ドラマ「おっさんずラブ」と同性愛表象のこれまで

ドラマ「おっさんずラブ」が放送を終了した。2016年の大晦日にスペシャルドラマが放送されたところから考えると、なんだか長いような、それでいて放送が7話で終了したことを考えると短いような。

そんなわけで、「おっさんずラブ」についての記事が世の中に氾濫するのは目に見えている。そこで今回は、「おっさんずラブ」を日本のサブカルのどの位置に置くべきなのか、を中心に書くことで、そういう他の記事と差別化を計っていきたい。これは、意気込みであるから結果どうなるかはわからない。

おっさんずラブ」と腐女子ウケ

このドラマが腐女子ウケを狙ったことは間違いがない。この場合の「腐女子」の定義については、完全に以下のものを参照したい。

 腐女子とは、男性同士の恋愛を好む女性たちのことを指し、2000年頃から当事者たちによって自分たちを指す自嘲的な表現として用いられるようになった。当時はへりくだったニュアンスとして、彼女たちの特殊な趣向に対する防衛線の役割を果たしていた。しかし、それまで表出されなかった腐女子の存在が2005年から2006年にかけて社会現象としてクローズアップされ始めて行く。*1

なお、この論文にはもう一つ注目すべき記述がある。それは少女同士のコミュニティを結びつける要因として〈告白〉をあげた中での記述である。

〈告白〉する主体としての「私」と男性キャラクターの関係ならまだしも、男性キャラクター同士で築かれる関係となると理解の難度は跳ね上がる。「私」という存在を消し、同性同士による恋愛関係をまるで自分の経験のように感じることは困難だろう。*2

この記述は、実際にはある論文の「はじめに」の一部に過ぎないが、他の論文にも見られる記述と共通するエッセンスを持つ。

つまりそれは、「男性同士の同性愛」を嗜好する「腐女子」という存在においては、意図的に「腐女子」自身が削除される。他の恋愛ものであれば「私ならばこの人」と投影されるはずであるのに、BLないしやおいでは徹底的に読者たる「腐女子」が除外される。

「男性同士の同性愛」とはすなわちイヴ・K・セジウィックの言うところの「男同士の絆」のイレギュラーである。つまり、その「イレギュラー」を傍観する立場として自らをその枠外に置くことで、「男同士の絆」の中ではあくまで選択される存在に過ぎなかった女性が物語の構成者たるということである。*3

この点で言えば、作品において「女性」が一定程度排除されていることが必要になる。なぜなら「女性」は同性愛の構造者であったとしても参加者ではありえないからだ。もし参加者になってしまった場合、そこには「異性愛に回帰する」可能性が立ち現れるからだ。

結果として本作においても女性の影は極めて薄かった。ある一人を除いて。

「荒井ちず」論

本来「腐女子ウケ」を狙った作品に女性は不必要である。この点に関して、あえて批判を恐れずにアニメ「Free!」の例を引き合いに出すならば、主人公・七瀬遙ら岩鳶高校にはマネージャー・松岡江と顧問・天方美帆が登場するものの、徹底して「恋愛的」要素が排除されることで、彼女たちはあくまで物語の展開の為の一機関として以上存立しなくなっている。

翻って本作における「荒井ちず」はそうではない。荒井ちず自身は物語中盤にあって春田創一のことが好きであると自覚し、なおかつ告白する。そして春田創一も荒井ちずが好きなのではないか、あるいはそこに収まるのではないか、という予感を視聴者に与えることになる。

結局その予感は7話(というか最終話)で裏切られることになるのだが、その根拠は明らかにされない。というより、「少女漫画」的なお馴染みで言えば、幼馴染とうまくいくはずなのだが、という具合になる。

結局それが日本のドラマ的であり、なおかつ実写で「腐女子ウケ」を成立させるための要件となる。結局、「幼馴染を蹴るほど牧が好きだ」という状況を根拠づけるために機能することになるのだ。

同性愛表象の沿革における本作

本作を、一般にアニメや漫画の二次創作から派生してきたBLないしやおいの文脈に位置づけるのは容易ではない。その作品群は数知れず、なおかつ本作の脚本家など製作陣が、一体どれだけそれを知っているのか怪しいからだ。

その中でむしろ、日本におけるドラマにおける同性愛表象の中でこの作品を位置づける方が、容易で、意味あることのように思われる。

そう考えると実際にはかなりその歴史は古いと思うのだが、今回はあえてここ数年の、あくまで「見た」記憶のある作品に限って並べていきたい。なお、漫画原作など問わず、あくまでドラマについて論じる。

まず、2013年の冬クールに放送されたシェアハウスの恋人である。本筋は水川あさみ演じる津山汐と大泉洋演じる川木辰平がシェアハウスの中で同居する中でのラブストーリーなのだが、そのシェアハウスに同居することになる櫻井雪哉がゲイらしい。「らしい」とつくのは、最終的には「ゲイである」というのがあくまで思い込みに過ぎず、最終的にはそうでないということに気がつき、元の妻と娘のところに戻ることができるようになる。この点で言えば、あくまで「ゲイ」というのが「イレギュラー」であり、「幸せな異性愛的一家」に回帰することが普通であるかのような意味合いを感じさせる。

次に2014年秋クールに放送されたごめんね青春!であるが、脚本が宮藤官九郎氏であることに注意されたい。男子高と女子高が止むにやまれぬ事情で統合することになり、まずは1クラスだけ、クラスの半分をお互いに送り込むことで始める学園コメディである。錦戸亮演じる原平助と満島ひかり演じる蜂矢りさという2人の教師の、過去の軋轢を踏まえた恋模様もさる事ながら、学生らの「ワチャワチャした」模様も楽しい。その中で登場するのが小関裕太演じる村井守だ。男子高時代には何の変哲もなかった彼が、女子高との統合を契機に女子高の制服を着たり、クラスメイトの男子と交際を始めたりする。なおこの村井守はあくまでトランスジェンダーである点でいわゆる同性愛に分類するのははばかられるが、作中における役割に着目して今回は追加した。

次が2015年秋クールの「偽装の夫婦」である。天海祐希演じる嘉門ヒロと沢村一樹演じる陽村超治がメインだが、この陽村超治の方は曲者で、彼はゲイであることを自認している。ただし、止むべからざる事情で偽装結婚をする、という作品である。最終回には批判が集まったが、それはなぜかといえば、最終的にこの嘉門ヒロとゲイであるはずの陽村超治が結ばれることになったから。こちらも「シェアハウスの恋人」同様「イレギュラー」な同性愛が「社会的規範」に回収されるような構造を感じずにはいられない。

2016年秋クールには同性愛を扱った作品が一気に増える。

まず逃げるは恥だが役に立つである。大人気の作品でもあるから、ここで深入りはせずにおきたいが、古田新太演じる沼田頼綱がゲイであることはかなり早くに示唆され、その上で「ゲイであるからといって男を襲う」と思い込んでしまった星野源演じる津崎平匡が思い直す。ちなみに最終回では成田凌演じる梅原ナツキもゲイであることが明らかにされ、LINEで沼田と連絡を取り合っていたことが明らかにされる。しかしその中において「ゲイである」ということが殊更に取り上げられる機会はなく、「だから何?」とでもいうように普通に通り過ぎていく。

「地味にスゴイ! 校閲ガール・河野悦子」は主演・石原さとみで、その衣装にも注目が集まった作品でもある。和田正人演じる米岡光男はかなり序盤にどうやらゲイらしいということが提示されるが、それが明らかに言語化されず、自明のことのように進行する。そして徐々に女性的な性格があきらかになり、女子会にも違和感なく参加するようになる。こうしたゲイのあり方については次のような指摘がある。

 本稿では「ゲイ・ブーム」の詳しい分析に踏み込むことはできないが、しばしばその火付け役とみなされ、言及されることの多い雑誌『クレア』一九九一年二月号の「特集 ゲイ・ルネッサンス'91」では、特集に先立って、「ゲイって言われる人って、/アートに強くて、繊細で、ちょっと意地悪。/彼らと話すと、とっても気持ちがなごむのはナゼ?/ストレートの退屈な男とでは味わえないフリーな感覚。/ファジーな性から本気でもっと学びたい。/〝女を超えた男たち〟からの過激なメッセージはけっこう深い」と綴られている。こうした文章からも、ゲイがどのような存在として期待されたのかは伝わってくる。*4

ここに見られるのは「〝女を超えた男たち〟」、つまりもはや「無性的」、否「超性的」とも呼べる性質を兼ね備えているというステレオタイプをまとったゲイのあり方である。

「レンタル救世主」は同じクールである。作品自体については個人的には駄作との評価を下している。稲葉友演じる薫は作中中盤になってゲイであることが明らかになる。ただし違和感を感じずにはいられないのは、その結果「ありのままの自分」を発露した彼は女性の姿をとることである。もちろん女装志向のあるゲイというのが存在することは否定できないが、いわゆるオネエと呼ばれるようなそうした人々とは志向を共有しないゲイもいるはずであり、そちらを忘れ捨ててはいないか、「超性的」というステレオタイプでゲイをオネエに作り上げていないか、というのは慎重に分析する必要のあるところである。

「トドメの接吻」はそのキスの回数の多さからでも話題をさらった作品であるが、志尊淳演じる小山内和馬は、主人公で山﨑賢人演じる堂島旺太郎に歪んだ愛情を捧げる、ある種サイコパス的な位置に置かれる。

この次に「おっさんずラブ」が置かれるわけだが、そこに至るまでの同性愛表象は「逃げるは恥だが役に立つ」を除いて*5、以下の2つに分類できそうである。

  1. ゲイであるという思い込みが克服される、ないしゲイであったはずが異性愛者に「回帰」するパターン
  2. ゲイであることを自覚して女性の格好をし「超性的」な存在となるパターン

そしてこれはドラマ中においてゲイが脇役に置かれるために、あくまでゲイに「機能」が付与されるものの、その人柄を丹念に描く余裕がない、という状況によって起こるのではないかと考えられる。

結果、同性愛を真正面から描いた「おっさんずラブ」はこの1にも2にも当てはまらない、ということになる。

おっさんずラブ」の普遍性

ゲイを脇役に追いやることによって、ゲイそれ自体を単なる社会的規範から逸脱した存在としか描けないか、逆に受け入れるものの結果超性的なステレオタイプをまとうことになるという現象が起きてきた。

しかし、「おっさんずラブ」が同性愛を中心に据えた以上、そうした2つのパターンに当てはめられる必要はなく、むしろ普遍的な恋愛モノの回帰できる可能性がある。

まず、同性愛を扱った漫画を3つ取り上げたい。

漫画『ひだまりが聴こえる』は未完であるが、同性愛を扱った作品である。「エロ」と呼ばれる要素はないものの、難聴という身体的障害と同性愛2つを包含してあまりある作品のキャパシティには脱帽するより他にないが、ここにおいては日本の漫画・ドラマにおいて典型的な極めて閉鎖的な人間関係によって「ゲイ」が社会的批判にさらされる可能性を防いでいるように見える。

漫画『神様のえこひいき』は、幼馴染の少年に恋心を抱いてしまった少年が神様によって少女に変えられ思いを果たそうとする物語であるが、最終的には男同士でも関係ない、というところに落ち着く。これは韓国映画『ビューティー・インサイド』において見た目が毎日変わったとしても(そして性別が変わったとしても)、ある一人を愛し続けていた、つまり「本質を愛しているのであって性別を愛しているのではない」という感覚と近しいものを感じさせる。

漫画虹色デイズは同性愛を正面から扱った作品ではないし、男性同士のゲイではなく、女性同士のレズを意識した作品だが、作中に登場する少女が、ヒロインに恋心を抱いている、というスタンスでいる。ヒロインは主人公と結ばれることになるのだが、この少女にも別の少年が思いを寄せる。こちらは最終話まで決着がつかないことで「同性愛」が「社会的規範」としての「異性愛」に吸収されることを防いでいる。

レズという観点で言えば『小さいおうち』もその要素がかねてより指摘されているが、それに関しては「小さいおうち」の中で妻と女中が同性愛で結ばれている「かもしれない」という点で、「小さいおうち」の外にいる男を脅かす。つまり家父長制への挑戦と見るべきであろう。*6

こうした同性愛を扱った作品群と「おっさんずラブ」とこうした作品を比較しても、あまり共通点を感じられない。

むしろどちらかと言えば、少女漫画との共通点が多いのではないか。

少女漫画は二分できる。それはヒロインが本命男子に一直線で向かう作品と、途中、別の男子を付き合うものの「やっぱり」と本命男子に戻る作品である。

例えば君に届けのような作品だと黒沼爽子の一途さをアピールしたいわけだから、途中絶対に別の男子に振り向いたりしない。(そしてもちろん風早もくるみに振り向いたりしない)

反対にヒロイン失格オオカミ少女と黒王子のような作品は後者──これを「俺にしとけよ」系と呼びたいが──属する。

ヒロインはうまくいかない恋愛から一度離脱し、「俺にしとけよ」とつぶやいてくれる身近な男に切り替える。しかし「何かが違う」という違和感とともに交際を続け、その男が「行きなよ」と許しを与えるか、自ら「ごめんなさい」と交際を打ち切ることで、本命男子に戻っていく。

本作も、春田は牧と交際するものの一時的にそこから離脱し、「俺にしとけよ」然と振る舞う武蔵の方へ行く。結婚まで行くかに思われたが武蔵は「行きなよ」と許しを与えることで、春田は本命の牧のもとへ向かうことができる。

まとめに

本作は日本の同性愛が表象されてきたドラマからは隔絶された腐女子ウケを狙った作品であったように思う。

しかしながら最終的にその作品が、今までのパターン分類されるゲイのあり方ではなく、むしろ「少女漫画的」に回帰したという点で、つまり、ゲイがあくまで普通の恋愛モノの中に描かれた点で、このドラマは評価されるべきではないかと思う。

*1:吉田栞・文屋敬「腐女子と夢女子の立ち位置の相違」福岡女学院大学福岡女学院大学紀要 人文学部編』第24号、2014年、p.62

*2:同上、p.61

*3:なお、BL中における「オメガバース」という設定を持つ作品群についても(αというエリート階級が、Ωという性的弱者を一方的に選択し(番になる)、同性であってもΩを妊娠させられる)、もしかすると「男同士の絆」において「選択される」女性像を男性に還元したものとして解釈できるかもしれない。

*4:「「同性愛者の隣人」との関係性 ──桐野夏生『天使に見捨てられた夜』──」中央大学人文科学研究所『人文研紀要』第88号、2017年、p.5

*5:沼田頼綱が料理上手であり、ご意見版的立ち位置を占めるという「女性らしさ」を2に当てはめることも可能かも知れない。

*6:もちろんこの点は「男同士の絆」というホモソーシャルへの挑戦という点で「腐女子」のあり方と通底するものもあるかもしれない。