ドラマ「フェイクニュース」と野木亜紀子の可能性

軽めの野木亜紀子論、ぐらいなつもりで書きたいと思いますが、「フェイクニュース」というドラマを見て、やはりこれは凄かった。

と言うのも、「逃げるは恥だが役に立つ」にしたって「アンナチュラル」にしたって、1クールあるドラマだと、それなりの話の中で色々取り上げることになる。

けれど「フェイクニュース」は2週しか続かない、その中であらゆる要素を詰め込んでいました。そうなると普通はそうした要素がボロボロに繋がって、作品として仕上がらないだろうけれども、それを仕上げてしまうのが野木亜紀子という脚本家の凄いところだろうと思う。

もう少し、この凄いところを書くと、それはやはり「説教くさくない」というところにあるんじゃないだろうかと思います。と言うのも、そういう要素を詰め込むと、「これはいけないよね」という話になりがちだし、そういうセリフを誰かに言わせてみたくなる。それが作品を統べる(統べたつもりになっている)作家の傲慢であることは言うまでもありません。

どんな要素があったか

メインは県知事選を舞台に、その背後に渦巻く陰謀と、それに巻き込まれた小市民のネットでの炎上、といった具合でした。それをネット記者のメディアが見る、という形式。

「記者」というのは存外便利な立ち位置で、例えばサスペンスなんかでも「記者」という立場から謎解きをしたりすることはあります。

県知事選と言えば、主に荒れるのは新潟県沖縄県でしょう。今回は舞台が「川浜県」ということで、おそらく「川崎」と「横浜」なんでしょう。そこへの移民問題なんかは、「川崎」の辺りを意識しているんでしょう。

移民問題外国人労働者問題は近頃ずっと話題です。最近はそれに加えて入管での人権侵害疑惑なんかも騒ぎになるわけだけれども、そうした要素もあった。

主人公の記者の東雲樹というのが在日なのではないか、というのがネットで言われ、叩かれ、「反日暴力記者」というレッテルが貼られる。この何かあった時に「反日」というレッテルが安易に用いられるのは、まさに現代の社会を反映したものだと言えましょう。

そもそも主人公はネットメディアに所属するわけですが、そのネットメディア自体に対する懐疑心のようなものも書かれている。左派からすれば「産経ニュース」なんかがそれに当たるのかもしれませんし、個人的には「リテラ」なんかは酷い記事を書くと思います。あとは「サイゾー」とか、その辺りが意識されているのではないかと思います。

物語のきっかけはカップうどんに青虫が混入していた、というところから話が始まるんだけれども、まず最初に思い出すのはしばらく前のマクドナルドでの異物混入問題。近頃でも定期的にネットで話題になり、盛り上がり、販売している会社が謝罪する、というパターンがために見られますが、まさにそれを反映した形でした。

青虫混入でTwitterを炎上させた猿滑の顔・名前・住所・家族までがネットで曝されMADが制作される様などは、そのまま最近見る流れのように思われました。いじめ自殺のとき、加害者の名前や住所が鬼女板に曝されていたのが思い出されます。

政治家の運転手へのパワハラ豊田真由子元議員がモデルだろうし、政治家のセクハラは枚挙にいとまが無い(が、おそらくモデルは財務省事務次官のセクハラだと思います)。

何より前編の、情報の真偽に拘泥せず、安易にリツイートし、拡散してしまう姿などは、そのまま見覚えのある、そして身に覚えのある構造のようにも思われます。

さて、こういう風に見覚えがあり、聞き覚えがあり、身に覚えがある。それでも物語は成立している。それがやはり野木亜紀子の凄いところだろう。

鳥肌が立つ瞬間

鳥肌が立つ瞬間が、前編と後編それぞれにあった。

まずは前編。光石研さん演じる猿渡がネットで炎上し、私生活を晒され、それに憤慨して主人公のいるイーストポストのオフィスを訪れた時。最後の顔のアップは、もうそれだけで多くを語る、鳥肌が立つシーンでした。

後編の方は、県知事選両候補が同じ場所で演説をする。そこに難民排斥派と受入派がやってきて、辺りがさながら暴動の様相を呈したシーンです。

実は放送から遅れてあのドラマを見た僕自身は、あのシーンがハロウィンの渋谷での様子を見ているようで、それにも驚いたのですが、やっぱりあそこはもう鳥肌が立つのみで、言葉にならない衝撃がありました。

「あるいはどこか遠くの戦争の話」

副題、「あるいはどこか遠くの戦争の話」は、それ自体、何か引き込まれる言葉です。

「戦争」とは何を意味しているのか、解釈は無限に存在するでしょう(その多義性が良作が良作たる所以の一端を担うものなのでしょう)。

例えば「戦争」を「県知事選」と見てもいい。沖縄県知事選はさながら「戦争」だったわけです。翁長前知事の遺志を継いだオール沖縄と、その構図の中ではさながら悪役の保守陣営。フェイクニュースの舞う壮絶な知事選でした。それはもう「戦争」でしょう。

或いは「戦争」を記者が真実と戦う様と見てもいい。ネットメディアは信用がならない。かと言って新聞やテレビも(殊に選挙期間中には)心もとない。席巻するフェイクニュースまとめサイト。そんな中、何とか真実を追い求めたい、という「戦争」とも受け取ることができる。

しかし個人的には、この「戦争」をそのまま「戦争」と受け取りたい。

CNNが湾岸戦争の空襲を生中継したことが思い出されるところですが、私たちは「戦争」を画面を通じて見るようになってしまった。

シリアでアサド政権軍と反政府軍イスラム国が血みどろの争いを繰り広げているのを、私たちは画面を通して見た。実はそれは画面を通して見た近所の風景と、距離としては変わらないのではないでしょうか。

最後の暴動と化した風景は、もはや「戦場」だった。画面を通して遠くの事だと思っていた戦争の姿がそこにはあった。私たちが画面ばかり見ている間に、その戦争は姿を変えてすぐそばにやって来た。それは「フェイクニュース」の問題なのかもしれないし、「あるいはどこか遠くの戦争の話」なのかもしれません。

野木亜紀子の可能性

野木亜紀子という脚本家は凄い。というのを改めて今回確認させられることになりました。

これだけ多くのテーマを取り込みながら、それが物語として面白い、そして見ていて鳥肌すら立たせるような魅力がある。

はじめて野木亜紀子さんの脚本作品を見たのはドラマ「空飛ぶ広報室」だったと思います。以後『図書館戦争』などいろいろ見ましたが、元々は原作の映像化の脚本をよくやっていらっしゃいました。

考えて見ればその時から「与えられた材料を活かし物語を成り立たせる」という点では前兆があったのでしょう。オリジナル作品の「アンナチュラル」でどんなものかと思って見てみると、原作の代わりにあらゆる社会問題を取り込んで、なおかつ説教くさくない、そういうドラマを生み出す方になっていらっしゃいました。

期待するのは、そういったドラマ、つまり、後世の人が見なおして「こんなことがあったのか」とある面では資料的に参考になる、しかしそれだけでなく、それでもやはり面白い、と感じさせるようなドラマです。

さしあたり、「獣になれない私たち」が録画溜まっているので、急いでみようと思います。(あまり数字は良くないようですが)