映画『アバター』

 
アバター (字幕版)

アバター (字幕版)

 

 旧約聖書では、アダムとイブは、知恵の実を食べてエデンの園を追放される。失楽園である。その聖書を遠く受け継いだヨーロッパ人が、実際には世界中を股にかけ、植民地主義全盛の風を吹かせていたと考えると、皮肉なものである。だって、お前らだって他人を土地から追放しているじゃないか、と。

イードの例を引くまでもなく、少なくとも第二次世界大戦以後、或いはその萌芽は第一次世界大戦中及び以後のウィルソン大統領の民族自決に見られるのかもしれないが、「近代化」と言う名の「ヨーロッパ化」に対する急激な反省から、一気にそういうエスニックなものを肯定しようという流れに変わって来たらしいことは、ノーベル文学賞に植民地時代に英語などを押し付けられたマージナルな作家たちが選出されることが多いことからもわかる。

その結果、について、先月の「新潮」に興味深い対談があった。ドイツ語でも執筆し、ドイツ本国でも評価が高い(らしい)多和田葉子さんと、外国人でありながら(は余計かも知れないが)日本文学者で国文学研究資料館館長も務めるロバート・キャンベルさんの対談である。

多和田 昔、北米のあるフェスティバルに呼ばれたとき、私のセクションが「Literature of color」となっていて、色の文学って何のことだろうと不思議に思った経験があります。

キャンベル 何色でしょう(笑)。

多和田 赤色かな?(笑)。そうしたらなんと白人以外の文学を指すんですって。「私の書いているのは、有色文学?」。これはショックでした。「でもこれはいい意味なんです」と主催側は一生懸命言うんですよ。つまり白人の文学はつまらないから、こういう括りで面白い人を招待しているんだと。もうずいぶん前のことですけれど。*1

この時点で、「有色文学」に対するべき「無色文学」或いは「白色文学」の担い手である白人たちが、「自分たちの文学はつまらない」が故に、「私たち以外の人たちの文学を再評価しよう」というマインドであることが分かる。しかし「再評価」とは上位の人間が下位の人間に対して行うことではないか。それであるならば、それは一時期のジャポニズムブームと大差ない、「西洋と東洋」が「人類とナヴィ」に置き換わっただけの、一種の「オリエンタリズム」の焼き直しなのではないか。

少なくともこの映画『アバター』では、何とかしてそれを避けたい、という意図が見える。アメリカが犯してきた失敗(とされるようなこと)を意図的に彷彿とさせる描写があったりする。

であるから、この映画をそういう目線で見ようと思えば事欠かない。惑星パンドラにやって来る資本主義の権化的な企業。現地人を蹂躙する。現地人を擁護するのは、下半身麻痺の元軍人・女性科学者。

一方で、現地人の生活を丹念に描くことで、表層をなぞった「なんだか素敵」みたいなロマンチシズムを避けている。

自然保護の啓蒙というのもこの映画のポイントのひとつらしいのだが、少なくともそれは感じられなかった。登場する植物・動物はあまりに地球のそれらとは違って、なんだかそこから地球の自然を守ろうと喚起するのはいささか非効率的に思える。

あえてそこで、全く別の見方をしてみたらどうだろう。と言うのは、この映画にはアメリカのヒーローものの典型が見て取れるように思う。

個人的に深い関心を持って接している仮面ライダーについて、その本質について、以下のように考察している。

さて、軽く触れた通り、特撮における特徴は「外部と内部の境界は自明のものではない」という所だと思う。

アメコミのヒーロー作品にはそれほど明るくないが、あの作品とは、外部の存在だと思われたヒーローが内部に地位を獲得するまでを描いているのではないか。

日本の特撮では、その外部と内部という境界自体を揺らがせる。敵は敵に見えるが、なぜこの敵は敵なのか。ヒーローはヒーローに見えるが、なぜヒーローだと感じるのか。それを揺らがせるのが日本の特撮の特徴である。*2

 マーベルコミックスに代表されるアメコミなどは、(時として異形の)ヒーローが突如出現し、人々にヒーローとして評価されつつ悪役と戦う、ないし、戦うことによってその評価を勝ち得ていく、という構造を持っていると思う。つまり「内部で承認されること」という最終的なゴールに向かってヒーローは戦う。

ウルトラマンはこれに近いのだが、ウルトラマンの目的は「内部で承認されること」ではないし、ある時期になるとふらっと母星に帰ってしまうことから、ウルトラマンはあくまで「外部」の存在だと分かる。

仮面ライダーはもう少し複雑で、そもそも片足を外部に突っ込んだような性質を持つから、敵と戦い続けることで、あるいは念仏的に「正義」を唱え続けることで、「内部」に居続けようとする。

この観点から考えると、この物語は主人公のジェイク・サリーが現地人ナヴィたちの中で、仲間として認められるまでの経過を描いた作品のようにも思える。そこで(これも仮面ライダーの分析にも用いられるのだが)フロイトのエディプスコンプレックスの概念を導入してみるとどうだろう。

まず子供は母親を手に入れ、父親のような位置に付こうとする。男児においては母親が異性であり、ゆえに愛情対象である。子供は父親のような男性になろうとして(同一化)強くなろうとする。子供はじきに父親を排除したいと思う。しかし父親は子供にとって絶対的な存在であるので、そのうち父親の怖さに気付く。最初は漠然とした不安や憎しみしか抱いてないが、子供が実際に母親ばかりにくっついていると、父親は「お前のペニスを切り取るぞ」と脅すのだという。

ただしこの言葉は実際に言われるとは限らず、大抵の子供はこの脅しを無意識的な去勢不安として感じるようになる。こうして子供はジレンマに陥る。母親を求めれば「去勢される」し、父親の元に跪いて父親に愛される母親の立場に収まるのならば、子供は「去勢されている」と感じるのであり、どちらにしろペニスを保持するための葛藤にさいなまれるのである。

この際に子供は自分のペニスを保持するために、近親相姦をする欲求を諦め、また父親と対立することも諦めて、両親とは別の方向へ歩き出す。こうしてエディプスコンプレックスは克服されて、子供はペニスを保持しながらも社会に飛び立つ。その後の時期は潜伏期と呼ばれ、幼児的な欲求(性的な欲求)を無意識化に抑圧して、ほとんど表出しなくなるのである。*3

最後のシーンで、彼自身がナヴィとして生きることを決意した際、そのことを「誕生」と表現していることからも、人間がアバターを精神をリンクさせることは「誕生」と解釈できる。つまりジェイク・サリーも、その段階でもう一度生まれた、ということになる。

そう考えると興味深いのは、人間としてのジェイク・サリーは下半身の自由が利かないが、アバターとしてのジェイク・サリー(あるいはジェイクサーリ)は、自由に歩き回ることができる。アバターとしてネイティリと初めて会った際には「赤ん坊」と何度も繰り返され、オマティカヤ族での一応の身分が保障された際にも「歩き方から教えてあげなさい」という旨の台詞がある。

さて、ではこの新たなアバターであるジェイク・サリーの両親とは、誰だと考えられるか。まず、そもそもジェイク・サリーがアバターを操縦することになったのは、双子の兄が死んだことによる代理である。DNAが一致するという作中のコメントによるとどうやら一卵性双生児らしい。と考えると、人間とナヴィのDNAをかけあわせて作られたこのアバターの父(ここでは遺伝子の半分を提供した雄)は、この兄ということになる。しかしこの場合、兄は死んでいるので、エディプスコンプレックスと同時に語られる「親殺し」の必要は無くなる。エディプスコンプレックスの教訓とは、つまり同性の親を「殺す(=克服する、断念する、超越する)」ことによって成長が可能になる、ということだと思うから、この段階で既に「父」を失っているジェイク・サリーには成長の資格が与えられる。

では母は、と言うと、これはネイティリと考えるのが妥当だろう。前述の通り、ジェイク・サリーに「歩き方」から教えた彼女。当然募る母への恋慕を妨げる父は存在しない。ジェイク・サリーとネイティリが恋愛関係になるのは当然の成り行きともいえる。

もう一つ、「生まれ変わった」ジェイク・サリーについて面白いのは、彼の宗教観である。

地上にいて、海兵隊員であった時の彼がどのような宗教を信仰していたのか、あるいはしていなかったのかは明らかでないが、惑星パンドラでの宗教観は比較的明らかにされる。それがアメリカでの公開時に保守系などから非難を浴びたきっかけなのだろうが。

ナヴィたちが信じるのは汎神論である。これがただちに多神教と言えるかは難しいところで、「エイワ」という存在に神を見るのだが、その奥にナヴィたちが見据えている神というのは、たくさんいるというよりも、どこにでもいる一つの存在、という感じもする。日本人が、「米には米の神様」「川には川の神様」と考えたりするのとは、少し違うかもしれない。

この物語はそうした側面から言えば、ある男性が新しい宗教と出会い、その宗教に帰依するまでの話、と捉えることも可能になる。実際、この宗教観を支持するようにストーリーが展開されるのだから「少なくともこの星では」この宗教観は間違いないのだろう。

こう考えると、遠く宇宙の惑星と、そこの宇宙人を舞台にしたダイナミックな物語だったはずが、主人公の成長・マザコン・改宗の物語に収斂していく。確かにストーリーは大きく見えるが、もしかするとその本質はそうでもないのかもしれない。

本作が目指したであろうところ、例えばマイルズ・クオリッチ(大佐)とパーカー・セルフリッジの現地人に対する見方には着目すべきところがあると思う。

マイルズ・クオリッチは元海兵隊員で、好戦的な性格であり、言うことを聞こうとしないナヴィたちを軍事力で抑圧しようとする。パーカー・セルフリッジは惑星パンドラでの鉱業を任されている責任者で、ナヴィたちへの攻撃も辞さない態度を示すものの、実際に巨木を倒し、炎が揺らめく画面を見ると、思わず目を背けてしまう。見るべきものから目を背ける責任者と言うのは、民主主義によって戦争を支持したアメリカ国民を彷彿とさせる。

このように、この作品はかなり、単なるオリエンタリズムに陥らないように配慮しながら、かつ主人公の物語を描くことに挑戦しているし、それはある程度成功していると思う。

3Dが凄い、というのは確かにそうなのだが、それだけではない魅力もあると思う。

と、褒めちぎったところで、最後に一つ疑問を投げかけたい。

惑星パンドラに人類が進出し、ナヴィたちを抑圧した。だとするならば、人類は綺麗さっぱりそこから立ち去るのが筋ではないのか。少数の「ナヴィたちに理解ある」人間がパンドラに残った、というのは、本当に「オリエンタリズム」を超越できているのだろうか。

*1:多和田葉子・ロバートキャンベル「「半他人」たちの都市と文学」新潮社『新潮』第115巻第4号(2018年)、p.87

*2:仮面ライダーと外部性、恐怖の論理 - 特撮の論壇

*3:エディプスコンプレックス - Wikipedia