ボカロについての書きなぐり

ある準備のために、ボカロについて考えたことを書いておく。

ボカロ草創期から衰退まで

ボカロがなぜ一時期あそこまで盛り上がったのかという点について、多分死ぬほど論考や論文が出てるであろうことを丸ごと無視すると、やっぱりその第一の魅力は、誰でも作曲家、というようなことにあったんだろう。

というのも、やっぱりクリエイティブなことに対する多くの人の関心、それも「クリエイターになりたい」という関心はあって、例えばその中で「小説家になろう」といったサイトや「pixiv」が流行るんだけれど、その音楽バージョンがボーカロイド、と考えていいだろうと思う。

自分が声を出さなくても「美少女」が歌ってくれる。それも実際には演奏不可能なようなバンド音声に合わせて。

それがブームになったわけだけれど、それが現在下火である、ということについて考えると、それはやっぱり「小説家になろう」から傑作が生まれない、というのと同じ問題だろうと思う。

小説家になろう」で何が起きているか、と言えば、ある程度パターン化された「ジャンル」の作品が有象無象に増えた結果、そのクオリティは上がらなかった。

切磋琢磨、というような、あるいは資本主義的な「競争」の中で名作が生まれるようなことはなく、結局、いかに「ハズす」か、というところに力点が置かれた。けれど結局たどっているプロットは同じ。

と、同じことがボーカロイドでも起きたんじゃないだろうか。

つまり、有象無象の「P」が登場して、ピンからキリまでのクオリティの作品を発表した。けれどそれは何かの真似であり、どこかで聞き覚えのあるような何かを繰り返し精算することにしかならなかった。

結果、その裾野が広がれば広がるほど、クオリティは下がり、盛り上がりもなくなっていってしまった、ということなんじゃないだろうか。

データベース消費の失敗

とは言いつつ、それだけじゃないと思うので、もう一つ。

東浩紀の提起した「データベース消費」という概念、つまり設定や歴史がデータベースとして、その中のある部分をかいつまんで新たな物語を作り上げるということを考えてみると、ボーカロイドはそれに失敗したんじゃないだろうか、と思う。

例えば初音ミク、のようにボーカロイドにはパーソナリティが設定されていた。

当初の目論見では、「初音ミク」なる歌手がいて、その歌手をネット上のたくさんの人々が「P」としてプロデュースする、という設定、つまり「初音ミク」にまつわるデータベースを、他の人々が消費していく、という二次創作的な構造を期待したのだろう。

ただし、それには失敗した、と言わざるを得ない。

(主観だが)ボーカロイドのイントロに冗長なものが多いことに端的に現れているように、楽器をガンガン打ち鳴らすボーカロイド系の楽曲にあって、声を合成するソフトとしてのボーカロイドは、あくまで楽器の一つでしかなかった。

それ自体は、つまりPerfumeがそのコンセプトであるように、声すらも楽器として扱うのだとすれば、それはそれでいい。

しかしボーカロイドの曲を聴く側は、ストーリーを求めていた。

そのストーリーを「初音ミク」に設定されたパーソナリティに求めることもできたはずである。けれどそれは不可能だった。なぜなら、「初音ミク」というデータベースを聞き手に伝えるために媒介するはずだった楽曲は、あくまでボーカロイドを楽器としか扱わなかったからである。

ストーリーの担い手

では歌を聴く人々はどこにストーリーを求めるようになるのか。

ボーカロイドはダメだ。なぜならあくまで「楽器」だから。

結果それはどうなるかというと、生身の人間になっていった。それは「歌い手」と呼ばれたりするわけだけれど、生きている人間は生き様がそのままストーリーになりうるので、その「歌い手」を応援する。

それはどう結実したのか、と言えば、小林幸子が『千本桜』を歌うことになるわけだし、米津玄師が登場するわけだ。

そこにこそボカロの凋落が見て取れる。結局人々は「ストーリー」を求めて、生身の人間から離れることは出来なかった。

それが端的に現れたのは『ラブライブ!』などの作品で、そこには当然ストーリーがありつつ、その中で二次元のキャラクターが歌う。アニメのストーリーだけではなく、声優もまた、ストーリーを抱えているのだから、ストーリーを消費する上ではこの上ない状況だ。

それがもう一つの形で結実したのがVtuberだと思うのだが、あまり詳しくないので今回はこの辺で。