TikTokについて考える。

TikTokなるものが密かなブームだそうだ。

ネット老害に片足突っ込んでいる私は、それに眉をひそめて「素敵な自己顕示欲だこと」だなんて自分にはないキラキラをひがんでいたのだが、数日前についにアプリをインストールした。

そもそも、どこの誰とも知らない高校生の修学旅行の写真を見て他人の幸せを羨んで、それをルサンチマンに昇華して、それを日々のエネルギーにしている節もあるし、見るだけなら別に忌避するほどのものではない。

見れば見るほど、このアプリは不思議なアプリだ。もちろん、Twitterに出て来る面倒くさい広告もさることながら、その構造もかなり不思議だ。

そもそもTikTokは、短めの動画を共有することが出来るアプリだ。ただし違うのは、音声の共有や転載が簡単なこと。この「映像と音声の分離」という観点は後できちんと触れたい。

そのうえで動画を次のように分類したい。

  1. 主に美男美女が自己顕示として音楽に合わせてダンスをするなどする動画
  2. 美男美女の友人を一方的に撮影した動画
  3. 部活などの友人同士で楽しんでいる動画
  4. 太っているなどの身体的コンプレックスを自虐的に披露する動画
  5. その他の動画

更にその上で、「動画の傾向」「映像と音声の分離」「アトランダムな閲覧」に的を絞って考えてみたい。

動画の傾向

動画の分類については上記の通り。「その他の動画」というカテゴリを置くあたりにいかにも姑息さを感じないではないだろうが、まれに如何とも分類し難い異端があるのだから許してほしい。

この場合「美男美女」という定義はかなり曖昧だと取ってもらって構わない。本当に美男美女かもしれないし、あるいは自分にその意識があるだけかもしれない。

考えてみれば似た現象はツイキャスが全盛期だったころにもあった。ツイキャスから始まった「配信」の文化は、LINE LiveYouTubeの氾濫と共に「ツイキャスでなければならない」必要性が薄れて行った上、ツイキャスで人気を集めていた所謂「キャス主」はそのTwitterを根城に芸能界にも足をのばしたりした。

同じTwitter界隈の動画と言えば、6秒に限定されたVineがあったが、あれに関してはかなり「美男美女」という意識は薄く、大関れいかさんのような存在を生み出した。

YouTuberについても「イケメンであること」や「かわいいこと」がそれほど必要な条件ではないことに目がつくだろう。一方Tik Tokはそれがかなり重要な意味を持つらしい。

その理由はおそらくかなり単純で、動画の時間が短いからだろう。

せいぜい15秒弱で伝えられる内容には限りがあるし、そこで笑いを獲るのは難しい。数十分の動画さえ相当な数があるYouTubeとは違う。つまりTikTokに期待されるのは「面白い動画」ではなく、かつ静止画でもない。

この「静止画ではない」という点に関しては、「なぜInstagramでは駄目なのか」というところと通じる。そしておそらくその背景にはSNOWのようなアプリがある。

「盛れる」加工や、或いは顔に熊のイラストを乗っけたりするような加工が容易に用いることのできるSNOWは一時期かなり溢れた。理系の大学生がSNOWの加工を解くソフトを開発し一斉に叩かれた、というようなのは少なくない人にとって記憶に新しいだろう。

そこに対する募り募った「不信感」のようなものがあり、一方美男美女の側としても加工のような「言い訳」をしたくなかった。つまり加工という「言い訳」なしに自分の顔を晒したいが、それを画像でやってしまうと、単なる自己顕示欲に塊になってしまう。だからこそTik Tokという「言い訳」が受容された。

一方従来加工に「不信感」を募らせていた人からすると、その加工が外されることはやぶさかではない。なおかつ「動いている」というのは一定の信頼感を担保するのだろう。

だからこそ動画にはあくまで日常を切り取ったような、或いは断定的な言い方をすれば「昼休み的な」動画が多い。そして「#有名になりたい」と言ったようなハッシュタグが多いことも兼ね合わせると、「昼休みに有名になりたい人々」というTikTokユーザーの傾向が掴める。

もちろん例外も山ほどいる点は指摘しておかなくてはならないが、この「昼休みに有名になりたい」という、TwitterInstagramYouTubeなどとは「簡単さ」「広さ」という点で異なるというのは間違いないだろうと思う。

映像と音声の分離

TikTokの動画で典型的なのは、いくつかの音声が広くシェアされており、それに合わせてダンスをする、というものだ。概ねそのダンスはそれほど難しくはない。「覚えるのに30分かかった」と言っているアカウントも見つけたが、普通のダンスと比べれば圧倒的に簡単だろう。

もう一つかなり多くの動画が投稿されているのは、アフレコ的なもの。例えばサンドウィッチマンのコントの音声に合わせて口を動かすといったようなもの。

いずれにせよそこから分かるのは「映像と音声の分離」。そして「音声によって規定された典型的な振る舞い」があるということ。

これはYouTubeなどとは違う。

自由度がない、振る舞いが規定されている、というと窮屈なように思われないではないが、実際には窮屈ではない。むしろ自由な中で「何かしろ」というYouTubeはクリエイティビティに溢れる人々にとっては広大なフロンティアかもしれないが、そうではない人々にとってはどうしようか困る荒涼な砂漠である。

SNOWの加工を離れ、その音声という「言い訳」を手にした人々は動画を撮影する。そこに「#有名になりたい」とつけるのは自然なことのように思われる。

もう一つ言えるかもしれないのは、音声をシェアすることで動画しか晒さない、という点である種の線引きをしている可能性。

YouTubeに動画も音声も晒すと自分自身の全てを見られているような気がするが、音声を意図的に隠すことで、自分は表面しか晒していないという意識を持つこと出来る。

実際には校章入りの制服で、校舎内で撮影しているわけだから、なまじ休日に撮影するYouTubeの動画よりも個人情報は洩れるはずなのだが。

アトランダムな閲覧

日本では圧倒的にTwitter人気が大きいが、Twitterで「世界と繋がっている」という認識は間違いだ。

Instagramも同様で、こうしたSNSはフォロー=フォロワー関係の中で極めて閉鎖的に利用される。

もちろん我々は世界中の誰かと接続できる「可能性」は持っている。しかしそれはあくまで「可能性」に過ぎず、それを利用している人はほとんどいない。大抵は知り合いとだけ繋がり、リツイートで回ってくるのは更にその知り合い、その程度。Instagramに関してはかなり酷くて、リツイートに近い機能はあるはずだが、それを利用する人はほとんどいないだろうと思う。

つまり我々はタイムラインで極めて閉鎖的なコミュニティとしか交流をしない。この閉鎖性は「#有名になりたい」とは相いれない。

そこでTikTokが異色なのは、このタイムラインが当初開いた段階では「おすすめ」になっている点。この「おすすめ」はいいねの数が多いものが取り上げられる、という欠点はあるものの、それだけに「#有名になりたい」という願望を一定程度担保しうる。

Tik Tokが「昼休みに有名になりたい」のだとすると、YouTubeは「休日に有名になりたい」といった具合だろうか。どちらもかなり開かれているという点では同じだが、手軽さでことなる。そしてその開放性はアトランダムな閲覧方式によって担保されている。

その点で言えば、TikTokは閲覧者にとってもYouTubeとは異なる。

掲示板で使われるROM(Read Only Member)をあえて援用するならば、比較的容易にコメントを投げかけやすいYouTubeニコニコ動画に対して、TikTokの特徴はそうしたROM。「沈黙する視聴者」といった具合。

ここにおいて「広さ」とは。

例えばYouTubeニコニコ動画では視聴者がマスとして存在する。そのうちの一人として自己が規定される。YouTubeの膨大な再生回数のうちの一回として、或いはニコニコ動画に流れる数多のコメントのうちの一つとして。

一方Tik Tokではそうではない。スマートフォンを通して見る誰かの「昼休み」は、あくまで個としての自分を存立しやすくなる。

そうした場合、即ち、沈黙することによってマスの規定する視聴態度から逸脱することが許される場合、アンチの大量発生を防ぐことが出来る。取り留めなくアンチが増え続けるのではなく、それに対抗し得るファンの存在を容易にする。

こうした点もTikTokの特徴ではなかろうか。

まとめに

TikTokの特徴は以下の通りに集約される。

第一に、「昼休みに有名になりたい」と言うような「手軽さ」と「広さ」を兼ね備えた機能。

第二に、「映像と音声の分離」によってその「手軽さ」は形作られており、かつそれによって「一線を引いている」という感覚がある可能性。

第三に、「アトランダムな閲覧」によって「広さ」は形作られており、かつそれによって大規模なアンチの発生を防いでいること。

こうした具合にTikTokは、おそらくはVineというよりもSNOWの互換として「#有名になりたい」人々が生き続ける限りはしぶとく残るのではないかと思う。

北条裕子「美しい顔」を擁護する。

感想を書いた記事を2つほど上げましたら、その作品が芥川賞候補になるわ、盗作疑惑が出るわで大変です。

アクセス数がグッと増えてしまって、中身のない記事を晒されていて、恥ずかしい気もするわけですが。

盗作疑惑を「世に問う」らしく世間に公開されるそうですが、残念でなりません。これぞまさに「消費される」という感じがするからです。

そのうえでおそらく芥川賞受賞はないと思われますが。(あったらまたしても恥ずかしい)

 

さて「擁護する」とは誤解を招きそうですが、別にこの盗作疑惑を擁護するわけではありません。

この作品を書いた本人、北条裕子氏は地震を東京で「消費する」側の人間であり、それを7年経った今、「生産する」側に回ったのだというコンテクストは忘れてはならないと思います。

その際、取材をしたり、調査をしたりするのは普通のことでしょう。それについて「参考文献を記し忘れた」というのは、擁護できないでしょう。作者・北条裕子氏本人、並びに『群像』編集者たちにも、落ち度があると思います。

一方で、私は以下の2点に反論する必要を感じています。

  1. 北条裕子氏には実際には実力がない。モデルをしていたりするなど、単に名前を売り出したいから地震をテーマにとっただけだ。
  2. 大震災は特別な事象であるから、取材・調査で誰かが簡単に触れて良い素材ではない。

 

まず、1「北条裕子氏には実際には実力がない。モデルをしていたりするなど、単に名前を売り出したいから地震をテーマにとっただけだ。」についてですが、これは言うまでもありません。

文学を著す、ということについて、基本的には全ての人に門戸が開かれているはずです。というか文学は、あくまで思想の表出であって、それを「書いていい」「書いてはいけない」と判断するのはおかしなことですし、ましてやそれが「モデルをしていたから」だとかで評価されるのは間違っている。

更に、彼女自身の顔について、北条裕子氏本人が自分の顔が「美しい顔」であるという自覚があることは、もうほとんど間違いないでしょうが、それは石原千秋氏が指摘した通り、もう一種のパラテクストとも捉えられる。詳しくは記事に書いてあります。

「実際には実力がない」というのは、残念ながら同意せざるを得ません。物語の構造をとっても、地震に触れた辺りの──つまり「参考文献」がある辺りの──描写は迫力がありますが、その後、弟との海辺のシーンは「陳腐」と表現されてもおかしくないと思います。

ただしそれは、すでに群像新人賞を獲った、ということで、ある程度保証されているでしょうし、本当に実力が無いのであれば、自然に発表の機会を失うに違いありません。

 

次に、2「大震災は特別な事象であるから、取材・調査で誰かが簡単に触れて良い素材ではない。」

これに関しては、徹底的に反論しなくてはなりません。

まず、「美しい人」の持つ意味とは、少なくとも2つあります。

  1. 震災を消費してきた人々の姿を、消費される側の視点から暴くこと。
  2. 震災を消費してきた人々が「こうあってほしい」と思う被災者の姿を提示すること。

第一については、記事でも取り上げました。つまりこの短編は、震災を「希望」などといった陳腐な文句に転換し「消費」した人々の姿を、「消費」された側の人々の姿から描き、最終的には「希望」の前に「負ける」しかないことを提示するのです。

これは「敗北宣告」と表現できると思いますが、一方でこの小説自体も、また震災を「消費」しているのだという事実に、読者は向き合わざるを得ません。

そしてそのことは震災を経験していない人間にしかできません。なぜなら「消費」してきた人々しか「消費」を終わらせられないから。被災者の人々が同じ小説を書いたとしても、学級委員長が「ねえちょっとそこの男子、ちゃんとやってよ」と言うくらいの意味しか持たない。そういうときには男子の誰かが「手伝ってやろうぜ」と一言言えば事態が動くものです。

第二について、記事では一瞬だけ取り上げました。

〈私〉に北条裕子氏は投影されているだろう。しかしそれは「投影しない」という形で「投影されている」かもしれない。もしかするとこの作品は、震災に対して「傍観者」でしかあり得なかった彼女自身が「被災者」の絶望を期待しているのかもしれない。そしてその彼女には石原千秋曰く「美しい顔」が与えられている。

北条裕子「美しい顔」 - ダラクロク

 つまりこの小説の主人公には明らかに北条裕子氏本人が投影されている、そのうえで、「被災者にはこうあってほしい」という願望が投影されている。

それはなぜか? やはり北条裕子氏本人が、震災を「消費」したからです。しかしその震災の全てを「消費」できたわけではない。

震災はあまりに残酷で、あのとき傍観者だった人々は、まだその全てを「消費」できてはいません。2万を超える死者が出たのだから、当然と言えば当然でしょう。挙句の果てに原発事故。その全てを「消費」できず、私たちはその中から「悲劇」になりそうな部分と、「希望」になりそうな部分だけを切り取って「消費」しました。

しかし一方我々はその「消費」できなかった部分に戦々恐々としている。どんなに恐ろしい「何か」がそこに潜んでいる。それはもしかしたら心理学的に無意識とされる部分にかこつけ、不気味な響きを持つ「it」と呼ぶより他に無いのかもしれませんが、「何か」がそこにある。

その「何か」が、本当はこんな風だったらいいのに、被災者の人々も心の中では意図的に傍観者に「ショー」を提供しているのであればいいのに、というのは、きっとあのとき傍観者だった全ての人が、心のどこかで祈っていることです。

だからこそ、それを具現化した小説は、あの時震災を「消費」した人にしかできない。

もちろん、批判を呼ぶでしょうし、被災者が小説を書くことも妨げられるべきではない。しかし一方、傍観者がいかに傍観し、そしてその限界はどこにあるのかを示した本作は、「作者が被災者ではないから」という理由で評価を下げられてはならないのです。

 

以上の理由より、この作品は、確かに参考文献を示さなかったことには問題があるし、一種の剽窃ととられかねない表現があるものの、しかしそれこそが震災を「消費」してきた傍観者の態度なのだと考えると、意味があるように思われます。

だからこそ、この作品の評価は簡単に下げられるべきではないのです。

映画『君と100回目の恋』

君と100回目の恋

君と100回目の恋

 

芥川賞候補の某作品に盗作疑惑が……当の掲載雑誌の方は「参考文献をつけ忘れただけ」と言っていますし、そうなのかな、と思いますが、何が不幸って、その作品についてこのブログで記事を書いていて……。

現状その記事がこのブログのアクセス数の稼ぎ頭。なんといっても、作者名+作品名で検索するとこのブログの記事が5番目とかに出るんだもの。

一応その一連の様子を見て、記事をどうするか考えたいと思います。文学作品のオリジナリティなるものに一体どの程度の価値があるのか分からないが、だからって無断で何かを参考にするのは、それって剽窃と言われても仕方がない。

と、そんなこんなで不意に1日300アクセスも稼いでしまった私は、普段せいぜい10アクセスあれば良いかどうかなのでもうすっかりやられてしまっている。

そういう時に限って、疲れた時に酸っぱいレモンが欲しくなるのと同じロジックで、恋愛モノを見たくなる。

構造として

ネタバレ覚悟で先んじて言えば、この物語は「ヒロインとどう別れるか」という所に力点があって、別に「ヒロインをどう救うのか」という物語ではない。

このゲーム的リアリズムを取り入れた作品は、やはりここ最近多い。ゲームとの親和性から、アニメなどでの作品が目立つ。

知っている限り一番古いのは『時をかける少女』特にアニメ映画の方で、映画のラストで間宮千昭は「未来で待ってる」と言い、紺野真琴は「うん、すぐ行く、走っていく」と応答する。当然時間の流れは一定で「走っていく」なんてことありえない。

ただ実写でも似たような構造を持つ作品はいくつかあって、中でもお気に入りなのは映画『江ノ島プリズム』。

売り出し中の福士蒼汰が主演だったり、その脇を本田翼と野村周平が固めたり、演技力的には不安でならないが、その不安は確実に的中にする。

ちなみにこの三人はドラマ「恋仲」でも共演するわけだけれど、こちらが先になる。

江ノ島プリズム』では、福士蒼汰演じる修太は、病弱で亡くなってしまった朔を救うために、時間を戻って奔走する。

と言うのもこの朔が亡くなったのはミチルが留学に行くのを知って、ミチルに走って会いに行ってしまったから。

この場合はたしかに「朔を救う」という形で物語が収束する。ただしタイムトラベルのルールとして、修太と朔・ミチルはお互いの記憶を失ってしまう。

こちらはかなりタイムトラベルを合理的に設定しようという「意志」を感じられる。

反対に本作は、と言うとどうだろうか。

陸は葵海が亡くなることを知っていて、それを防ぐために何度でもやり直す。

死を防ぐ、というのは『江ノ島プリズム』はもちろん、「シュタインズ・ゲート」「魔法少女まどか☆マギカ」が典型的にそれをやっていたと思う。『江ノ島プリズム』を除いて、何らかの「諦め」で物語が締めくくられる。

ただスケールが違うのは、本作はここ数日を繰り返すようなのとは違う。

おそらく陸が文系だったのに突如大学では理系になって相対性理論やら時間のことを勉強している、というのはそれに関してのことのはずで、つまり年単位で彼は戻って未来を防ごうとしている。

一度だけ葵海と一緒に時間を戻れた時に二人でイチャイチャするわけだけれど、かなりその辺りが甘ったるい。なんだこれプロモーション映像か? みたいな感じがある。

何度頑張ったって救えない、けれど救おうとし続ける。キャッチコピーは「君を守る。何度、時を巻き戻しても―。」「あなたを好きになる。たとえ、どんな運命でも―。」

さて、この物語の「時間」観は冒頭の大学の講義でミヒャエル・エンデの『モモ』を取り上げる形である程度説明されている。この場面がいかに重要であるかは、繰り返される時間がいつもこの場面から始まる、というところからも分かる通り。

とは言いつつ『モモ』は一切読む気がしない、というのも自分の中での児童文学は『ハリー・ポッター』と『ダレン・シャン』で完結してしまっていて。そのことを今回痛烈に後悔している。

この作品は「時間が盗まれる」というところから少女モモがそれを取り戻そうとするわけですが、簡単に言えば本作ではそれは葵海が陸に「そんなの生きてるって言える?」と訊ねたところに集約される。

すなわち、陸の時間は葵海を救うために途方もないスパンで繰り返されてきて、陸の時間は(葵海によって)捕らえられ、盗まれてしまっている。

だからこそ最後に葵海は自らの身を挺して、もう二度と時間を戻れないようにし、死を甘んじて受け入れる。それによって盗まれた陸の時間は解放される。

この葵海による陸の解放というのは、最後のチョコレートのレコード盤を「食べちゃっていいからね」と言うところにまとまっている。というあたりはかなり綺麗な展開。

さて一方でイヴ・K・セジウィックの『男同士の絆』を絶賛読書中の私は、ここに置かれる葵海というキャラクターの存在が気にかかる。

そもそもそこそこ昔から恋愛モノというのは「男性による女性の選択」でしかなく、女性は主体性を剥奪された対象、あるいはもっと有体に言って「商品」でしかなかった。

このことは「男同士の絆」、すなわち、三角関係が形成される際、女性はそこから疎外され、男性同士のホモソーシャルな関係が注目されるという点によく現れている。

ただこのことがかなり根深いのは、多くの少女漫画でヒロインは「彼が私を選択してくれる」ことを望む。反対に多くのハーレムを形成するラノベでは主人公の男の子が多くの選択肢の中から自分好みの女の子を「選択する」という構造になっている(あるいは「選択しない」ということによって「選択されたい」女性に対する優位性を保っている)。

と、考えた時、陸はパターナリストに見える。すなわち、「葵海を救ってやる」という上位者的なふるまいをする。「時間をさかのぼれる」故に上位者的である。

という観点から考えれば、葵海も時間にさかのぼることによって二人は初めて対等な関係として恋愛する。この辺りは海辺の告白のシーンによく現れている。

畢竟時間を戻れなくなった陸が葵海を救うことを諦める、というのは、陸がパターナリズムから解放されることを意味するようである。

登場人物について

と、こういう具合に、いっつも物語の構造を分析するのが好きで、つまりAだからBになったように見えるけれども、もしかしたらCだからBになったのかもしれない、と言いたい。

ただそうなると登場人物だとか、繊細なところから目を離しがち、みたいなことがあって、少し頑張ってみたい。

葵海と陸は幼なじみなわけだが、意図的に陸が呼び寄せた直哉と鉄太とバンドを組む。バンドと言えば『カノジョは嘘を愛しすぎてる』なんかが思いつくところだけれど、というか今回はただ単純にmiwaに演技をやらせたかっただけなんじゃなかろうか。

シンガーソングライターが主人公、というよりバンドにしてしまった方が話が早いし、今回の製作にはトライストーンが噛んでいるわけで、miwaも坂口健太郎もトライストーン所属。ここらあたりで組んで歌でも歌わせたい、というのは分からない話ではない。

葵海も陸もお互いのことが好きで、多分そんなことは分かり切っているのだが、当初はなかなかくっつかない。

とは言いつつ、陸の方はもう何回も同じことをやり直しているわけで、きっとその中にはもっとラブラブに過ごす、というのもやってみているだろうから、その辺に興ざめしないではない。

葵海は告白してくれた直哉に対して「直哉でもいいから付き合う」というようなことを口走ると、その直哉を思っていた里奈が怒り出す。当然と言えば当然ですね。

これはやっぱりこの映画の女子陣が、特に里奈が強くて、「選択」による恋愛関係をかなり潔癖に排除している。里奈の怒りっぷりと言ったらなかった。

総じて言えば、普通の女子大生の中にダントツのイケメンがいて(個人的には竜星涼だってかなりのイケメンだと思うわけだが)、そのイケメンは好きな「普通の女子大生」を何度も助けようとするが助けられず、「普通の女子大生」はイケメンをその過酷な運命から救う、という具合だろうか。

個人的には中でも里奈の立ち位置がかなり重要だと思う。あるいは同じ物語をかつて演じていたらしい(このあたりも『時をかける少女』的だが)長谷川俊太郎(陸の父)が物語のアウトラインを示す役割を果たしている。

時間

さて、物語に総合的な評価を下すとしたら、可もなく不可もなく、といった具合だろう。

映画『時をかける少女』で真琴は「走っていく」と言った。しかし当然、走ったところで時間の進行は変わらない。

例えばドラマ「アシガール」はどうだろうか。時を戻った少女は若君の元へ「走っていく」。これは本当に「走る」のである。

アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」はどうだろうか。最悪の可能性を避けるために時間を繰り返した結果は、最善と最悪を超越した「神秘的」な結末を迎えた。

アニメ「シュタインズ・ゲート」ではまゆりと紅莉栖の両方を救おうとしつつ、最後にはそれを断念した。

映画『江ノ島プリズム』ではそれを成し遂げたものの「記憶」という代償を払った。

こうしたところから分かるのは、時を繰り返し最良を選択するというゲーム的リアリズムは、最後にハッピーエンドともバッドエンドとも見極められない終わりを迎えることが多いということである。

本作もその脇に漏れない。葵海が死んだことは辛かろうが、陸は救われた。陸の失われた時間は取り戻されたという点で、『モモ』的である。

典型的な恋愛モノであるように振る舞いながら、実際には「解放」の物語である。というぐらいにほめておけばいいだろうか。

北条裕子「美しい顔」

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

 

 大変に申し訳ない。いや、本作についてはこちらの記事で紹介したのだが、かなりセンチな感じが出ていて、実は記事の半分以上は自分の震災体験を語っていて、芥川賞の候補作になったのを見てやってきた人にはかなり幻滅されただろうと思う。

なのでその贖罪として、できる限りの形で本作について精密に考察してみたい。

「敗北宣告」としての「震災文学」

60年の安保闘争ベトナム戦争キューバ危機、2001年9月11日の同時多発テロ。そうした具合に、何らかの大きな出来事が文学に影響を与え、それ「以前」とそれ「以後」によって切り分けられるというのは割に見られる現象である。

そして2011年3月11日の東日本大震災は、その「断絶」としてはあまりに甚大な被害をもたらした。あの時すべての日本人は、「被災者」か「助力者」か「傍観者」に属し、悼む間もなく流れてくる巨大な死者数を理解し、そして次いで起こった原発事故を理解するのに精一杯だった。

我々は「被災者」を傍観した。テレビや新聞では絶望に打ちひしがれた「被災者」と、未来に希望を抱く「被災者」を交互に「傍観」し、そして「消費」した。

なぜ私はお前なんかに見せてやらなければならない。なぜお前なんかにサービスしてやらなきゃならない。なぜ私がお前なんかを気持ちよくさせてやらなければならない。プロカメラマンになったような気持ちよさを、なぜお前なんかにくれてやらなければならない。かわいそうに撮るなら金を払え。かわいそうが欲しいなら金を払え。被災地は撮ってもタダか。この男も、マスコミも、きっとそうだ。みんな金を払え。

我々は2011年3月11日に何を得たのか。「被災者」はたくさんのものを失った。しかし「傍観者」は「大震災」というエンターテインメントを手に入れ、その無償の娯楽を消費していた。

しかしこの小説は何を描くのか。「傍観者」がカタルシスとして震災を消化したことを批判したいのでも、「助力者」顔した人間が「マスターベーション」するが如き様子だったことを暴きたいのでもない。これは「被災者」を我々が「美しい」ものとした「ヒサイシャ」から引き剥がす、痛みを伴う除去手術であり、その結果我々にもたらされたのは希望ではなく絶望である。

 これから、いくどもいくども日常との戦いに敗れ、敗れて敗れて、もうこれ以上負ければ駄目だと思いながらも負け続け、しかしやはり負け続ける以外に生きていく術がなく、それに気がついては絶望するのだろう。(中略)そして、結局自分は成長できはしない、あの日のまま時間が止まってしまったんだと泣き、悪態をつき、蹴散らして、数え切れないほど自分を卑しみ、途方に暮れるのだと思う。そうしながらいくども三月十一日を迎え、そうしているうちに母の年齢に近づいたり追い越したりするのだろう。

我々はもうこの震災に勝つことはできない。そして「被災者」はきっと勝つことはできない。何に? あるいはそれは「美しい顔」かもしれない。

「美しい顔」とは、母の顔である。〈私〉は母に勝つことができない。

これは誰かを失った「被災者」への「敗北宣告」であると同時に、それをエンターテインメントとして消費した「傍観者」への「敗北宣告」でもある。それは、この小説を与えられた我々が、今後震災をエンターテインメントとして消費し得ないという点からも明らかである。

「商品」としての「被災者」〈私〉

物語は、十七の少女サナエ〈私〉からの視点で語られる。それ以外の登場人物はそれほど大きな位置を占めないと言っていい。父を小学六年生で亡くし、母と弟の三人家族でいた〈私〉にとって弟ヒロノリは大切な存在のはずだが、避難所のS体育館にあって〈私〉はいつもヒロノリのそばにいるわけではない。

 ヒロノリはしだいに私の目につかないところで過ごす時間が増えていった。どこかへ出掛けていき、日が暮れるまで帰ってこない。私はそのことに早くから気がついていた。私がサービス業務に精を出せば出すほど、遅くまで戻らなくなった。私は弟に自分のしていることを見られたくなかった。私の華やいだ顔を見られたくなかった。外に行ってたくさん友達を作って馬鹿みたいに遊んでいてくれればいいと思っていた。豪快に遊び、疲れ果てて帰ってくればいいと思っていた。ずっとそうしていてくれたらいいと祈るように思っていた。

〈私〉がヒロノリを嫌っている、というようなわけではない。しかしマスコミ相手に(否、もっぱらカメラを相手に)「ヒサイシャ」であることを提供している姿をヒロノリに見せられたくはない。だからこそ、〈私〉が「被災者」としてカメラに振る舞えば振舞うほど、弟の存在感は作品から薄くなっていき、「被災者」としての振る舞いをやめれば弟との距離は詰まる。

〈私〉がカメラに健気な少女を提供するのは、〈私〉が母の死と向き合うことができないからだ。それは、母の生死が判然としない中カメラにサービス精神を発揮していた後、母の死を知ったはずなのにそれを終えられない点にも現れている。

では、その「サービス精神」の本質とは何か。石原千秋氏が産経新聞文芸時評に寄せたコメントはそうした点でかなりユニークで面白い。

 いま、僕は北条裕子のポートレートをパラテクストとして見ている。だからわかることがある。これは極めつけのフェミニズム小説なのだ。「北条裕子」は、何を言っても何をやってもその「美しい顔」によって意味づけられてきたにちがいない。たとえば、悪意さえも。「北条裕子」は、それを「美しい顔」の内側からずっと見てきた。これが、震災報道に関して言う「なにか得体の知れない不快なもの」の正体にちがいない。これは本人さえも知らないことだろう。それでいて、「北条裕子」のポートレートは「私を買ってください」と言ってはいないだろうか。一人称とはそういうものだし、作家とはそういうものだ。

*1

文学というものが、いや、凡そ芸術というものが何かしらの精神の発露として存立し続ける限り、一人称小説でその主人公に作家が一つも投影されていないなんてことはありえない。

〈私〉に北条裕子氏は投影されているだろう。しかしそれは「投影しない」という形で「投影されている」かもしれない。もしかするとこの作品は、震災に対して「傍観者」でしかあり得なかった彼女自身が「被災者」の絶望を期待しているのかもしれない。そしてその彼女には石原千秋曰く「美しい顔」が与えられている。

〈私〉は「被災者」としての「顔」を「傍観者」に提供する。北条裕子氏はそれを著した者としての「(美しい)顔」を「読者」に提供する。

なおこの際、〈私〉は東京から見れば周縁のサバルタンであり、東京に迎合する言葉でしか語りえないという点は長々と指摘するまでもない。この東京に迎合した言葉は東京で「被災地の今を伝える」的に編集され「代弁」される。その意気込みへの本質的な嫌悪感は、冒頭部のボランティアカメラマンへの嫌悪感に描き出されている。

マルクスは人間の労働が不当に搾取されていることを明らかにした。そしてイヴ・K・セジウィックは、ホモソーシャルな男性社会において女性が商品として取り扱われてきたことを明らかにした。

この小説は「被災者」を「商品」として取り扱った「傍観者」を「告発しない」という形で「告発する」。

その時思い起こすのは「美しい顔」というだけで女性を「意味づけ」てきた男性の歴史である。この点は選評において多和田葉子氏によっても指摘されている。

主人公は美人であるという設定で、被害者の商品化と女性美の商品化というテーマが重ねられる。自分の顔が「復興」という大きな物語に使われていくことに抗議する声は、作品内で反復され強まっていく。

「震災後」のために

太平洋戦争はどうであろうか。太平洋戦争が横たわる日本の歴史は、間違いなく「戦前」「戦後」の二つに、あるいはそこに「戦中」を加えた形での三つに分類できる。

「加害者」としての日本を正当化することなど許されず、戦争モノといえば中央権力から離れた場所にいる無力な「被害者」を描くしかできなかった。

しかし東日本大震災はどうか。

そこには「被害者」の姿しかない。

津波で家族が流されて。原発のせいで引越ししなくてはならなくなって。電力不足だというので計画停電で。

そして我々は、きっとそういう「被害者」の姿を複製し続ける。創造し続ける。

毎年3月11日には記念番組が放送され、津波の映像を流し、東北の人々が出てきて当時のことを語り、その後建てられた新しい家、その後生まれた新しい命が映し出される。それを見て我々は震災を「消費」し続ける。

しかし、この小説が、「美しい顔」が、少なくとも群像新人文学賞受賞作として、あるいは芥川賞候補作として名を残す限り、「震災後文学」はそれを許さない。

我々は「震災」の商品化と、それをカタルシスにすることを、この、ただ絶望の迫力が迫り来るこの小説によって禁じられたのだ。

*1:文芸時評】6月号 早稲田大学教授・石原千秋 被災描くフェミニズム小説(1/2ページ) - 産経ニュース

東日本大震災のこと(北条裕子「美しい顔」)

※こちらは私個人の震災体験が半分以上を占める記事です。小説「美しい顔」に焦点を当てた記事がございますので、こちらをご覧下さい。

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群像 2018年 06 月号 [雑誌]

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

 

説明すると面倒くさいですが、群像新人文学賞を受賞した北条裕子さんの「美しい顔」を読みました。

なるほどこれはすごい、というような圧がある。後半になって急にそれが減圧されていく感覚に違和感を覚えないではないですが、それでもやはり、そこにエネルギーを感じます。

そのエネルギーが感じられるのは、きっと自分もまた、東日本大震災を、幼いながらに経験したからに違いないのです。そしてその感想を書こうと思うと、やはり文体は常体よりも敬体の方がしっくりと、思ったことが出てくるように思われます。それはこの小説を、常体的に、つまりは論理的に語ることは、他の方がなさるだろうし、その二番煎じには意味がないと思うからです。

ということで、多くの普通の読者がそうするであろうように、まずは私自身の東日本大震災体験を書いておきたいと思います。蛇足の感は否めませんが、まだあの地震については消化しきれていない部分が多く、書くなり何なりしておきたいという気持ちでもあります。そしてそれは私にとって懺悔でもあります。

 

2011年3月11日には、北海道にいました。

当時小学6年生だった私は、卒業式を間近に控えていました。中学の卒業であれば高校入試があったりして慌ただしいのでしょうが、小学生にそういうのはないし、クラスメイトの半分以上は同じ中学校に行くので、その卒業式には本当に儀礼としての意味しかないようでした。

卒業式を控えた小学6年生の私たちには「校舎に恩返しをする」というミッションが課せられていました。

その日、14時46分。担任の坂口先生は、雑巾をクラスの児童30余名に見せながら、来るべき大掃除の説明をしていました。

地震の発生は14時46分でしょうが、それはあくまで東北沖で揺れが起きた時刻ですから、北海道に揺れが到達した頃が何時頃だったか、覚えていません。ただ、クラスメイトの大村さんが「先生、揺れてる」というようなことを言いました。

今から思い返せば、思い返せば、確かにその頃異様に地震が頻発していて、教室でも「揺れてる」と誰かが言うと、少し鈍感な先生が「そうか?」と返し、「揺れてるよ」とみんなでそんな様子の先生を笑う、というのが繰り返されていて、それと同じだと思いました。

教室の窓際には針金が渡してあって、そこに雑巾がかけられています。坂口先生は、そこにかけられた雑巾が揺れるのを見て地震を確認しました。

「机の下に入れ」と先生が言ったのは、あくまでマニュアル的な指示だったと思うのですが、当時地震が頻発していたわけですし、ふざけた感じで机の下に入りました。

揺れは収まりません。体感では、5分か、10分か続きました。途中で揺れの性質が変わったことにも気がつきました。それが初期微動の縦揺れと主要動の横揺れの切り替わりだったのだと知ったのは、その翌年、中学1年生の理科で地震について学んだ時です。

揺れは収まりません。いつもより異様に長く、気持ち悪い感じがありました。

実はその時、揺れが頻発していたこともあって、それに1月は阪神淡路大震災のあった月ですし、ネットサーフィンが趣味だった私は、阪神淡路大震災についてウィキペディアを熟読していたこともあって、そういうことを思い出していたのだと思います。

揺れは収まりません。机の下に入っているクラスメイトは、少し不安な、或いは反対にそういうアトラクションに乗って楽しい感じもありました。その中で金山くんという男の子が「死ぬときはみんな一緒だよ!」と叫び、クラスが笑いに包まれました。

揺れがやっと収まると、「先生方は職員室にお集まりください」という教頭先生の声の放送がありました。ギター片手にフォークソングを歌うような教頭でした。

私は、その手の大きな地震があったときには、きっと迷わず校庭に避難するのだろうと思っていました。よくよく考えると3月の北海道ですから、校庭には雪が積まれています。私の小学校では校庭にスケートリンクを作るのが常で、流石に3月にもなればスケートリンクはないでしょうが、スケートリンクはなくとも雪があったのは想像に難くありません。

職員会議は嫌に長かった。児童を帰すなら帰すと決めればいいのに、とイライラしていたのですが、体感では40分ほど先生がいませんでした。もちろん実際はそんなはずはないし、20分ほどだったと思います。

帰ってきた先生は、いつになく真面目な顔をして下校の準備をさせました。

私は下校しました。いつもどおりの道を、いつもどおりに歩きながら、下校しました。

家に着くと、母親と弟が玄関に迎えに出てきました。

「大丈夫だったの?」と聞かれました。弟は下級生で、その日は早く帰っていたようでした。

「震度が7だって」というようなことを言われました。マグニチュードの話だったかもしれないですが、それを聞いた私は、咄嗟に阪神淡路大震災ウィキペディアを思い出していました。そして、今回の地震の規模が、あれを凌ぐレベルのものだと直感しました。

当時はまだ少し分厚かったノートパソコンで、それほど仲の良かったわけでもない友達とメールで地震の話をしたり、テレビの津波の動画を見ていたりしました。

はっきり言えば、ワクワクしました。なんだかものすごい場面に立ち会ってしまったような浮遊感でいました。北海道弁ではこれを「おだつ」というのですが、間違いなく当時の私はおだっていました。

まもなく、インターネットは接続ができなくなりました。同時に、電話も繋がらなくなりました。私は、たかだか震度3か4を感じたに過ぎないところで、小さく孤立しました。

うちは最初はNHKでしたが、フジっ子だったのもあって、安藤優子キャスターが状況を伝えているのを見ていました。

津波津波津波。夜になって暗くなると、今度は石油コンビナートの出火。

翌朝の北海道新聞はぶち抜きで津波に襲われた東北の写真。

まるで日本が壊滅して、北海道だけが残ってしまったような。

当時は枝野官房長官でしたが、この人も寝ていなかった。みんな凄いなあ、と思いました。当然ですが、発生直後は被災者の映像なんかはなかった。繰り返されたのは津波の映像でした。

インターネットも電話もすぐに復旧しましたし、私はおだったままでした。

卒業式はつつがなく行われました。いいえ、つつがなくというのは嘘かもしれません。黙祷を捧げた記憶があります。そして校長先生が「東北には卒業できないたくさんの子どもたちがいます」と言いました。

4月には入学式でした。入学式、中学校の校長先生は「東北には入学できないたくさんの子どもたちがいます」と言いました。「この中学校でも3月に生徒会が中心になって募金が集められました」と言いました。

その時私は直感しました。私の人生は今後、すべて、この東日本大震災に呪われていくのだと。

中学校の卒業式。校長先生は「皆さんが入学した年には東日本大震災が起こり」と言いました。

高校の卒業式、PTA会長は「皆さんは激動の時代を生きてきました」と言いました。

私は、私の人生の節目が、東日本大震災に呪われていくことが嫌でたまりませんでした。

そして今も私は、東日本大震災に思いを寄せられずにいる。

だから私は「花が咲く」のような歌は大好きです。被災地に思いを寄せています、というようなフリができます。あれを聞いているだけで自分も、自分も被災地に同情を寄せられる人間なのだという気がして、自分が東日本大震災の呪いを憎んでいることを忘れられる気がして。

しかし時々思い返します。東北で2万人が死んだとき、私は友達の発した「死ぬときはみんな一緒だよ!」という冗談に大笑いしていました。東北で2万人が死んだとき、私はいつもの道をいつもどおりに歩いていました。東北で2万人が死んだとき、私はワクワクしながらテレビの津波の映像を眺めていました。東北で2万人が死んだとき、私はその地震が、自分の人生の門出を汚していくことを憎んでいました。

私にとってもうあの地震は、カタルシスにしかならないのかもしれない。ドラマチックな悲劇としか感じられないのかもしれない。上っ面だけの同情と哀れみに涙を流して、内心では自分の人生を邪魔した震災を憎んでいる。

 

さて、もうこの時点で3000字以上書いていますが、小説の内容に戻れば、この作家も私と少なからず同じ感覚を抱いていたようです。

それは「あの時何もしなかった」という感覚。

しかしこの作者は、それを小説にした。この作者は被災者ではない。東京の人です。けれど、「東京の人」が「東北」に向けたあの視線を、誰よりもよく自覚している。

十七歳の少女サナエは弟ヒロノリと二人きりで避難所にいる。

母親と会えない自分の境遇を売り物にして、東京のマスコミに頻繁に登場する。そこで悲劇のヒロインを器用に演じることで、自分自身が浄化されたような感覚を覚える。

東日本大震災の話になると思い出すのはドラマ「あまちゃん」でのセリフです。だれが言ったか、もう覚えていないですが、「私たちはいつまで被災者でいればいいんだ」というようなものだったと思います。

しかし彼女は、あくまで消費される「被災者」に徹することで平静を取り戻そうとしていく。彼女は〈東京のマスコミ〉を利用する。

かと言ってこれが、カタルシスに大災害を利用した〈東京のマスコミ〉への、一種ウヨクじみたマスコミ批判であるというわけではない。一人称で吐露される心情は、そうした余念を挟む余地なく、私たちを襲う。

希望と絆の良い話に消化した悲劇の実相。私たちが目を向けることのできなかった現実。読者に同情を挟む余地はない。ただ、恐怖心だけが巻き起こる。

面白い小説を評価するのに「ページをめくる手が止まらない」というものがありますが、本作についてはどうでしょう。少なくとも私は「読むのを止めたい」と思いました。何度も。けれども前述の後悔からでしょうか。「読まねばならない」というような使命感もありました。

主人公〈私〉に同情できるかはかなり微妙です。けれども、そうでないにしても、彼女の内心は私たちに何かを突きつける。そしてそれは、希望には昇華しきれないものです。

それについては、私がこの小説中で一番好きだった部分が、近からず遠からぬ表現をしていると思います。

 これから、いくどもいくども日常との戦いに敗れ、敗れて敗れて、もうこれ以上負ければ駄目だと思いながらも負け続け、しかしやはり負け続ける以外に生きていく術がなく、それに気がついては絶望するのだろう。

多彩な、という表現が適切かわからないけれども、圧倒的な圧力を持った筆致の中で、特に好きな部分。

私たちは、地震を希望や絆の悲劇に昇華することをやめる。ロミオとジュリエットは死んでしまったけれどキャピュレット家とモンタギュー家は仲良くなりましたとさめでたしめでたし、みたいな終わり方は認めない。

私たちは、あの地震に負け続ける。そしてそのことを知っている。勝とうと、その地震カタルシスに矮小化はしない。ただ、負け、負け続ける。

それは被災者に限った話ではないのではないでしょうか。

本作は芥川賞へのノミネートも期待されているようです。

そうしたところから考えても、この作品が「震災後文学」の一ページに確かに刻み込まれることは間違いないと思われます。

しかしそれが「敗北」の宣告と自覚を意味するのだということを、忘れてはいけないのだという気がします。

朝井リョウ『星やどりの声』

星やどりの声 (角川文庫)

星やどりの声 (角川文庫)

 

朝井リョウはポリフォニックな作家である。

と言えば、ミハイル・バフチンの著作や「ポリフィニー」の概念を知る人からすると、まさかドストエフスキー朝井リョウを同列に扱うつもりか、と怒られるかもしれない。

全くそのつもりがないことは最初に述べておかなくてはならない。この場合の「ポリフォニック」とはバフチンによって理論化されたものではなく、もっと素朴な意味で用いたい。

この小説は涙を誘う。そうした悲劇が喜劇よりも著しく優先されるべきだとは思わないが(坂口安吾の「FARCEに就て」を参照されたい)、「お涙頂戴」と言われた時に「はいどうぞ」と涙をくれてやるのが悪いことだとは思わない。

これは現代小説に広く言える特徴かもしれないが、作品には小説家の姿が感じられる。

特にその筆頭は個人的にはあさのあつこである。あさのあつこと言っても『ランナー』と『スパイクス』くらいしか読んだことが無いのだが、それでも「なんでこんなに登場人物をいじめるの!」と行先の無い義憤にかられたりする。

これはエンタメ小説の仕方ないところで、例えば韓国ドラマでは作為的に財閥関係者がいじめぬかれるわけだが、それでも「ピノキオ」は名作なんだからそれでいい。

というわけで、一応この作品への弁護を済ませたところで。

 

世の中には「他者」というのがいて、では「他者」とはどのような存在かということはあらゆる哲学者が向き合っている。おそらく「自分」と向き合うと必然的に「自分」ではない「他者」に向き合う必要のあるところから端を発するのだろうが、ここではあえて、そうした先学の思想を全く参照しないかたちで大風呂敷を広げてみたい。

「他者」には二種類いる。①(存在は)知っているが(詳しくは)知らない「他者」と、②(存在も)知らないし(詳しくも)知らない「他者」である。

例えば私たちがユニセフのいかにもなCMを見るとき、こうしている間にもアフリカには学校に行けずに遠くに水を汲みに行っている少年少女がたくさんいるのであろうことを頭のどこかで把握しているが、別にそのことを普段思い返したりしないし、そもそもユニセフにいくら「啓蒙」されたところで、その存在はなかなか実体としてつかめない。

こういう場合、この他者は認知もされないわけで、②にあたるのだが、これを小説の題材にとるのはかなり難しい。つまり叙述に彼らが立ち現れた瞬間にそれは①に移行してしまうから、②を描くには、描かないという形で存在をほのめかす、しかし存在を確信させてはいけないという揺らぎやすさの問題が起こる。

というわけで小説に描かれるのは①。簡単に言えば「なんかわかんないけど嫌い」みたいな他者を、色々な交流を深めていくうちに大好きになる、というようなストーリーは、珍しいものではない。

朝井リョウの作品では、この存在は知っている、というだけの他者を、それぞれの目線から描きだしているという点で、ポリフォニックであると言える。

本作は6人兄弟それぞれの視点から綴られた短編による短編集である。この6人兄弟が、ただの6人兄弟と違うのは、彼らが父親を失っていることである。

しかし「お父さんがいない喪失感」「心にぽっかりと空いた穴」みたいなことは言っていない。

住友生命に父親がいない、というCMがあったが、「いない父親」が本作においても日常に溶け込んでいる。「いない父親」という存在である。

その存在は時々現れるが、必ずしもそれに依拠しなくてはならないということではない。彼らはそれぞれに日常を順調に、あるいは行き詰りながらも生きている。

こうしたそれぞれの見方で描かれる物語は、「お互いが何を知らないのか」ということを読者に明らかにする。

反対に、徹底して一人称で語ることで「信頼できない語り手」的に叙述トリックを施す場合もあるが、その場合、あくまでその語り手の他者観が読者にも委ねられることになる。読者には「透明な批評」の可能性はあるものの、しかしそれはかなり読解からは離れた、読者による作品の再構成という感じがある。

例えば長男・光彦の章。光彦は就活が夏になっても終わっていない。それでいてサークルの飲み会に適当に参加したり、それで家庭教師のバイトに遅れたりするおちゃらけた一面も見える。

しかし光彦の一人称のト書きを読んだ我々は、必ずしもそれだけではないことが分かる。ここで我々は、「知っているが知らない他者」として存立する光彦の内面を知ることになる。

この経験が章ごとに、つまり6回繰り返される。

しかし重要なのは、そればかりではないこと。

「何を考えているのか」というのが一人称の文章の中で明らかになる経験だけでなく、「何を考えているのか」が分からない、という経験も同居している。

それが「長男 光彦」におけるあおいであり、「三男 真歩」におけるハヤシであり、「二女 小春」「二男 凌馬」におけるお母さんであり、「三女 るり」における松浦ユリカであり、「長女 琴美」における父である。

私たちは一人称を通してそれぞれの内面を覗き見、その他者性が崩壊する経験と共に、厳然とした「わからない」他者が存立し続ける。そしてそれは、全ての短編が投影図的に照応し合うことによって立体感をもって浮かび上がり、やっと少し「わかったかもしれない」という状況になる。

そして更に朝井リョウが得意とするのは、それが何でもない日常の一部分で起こることだ。

桐島、部活やめるってよ』『少女は卒業しない』に特徴的なように、確かに普遍的な日常とは違うかもしれない。しかし「ほんの少しだけ」異化された日常は、おそらくこれからも続く。

それは時として安心感を伴った希望に感じられ、或いは憂鬱な絶望に感じられる。

『何者』のクライマックスは、読者の胸にも迫るものがあったが、だからと言ってきっとこの物語は終わらないし、続いていく。その生々しさに、恐怖心を覚える。

本作ではどうだろうか。

単純明快に言えば、本作は6人兄弟の父が建て、母が経営する「星やどり」という淳喫茶を閉店させることを決意する物語である。これを「卒業」としてもいい。

本作の以後、「星やどり」がなくなった6人兄弟はどうなるか。きっと今までと変わらないのだ。きっと今までと変わらずに、それぞれの毎日を、それぞれに過ごす。

例えば小春が化粧をやめました、みたいな話はあるのかもしれない。そういう小さな変化はきっとあるのだろうが、それでも日常は続いていく。

これは希望か? そうではない。日常が続いていくことに幸せを感じられるほどできた人間ではない。そでは強いて言えば安心感。だからこそこの物語は「終わらない」という広大さを孕んでいるように感じられるのである。

ドラマ「おっさんずラブ」と同性愛表象のこれまで

ドラマ「おっさんずラブ」が放送を終了した。2016年の大晦日にスペシャルドラマが放送されたところから考えると、なんだか長いような、それでいて放送が7話で終了したことを考えると短いような。

そんなわけで、「おっさんずラブ」についての記事が世の中に氾濫するのは目に見えている。そこで今回は、「おっさんずラブ」を日本のサブカルのどの位置に置くべきなのか、を中心に書くことで、そういう他の記事と差別化を計っていきたい。これは、意気込みであるから結果どうなるかはわからない。

おっさんずラブ」と腐女子ウケ

このドラマが腐女子ウケを狙ったことは間違いがない。この場合の「腐女子」の定義については、完全に以下のものを参照したい。

 腐女子とは、男性同士の恋愛を好む女性たちのことを指し、2000年頃から当事者たちによって自分たちを指す自嘲的な表現として用いられるようになった。当時はへりくだったニュアンスとして、彼女たちの特殊な趣向に対する防衛線の役割を果たしていた。しかし、それまで表出されなかった腐女子の存在が2005年から2006年にかけて社会現象としてクローズアップされ始めて行く。*1

なお、この論文にはもう一つ注目すべき記述がある。それは少女同士のコミュニティを結びつける要因として〈告白〉をあげた中での記述である。

〈告白〉する主体としての「私」と男性キャラクターの関係ならまだしも、男性キャラクター同士で築かれる関係となると理解の難度は跳ね上がる。「私」という存在を消し、同性同士による恋愛関係をまるで自分の経験のように感じることは困難だろう。*2

この記述は、実際にはある論文の「はじめに」の一部に過ぎないが、他の論文にも見られる記述と共通するエッセンスを持つ。

つまりそれは、「男性同士の同性愛」を嗜好する「腐女子」という存在においては、意図的に「腐女子」自身が削除される。他の恋愛ものであれば「私ならばこの人」と投影されるはずであるのに、BLないしやおいでは徹底的に読者たる「腐女子」が除外される。

「男性同士の同性愛」とはすなわちイヴ・K・セジウィックの言うところの「男同士の絆」のイレギュラーである。つまり、その「イレギュラー」を傍観する立場として自らをその枠外に置くことで、「男同士の絆」の中ではあくまで選択される存在に過ぎなかった女性が物語の構成者たるということである。*3

この点で言えば、作品において「女性」が一定程度排除されていることが必要になる。なぜなら「女性」は同性愛の構造者であったとしても参加者ではありえないからだ。もし参加者になってしまった場合、そこには「異性愛に回帰する」可能性が立ち現れるからだ。

結果として本作においても女性の影は極めて薄かった。ある一人を除いて。

「荒井ちず」論

本来「腐女子ウケ」を狙った作品に女性は不必要である。この点に関して、あえて批判を恐れずにアニメ「Free!」の例を引き合いに出すならば、主人公・七瀬遙ら岩鳶高校にはマネージャー・松岡江と顧問・天方美帆が登場するものの、徹底して「恋愛的」要素が排除されることで、彼女たちはあくまで物語の展開の為の一機関として以上存立しなくなっている。

翻って本作における「荒井ちず」はそうではない。荒井ちず自身は物語中盤にあって春田創一のことが好きであると自覚し、なおかつ告白する。そして春田創一も荒井ちずが好きなのではないか、あるいはそこに収まるのではないか、という予感を視聴者に与えることになる。

結局その予感は7話(というか最終話)で裏切られることになるのだが、その根拠は明らかにされない。というより、「少女漫画」的なお馴染みで言えば、幼馴染とうまくいくはずなのだが、という具合になる。

結局それが日本のドラマ的であり、なおかつ実写で「腐女子ウケ」を成立させるための要件となる。結局、「幼馴染を蹴るほど牧が好きだ」という状況を根拠づけるために機能することになるのだ。

同性愛表象の沿革における本作

本作を、一般にアニメや漫画の二次創作から派生してきたBLないしやおいの文脈に位置づけるのは容易ではない。その作品群は数知れず、なおかつ本作の脚本家など製作陣が、一体どれだけそれを知っているのか怪しいからだ。

その中でむしろ、日本におけるドラマにおける同性愛表象の中でこの作品を位置づける方が、容易で、意味あることのように思われる。

そう考えると実際にはかなりその歴史は古いと思うのだが、今回はあえてここ数年の、あくまで「見た」記憶のある作品に限って並べていきたい。なお、漫画原作など問わず、あくまでドラマについて論じる。

まず、2013年の冬クールに放送されたシェアハウスの恋人である。本筋は水川あさみ演じる津山汐と大泉洋演じる川木辰平がシェアハウスの中で同居する中でのラブストーリーなのだが、そのシェアハウスに同居することになる櫻井雪哉がゲイらしい。「らしい」とつくのは、最終的には「ゲイである」というのがあくまで思い込みに過ぎず、最終的にはそうでないということに気がつき、元の妻と娘のところに戻ることができるようになる。この点で言えば、あくまで「ゲイ」というのが「イレギュラー」であり、「幸せな異性愛的一家」に回帰することが普通であるかのような意味合いを感じさせる。

次に2014年秋クールに放送されたごめんね青春!であるが、脚本が宮藤官九郎氏であることに注意されたい。男子高と女子高が止むにやまれぬ事情で統合することになり、まずは1クラスだけ、クラスの半分をお互いに送り込むことで始める学園コメディである。錦戸亮演じる原平助と満島ひかり演じる蜂矢りさという2人の教師の、過去の軋轢を踏まえた恋模様もさる事ながら、学生らの「ワチャワチャした」模様も楽しい。その中で登場するのが小関裕太演じる村井守だ。男子高時代には何の変哲もなかった彼が、女子高との統合を契機に女子高の制服を着たり、クラスメイトの男子と交際を始めたりする。なおこの村井守はあくまでトランスジェンダーである点でいわゆる同性愛に分類するのははばかられるが、作中における役割に着目して今回は追加した。

次が2015年秋クールの「偽装の夫婦」である。天海祐希演じる嘉門ヒロと沢村一樹演じる陽村超治がメインだが、この陽村超治の方は曲者で、彼はゲイであることを自認している。ただし、止むべからざる事情で偽装結婚をする、という作品である。最終回には批判が集まったが、それはなぜかといえば、最終的にこの嘉門ヒロとゲイであるはずの陽村超治が結ばれることになったから。こちらも「シェアハウスの恋人」同様「イレギュラー」な同性愛が「社会的規範」に回収されるような構造を感じずにはいられない。

2016年秋クールには同性愛を扱った作品が一気に増える。

まず逃げるは恥だが役に立つである。大人気の作品でもあるから、ここで深入りはせずにおきたいが、古田新太演じる沼田頼綱がゲイであることはかなり早くに示唆され、その上で「ゲイであるからといって男を襲う」と思い込んでしまった星野源演じる津崎平匡が思い直す。ちなみに最終回では成田凌演じる梅原ナツキもゲイであることが明らかにされ、LINEで沼田と連絡を取り合っていたことが明らかにされる。しかしその中において「ゲイである」ということが殊更に取り上げられる機会はなく、「だから何?」とでもいうように普通に通り過ぎていく。

「地味にスゴイ! 校閲ガール・河野悦子」は主演・石原さとみで、その衣装にも注目が集まった作品でもある。和田正人演じる米岡光男はかなり序盤にどうやらゲイらしいということが提示されるが、それが明らかに言語化されず、自明のことのように進行する。そして徐々に女性的な性格があきらかになり、女子会にも違和感なく参加するようになる。こうしたゲイのあり方については次のような指摘がある。

 本稿では「ゲイ・ブーム」の詳しい分析に踏み込むことはできないが、しばしばその火付け役とみなされ、言及されることの多い雑誌『クレア』一九九一年二月号の「特集 ゲイ・ルネッサンス'91」では、特集に先立って、「ゲイって言われる人って、/アートに強くて、繊細で、ちょっと意地悪。/彼らと話すと、とっても気持ちがなごむのはナゼ?/ストレートの退屈な男とでは味わえないフリーな感覚。/ファジーな性から本気でもっと学びたい。/〝女を超えた男たち〟からの過激なメッセージはけっこう深い」と綴られている。こうした文章からも、ゲイがどのような存在として期待されたのかは伝わってくる。*4

ここに見られるのは「〝女を超えた男たち〟」、つまりもはや「無性的」、否「超性的」とも呼べる性質を兼ね備えているというステレオタイプをまとったゲイのあり方である。

「レンタル救世主」は同じクールである。作品自体については個人的には駄作との評価を下している。稲葉友演じる薫は作中中盤になってゲイであることが明らかになる。ただし違和感を感じずにはいられないのは、その結果「ありのままの自分」を発露した彼は女性の姿をとることである。もちろん女装志向のあるゲイというのが存在することは否定できないが、いわゆるオネエと呼ばれるようなそうした人々とは志向を共有しないゲイもいるはずであり、そちらを忘れ捨ててはいないか、「超性的」というステレオタイプでゲイをオネエに作り上げていないか、というのは慎重に分析する必要のあるところである。

「トドメの接吻」はそのキスの回数の多さからでも話題をさらった作品であるが、志尊淳演じる小山内和馬は、主人公で山﨑賢人演じる堂島旺太郎に歪んだ愛情を捧げる、ある種サイコパス的な位置に置かれる。

この次に「おっさんずラブ」が置かれるわけだが、そこに至るまでの同性愛表象は「逃げるは恥だが役に立つ」を除いて*5、以下の2つに分類できそうである。

  1. ゲイであるという思い込みが克服される、ないしゲイであったはずが異性愛者に「回帰」するパターン
  2. ゲイであることを自覚して女性の格好をし「超性的」な存在となるパターン

そしてこれはドラマ中においてゲイが脇役に置かれるために、あくまでゲイに「機能」が付与されるものの、その人柄を丹念に描く余裕がない、という状況によって起こるのではないかと考えられる。

結果、同性愛を真正面から描いた「おっさんずラブ」はこの1にも2にも当てはまらない、ということになる。

おっさんずラブ」の普遍性

ゲイを脇役に追いやることによって、ゲイそれ自体を単なる社会的規範から逸脱した存在としか描けないか、逆に受け入れるものの結果超性的なステレオタイプをまとうことになるという現象が起きてきた。

しかし、「おっさんずラブ」が同性愛を中心に据えた以上、そうした2つのパターンに当てはめられる必要はなく、むしろ普遍的な恋愛モノの回帰できる可能性がある。

まず、同性愛を扱った漫画を3つ取り上げたい。

漫画『ひだまりが聴こえる』は未完であるが、同性愛を扱った作品である。「エロ」と呼ばれる要素はないものの、難聴という身体的障害と同性愛2つを包含してあまりある作品のキャパシティには脱帽するより他にないが、ここにおいては日本の漫画・ドラマにおいて典型的な極めて閉鎖的な人間関係によって「ゲイ」が社会的批判にさらされる可能性を防いでいるように見える。

漫画『神様のえこひいき』は、幼馴染の少年に恋心を抱いてしまった少年が神様によって少女に変えられ思いを果たそうとする物語であるが、最終的には男同士でも関係ない、というところに落ち着く。これは韓国映画『ビューティー・インサイド』において見た目が毎日変わったとしても(そして性別が変わったとしても)、ある一人を愛し続けていた、つまり「本質を愛しているのであって性別を愛しているのではない」という感覚と近しいものを感じさせる。

漫画虹色デイズは同性愛を正面から扱った作品ではないし、男性同士のゲイではなく、女性同士のレズを意識した作品だが、作中に登場する少女が、ヒロインに恋心を抱いている、というスタンスでいる。ヒロインは主人公と結ばれることになるのだが、この少女にも別の少年が思いを寄せる。こちらは最終話まで決着がつかないことで「同性愛」が「社会的規範」としての「異性愛」に吸収されることを防いでいる。

レズという観点で言えば『小さいおうち』もその要素がかねてより指摘されているが、それに関しては「小さいおうち」の中で妻と女中が同性愛で結ばれている「かもしれない」という点で、「小さいおうち」の外にいる男を脅かす。つまり家父長制への挑戦と見るべきであろう。*6

こうした同性愛を扱った作品群と「おっさんずラブ」とこうした作品を比較しても、あまり共通点を感じられない。

むしろどちらかと言えば、少女漫画との共通点が多いのではないか。

少女漫画は二分できる。それはヒロインが本命男子に一直線で向かう作品と、途中、別の男子を付き合うものの「やっぱり」と本命男子に戻る作品である。

例えば君に届けのような作品だと黒沼爽子の一途さをアピールしたいわけだから、途中絶対に別の男子に振り向いたりしない。(そしてもちろん風早もくるみに振り向いたりしない)

反対にヒロイン失格オオカミ少女と黒王子のような作品は後者──これを「俺にしとけよ」系と呼びたいが──属する。

ヒロインはうまくいかない恋愛から一度離脱し、「俺にしとけよ」とつぶやいてくれる身近な男に切り替える。しかし「何かが違う」という違和感とともに交際を続け、その男が「行きなよ」と許しを与えるか、自ら「ごめんなさい」と交際を打ち切ることで、本命男子に戻っていく。

本作も、春田は牧と交際するものの一時的にそこから離脱し、「俺にしとけよ」然と振る舞う武蔵の方へ行く。結婚まで行くかに思われたが武蔵は「行きなよ」と許しを与えることで、春田は本命の牧のもとへ向かうことができる。

まとめに

本作は日本の同性愛が表象されてきたドラマからは隔絶された腐女子ウケを狙った作品であったように思う。

しかしながら最終的にその作品が、今までのパターン分類されるゲイのあり方ではなく、むしろ「少女漫画的」に回帰したという点で、つまり、ゲイがあくまで普通の恋愛モノの中に描かれた点で、このドラマは評価されるべきではないかと思う。

*1:吉田栞・文屋敬「腐女子と夢女子の立ち位置の相違」福岡女学院大学福岡女学院大学紀要 人文学部編』第24号、2014年、p.62

*2:同上、p.61

*3:なお、BL中における「オメガバース」という設定を持つ作品群についても(αというエリート階級が、Ωという性的弱者を一方的に選択し(番になる)、同性であってもΩを妊娠させられる)、もしかすると「男同士の絆」において「選択される」女性像を男性に還元したものとして解釈できるかもしれない。

*4:「「同性愛者の隣人」との関係性 ──桐野夏生『天使に見捨てられた夜』──」中央大学人文科学研究所『人文研紀要』第88号、2017年、p.5

*5:沼田頼綱が料理上手であり、ご意見版的立ち位置を占めるという「女性らしさ」を2に当てはめることも可能かも知れない。

*6:もちろんこの点は「男同士の絆」というホモソーシャルへの挑戦という点で「腐女子」のあり方と通底するものもあるかもしれない。