かった点を話し合います。いいところ、ではなく、悪いところ、というのが、いかにも「総括」と称して自己批判を行わせた連合赤軍を彷彿とさせるわけですが、そこにあるのは「活動」を重んじるのではない、「組織の自己目的化」の一側面でした。

多くの組織は「何かをするため」に設立されるわけですが、実際にはその組織の存続それ自体が「自己目的化」されるというすり替えが起こるわけです。

 

 

さらに幸福から離れて、この「組織」というのを「社会」と読み替えてみたいと思います。というのも、近頃「社会」というのものについて考える機会が多いからです。

きっかけは村田沙耶香の『コンビニ人間』を読んだからでした。「地球星人」を『新潮』で読んだときにも凄い、とは思いましたが、『コンビニ人間』の方が身につまされるものがあります。両方社会が「普通」とすること、つまり、ある程度の年齢で結婚し、子供を産み、というところに違和感を感じる主人公の物語です。

コンビニ人間の主人公は白羽という自分と共鳴する感覚を持つらしい男性を家に招き、共生していた場面が以下の部分です。

「普通の人間っていうのはね、普通じゃない人間を裁判するのが趣味なんですよ。でもね、僕を追いだしたら、ますます皆はあなたを裁く。だからあなたは僕を飼い続けるしかないんだ」

 白羽さんは薄く笑った。

「僕はずっと復讐したかったんだ。女という寄生虫になることが許されている奴等に。僕自身が寄生虫になってやるって、ずっと思っていたんですよ。僕は意地でも古倉さんに寄生し続けますよ」

ここに違和感があるわけです。白羽さんというのも、現状の社会のあり方に違和感を持っている。しかし、それをもってして主人公に語りかけるとき、主人公を糾弾する「普通の人間」の一員と化してしまっているように見えないでしょうか。

ここで考えられるのは「普通の人間」というのが必ずしもマジョリティと置き換えられる概念ではない、ということです。事実、この『コンビニ人間』は多くの人に共感をもって受け止められている、つまりマジョリティが「普通の人間」ではない、ということです。

普通とは何なのか、というのを偉そうに語ることはあえて避けていうならば、「普通というのは普通という感覚の中で再生産されるものである」ということが言えそうです。

コンビニ人間』に照らしてみれば、白羽さんは「普通の人間」ではないですが、「普通の人間」のセリフを代弁することで、他人に「普通」を強いているようになってしまいます。これはある種「再生産」と呼んでいいのではないでしょうか。

例えば法廷や図書館で「静かにしなくてはならない」という感覚と似ています。「静かにしてください」と書いてある場合もあるわけですが、一般には「周りが静かにしているから静かにする」ということで、静寂が「再生産」されているという捉え方ができます。

さて、これを「空気」と呼び変えてもいいのですが、「空気」というのを便利に使いすぎる節があると思いますから、やめておきます。

 

 

反幸福論、もとい反【幸福】論に戻ってみると、「普通で平凡な生活にある幸福に気づけ」という種の【幸福】観は、「幸福」をすり替え、それを「再生産」させようとする安直なものになるとしか思えません。

「不幸」の先にある、「満ち足りた幸福」を「知らないという幸福」に押し込めているようにしか思えず、そこには日常を自己目的化した陳腐な再生産しか見られないからです。

以上、タイピングのリハビリでした。