北条裕子「美しい顔」

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

 

 大変に申し訳ない。いや、本作についてはこちらの記事で紹介したのだが、かなりセンチな感じが出ていて、実は記事の半分以上は自分の震災体験を語っていて、芥川賞の候補作になったのを見てやってきた人にはかなり幻滅されただろうと思う。

なのでその贖罪として、できる限りの形で本作について精密に考察してみたい。

「敗北宣告」としての「震災文学」

60年の安保闘争ベトナム戦争キューバ危機、2001年9月11日の同時多発テロ。そうした具合に、何らかの大きな出来事が文学に影響を与え、それ「以前」とそれ「以後」によって切り分けられるというのは割に見られる現象である。

そして2011年3月11日の東日本大震災は、その「断絶」としてはあまりに甚大な被害をもたらした。あの時すべての日本人は、「被災者」か「助力者」か「傍観者」に属し、悼む間もなく流れてくる巨大な死者数を理解し、そして次いで起こった原発事故を理解するのに精一杯だった。

我々は「被災者」を傍観した。テレビや新聞では絶望に打ちひしがれた「被災者」と、未来に希望を抱く「被災者」を交互に「傍観」し、そして「消費」した。

なぜ私はお前なんかに見せてやらなければならない。なぜお前なんかにサービスしてやらなきゃならない。なぜ私がお前なんかを気持ちよくさせてやらなければならない。プロカメラマンになったような気持ちよさを、なぜお前なんかにくれてやらなければならない。かわいそうに撮るなら金を払え。かわいそうが欲しいなら金を払え。被災地は撮ってもタダか。この男も、マスコミも、きっとそうだ。みんな金を払え。

我々は2011年3月11日に何を得たのか。「被災者」はたくさんのものを失った。しかし「傍観者」は「大震災」というエンターテインメントを手に入れ、その無償の娯楽を消費していた。

しかしこの小説は何を描くのか。「傍観者」がカタルシスとして震災を消化したことを批判したいのでも、「助力者」顔した人間が「マスターベーション」するが如き様子だったことを暴きたいのでもない。これは「被災者」を我々が「美しい」ものとした「ヒサイシャ」から引き剥がす、痛みを伴う除去手術であり、その結果我々にもたらされたのは希望ではなく絶望である。

 これから、いくどもいくども日常との戦いに敗れ、敗れて敗れて、もうこれ以上負ければ駄目だと思いながらも負け続け、しかしやはり負け続ける以外に生きていく術がなく、それに気がついては絶望するのだろう。(中略)そして、結局自分は成長できはしない、あの日のまま時間が止まってしまったんだと泣き、悪態をつき、蹴散らして、数え切れないほど自分を卑しみ、途方に暮れるのだと思う。そうしながらいくども三月十一日を迎え、そうしているうちに母の年齢に近づいたり追い越したりするのだろう。

我々はもうこの震災に勝つことはできない。そして「被災者」はきっと勝つことはできない。何に? あるいはそれは「美しい顔」かもしれない。

「美しい顔」とは、母の顔である。〈私〉は母に勝つことができない。

これは誰かを失った「被災者」への「敗北宣告」であると同時に、それをエンターテインメントとして消費した「傍観者」への「敗北宣告」でもある。それは、この小説を与えられた我々が、今後震災をエンターテインメントとして消費し得ないという点からも明らかである。

「商品」としての「被災者」〈私〉

物語は、十七の少女サナエ〈私〉からの視点で語られる。それ以外の登場人物はそれほど大きな位置を占めないと言っていい。父を小学六年生で亡くし、母と弟の三人家族でいた〈私〉にとって弟ヒロノリは大切な存在のはずだが、避難所のS体育館にあって〈私〉はいつもヒロノリのそばにいるわけではない。

 ヒロノリはしだいに私の目につかないところで過ごす時間が増えていった。どこかへ出掛けていき、日が暮れるまで帰ってこない。私はそのことに早くから気がついていた。私がサービス業務に精を出せば出すほど、遅くまで戻らなくなった。私は弟に自分のしていることを見られたくなかった。私の華やいだ顔を見られたくなかった。外に行ってたくさん友達を作って馬鹿みたいに遊んでいてくれればいいと思っていた。豪快に遊び、疲れ果てて帰ってくればいいと思っていた。ずっとそうしていてくれたらいいと祈るように思っていた。

〈私〉がヒロノリを嫌っている、というようなわけではない。しかしマスコミ相手に(否、もっぱらカメラを相手に)「ヒサイシャ」であることを提供している姿をヒロノリに見せられたくはない。だからこそ、〈私〉が「被災者」としてカメラに振る舞えば振舞うほど、弟の存在感は作品から薄くなっていき、「被災者」としての振る舞いをやめれば弟との距離は詰まる。

〈私〉がカメラに健気な少女を提供するのは、〈私〉が母の死と向き合うことができないからだ。それは、母の生死が判然としない中カメラにサービス精神を発揮していた後、母の死を知ったはずなのにそれを終えられない点にも現れている。

では、その「サービス精神」の本質とは何か。石原千秋氏が産経新聞文芸時評に寄せたコメントはそうした点でかなりユニークで面白い。

 いま、僕は北条裕子のポートレートをパラテクストとして見ている。だからわかることがある。これは極めつけのフェミニズム小説なのだ。「北条裕子」は、何を言っても何をやってもその「美しい顔」によって意味づけられてきたにちがいない。たとえば、悪意さえも。「北条裕子」は、それを「美しい顔」の内側からずっと見てきた。これが、震災報道に関して言う「なにか得体の知れない不快なもの」の正体にちがいない。これは本人さえも知らないことだろう。それでいて、「北条裕子」のポートレートは「私を買ってください」と言ってはいないだろうか。一人称とはそういうものだし、作家とはそういうものだ。

*1

文学というものが、いや、凡そ芸術というものが何かしらの精神の発露として存立し続ける限り、一人称小説でその主人公に作家が一つも投影されていないなんてことはありえない。

〈私〉に北条裕子氏は投影されているだろう。しかしそれは「投影しない」という形で「投影されている」かもしれない。もしかするとこの作品は、震災に対して「傍観者」でしかあり得なかった彼女自身が「被災者」の絶望を期待しているのかもしれない。そしてその彼女には石原千秋曰く「美しい顔」が与えられている。

〈私〉は「被災者」としての「顔」を「傍観者」に提供する。北条裕子氏はそれを著した者としての「(美しい)顔」を「読者」に提供する。

なおこの際、〈私〉は東京から見れば周縁のサバルタンであり、東京に迎合する言葉でしか語りえないという点は長々と指摘するまでもない。この東京に迎合した言葉は東京で「被災地の今を伝える」的に編集され「代弁」される。その意気込みへの本質的な嫌悪感は、冒頭部のボランティアカメラマンへの嫌悪感に描き出されている。

マルクスは人間の労働が不当に搾取されていることを明らかにした。そしてイヴ・K・セジウィックは、ホモソーシャルな男性社会において女性が商品として取り扱われてきたことを明らかにした。

この小説は「被災者」を「商品」として取り扱った「傍観者」を「告発しない」という形で「告発する」。

その時思い起こすのは「美しい顔」というだけで女性を「意味づけ」てきた男性の歴史である。この点は選評において多和田葉子氏によっても指摘されている。

主人公は美人であるという設定で、被害者の商品化と女性美の商品化というテーマが重ねられる。自分の顔が「復興」という大きな物語に使われていくことに抗議する声は、作品内で反復され強まっていく。

「震災後」のために

太平洋戦争はどうであろうか。太平洋戦争が横たわる日本の歴史は、間違いなく「戦前」「戦後」の二つに、あるいはそこに「戦中」を加えた形での三つに分類できる。

「加害者」としての日本を正当化することなど許されず、戦争モノといえば中央権力から離れた場所にいる無力な「被害者」を描くしかできなかった。

しかし東日本大震災はどうか。

そこには「被害者」の姿しかない。

津波で家族が流されて。原発のせいで引越ししなくてはならなくなって。電力不足だというので計画停電で。

そして我々は、きっとそういう「被害者」の姿を複製し続ける。創造し続ける。

毎年3月11日には記念番組が放送され、津波の映像を流し、東北の人々が出てきて当時のことを語り、その後建てられた新しい家、その後生まれた新しい命が映し出される。それを見て我々は震災を「消費」し続ける。

しかし、この小説が、「美しい顔」が、少なくとも群像新人文学賞受賞作として、あるいは芥川賞候補作として名を残す限り、「震災後文学」はそれを許さない。

我々は「震災」の商品化と、それをカタルシスにすることを、この、ただ絶望の迫力が迫り来るこの小説によって禁じられたのだ。

*1:文芸時評】6月号 早稲田大学教授・石原千秋 被災描くフェミニズム小説(1/2ページ) - 産経ニュース

東日本大震災のこと(北条裕子「美しい顔」)

※こちらは私個人の震災体験が半分以上を占める記事です。小説「美しい顔」に焦点を当てた記事がございますので、こちらをご覧下さい。

raku-rodan.hatenablog.com

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

群像 2018年 06 月号 [雑誌]

 

説明すると面倒くさいですが、群像新人文学賞を受賞した北条裕子さんの「美しい顔」を読みました。

なるほどこれはすごい、というような圧がある。後半になって急にそれが減圧されていく感覚に違和感を覚えないではないですが、それでもやはり、そこにエネルギーを感じます。

そのエネルギーが感じられるのは、きっと自分もまた、東日本大震災を、幼いながらに経験したからに違いないのです。そしてその感想を書こうと思うと、やはり文体は常体よりも敬体の方がしっくりと、思ったことが出てくるように思われます。それはこの小説を、常体的に、つまりは論理的に語ることは、他の方がなさるだろうし、その二番煎じには意味がないと思うからです。

ということで、多くの普通の読者がそうするであろうように、まずは私自身の東日本大震災体験を書いておきたいと思います。蛇足の感は否めませんが、まだあの地震については消化しきれていない部分が多く、書くなり何なりしておきたいという気持ちでもあります。そしてそれは私にとって懺悔でもあります。

 

2011年3月11日には、北海道にいました。

当時小学6年生だった私は、卒業式を間近に控えていました。中学の卒業であれば高校入試があったりして慌ただしいのでしょうが、小学生にそういうのはないし、クラスメイトの半分以上は同じ中学校に行くので、その卒業式には本当に儀礼としての意味しかないようでした。

卒業式を控えた小学6年生の私たちには「校舎に恩返しをする」というミッションが課せられていました。

その日、14時46分。担任の坂口先生は、雑巾をクラスの児童30余名に見せながら、来るべき大掃除の説明をしていました。

地震の発生は14時46分でしょうが、それはあくまで東北沖で揺れが起きた時刻ですから、北海道に揺れが到達した頃が何時頃だったか、覚えていません。ただ、クラスメイトの大村さんが「先生、揺れてる」というようなことを言いました。

今から思い返せば、思い返せば、確かにその頃異様に地震が頻発していて、教室でも「揺れてる」と誰かが言うと、少し鈍感な先生が「そうか?」と返し、「揺れてるよ」とみんなでそんな様子の先生を笑う、というのが繰り返されていて、それと同じだと思いました。

教室の窓際には針金が渡してあって、そこに雑巾がかけられています。坂口先生は、そこにかけられた雑巾が揺れるのを見て地震を確認しました。

「机の下に入れ」と先生が言ったのは、あくまでマニュアル的な指示だったと思うのですが、当時地震が頻発していたわけですし、ふざけた感じで机の下に入りました。

揺れは収まりません。体感では、5分か、10分か続きました。途中で揺れの性質が変わったことにも気がつきました。それが初期微動の縦揺れと主要動の横揺れの切り替わりだったのだと知ったのは、その翌年、中学1年生の理科で地震について学んだ時です。

揺れは収まりません。いつもより異様に長く、気持ち悪い感じがありました。

実はその時、揺れが頻発していたこともあって、それに1月は阪神淡路大震災のあった月ですし、ネットサーフィンが趣味だった私は、阪神淡路大震災についてウィキペディアを熟読していたこともあって、そういうことを思い出していたのだと思います。

揺れは収まりません。机の下に入っているクラスメイトは、少し不安な、或いは反対にそういうアトラクションに乗って楽しい感じもありました。その中で金山くんという男の子が「死ぬときはみんな一緒だよ!」と叫び、クラスが笑いに包まれました。

揺れがやっと収まると、「先生方は職員室にお集まりください」という教頭先生の声の放送がありました。ギター片手にフォークソングを歌うような教頭でした。

私は、その手の大きな地震があったときには、きっと迷わず校庭に避難するのだろうと思っていました。よくよく考えると3月の北海道ですから、校庭には雪が積まれています。私の小学校では校庭にスケートリンクを作るのが常で、流石に3月にもなればスケートリンクはないでしょうが、スケートリンクはなくとも雪があったのは想像に難くありません。

職員会議は嫌に長かった。児童を帰すなら帰すと決めればいいのに、とイライラしていたのですが、体感では40分ほど先生がいませんでした。もちろん実際はそんなはずはないし、20分ほどだったと思います。

帰ってきた先生は、いつになく真面目な顔をして下校の準備をさせました。

私は下校しました。いつもどおりの道を、いつもどおりに歩きながら、下校しました。

家に着くと、母親と弟が玄関に迎えに出てきました。

「大丈夫だったの?」と聞かれました。弟は下級生で、その日は早く帰っていたようでした。

「震度が7だって」というようなことを言われました。マグニチュードの話だったかもしれないですが、それを聞いた私は、咄嗟に阪神淡路大震災ウィキペディアを思い出していました。そして、今回の地震の規模が、あれを凌ぐレベルのものだと直感しました。

当時はまだ少し分厚かったノートパソコンで、それほど仲の良かったわけでもない友達とメールで地震の話をしたり、テレビの津波の動画を見ていたりしました。

はっきり言えば、ワクワクしました。なんだかものすごい場面に立ち会ってしまったような浮遊感でいました。北海道弁ではこれを「おだつ」というのですが、間違いなく当時の私はおだっていました。

まもなく、インターネットは接続ができなくなりました。同時に、電話も繋がらなくなりました。私は、たかだか震度3か4を感じたに過ぎないところで、小さく孤立しました。

うちは最初はNHKでしたが、フジっ子だったのもあって、安藤優子キャスターが状況を伝えているのを見ていました。

津波津波津波。夜になって暗くなると、今度は石油コンビナートの出火。

翌朝の北海道新聞はぶち抜きで津波に襲われた東北の写真。

まるで日本が壊滅して、北海道だけが残ってしまったような。

当時は枝野官房長官でしたが、この人も寝ていなかった。みんな凄いなあ、と思いました。当然ですが、発生直後は被災者の映像なんかはなかった。繰り返されたのは津波の映像でした。

インターネットも電話もすぐに復旧しましたし、私はおだったままでした。

卒業式はつつがなく行われました。いいえ、つつがなくというのは嘘かもしれません。黙祷を捧げた記憶があります。そして校長先生が「東北には卒業できないたくさんの子どもたちがいます」と言いました。

4月には入学式でした。入学式、中学校の校長先生は「東北には入学できないたくさんの子どもたちがいます」と言いました。「この中学校でも3月に生徒会が中心になって募金が集められました」と言いました。

その時私は直感しました。私の人生は今後、すべて、この東日本大震災に呪われていくのだと。

中学校の卒業式。校長先生は「皆さんが入学した年には東日本大震災が起こり」と言いました。

高校の卒業式、PTA会長は「皆さんは激動の時代を生きてきました」と言いました。

私は、私の人生の節目が、東日本大震災に呪われていくことが嫌でたまりませんでした。

そして今も私は、東日本大震災に思いを寄せられずにいる。

だから私は「花が咲く」のような歌は大好きです。被災地に思いを寄せています、というようなフリができます。あれを聞いているだけで自分も、自分も被災地に同情を寄せられる人間なのだという気がして、自分が東日本大震災の呪いを憎んでいることを忘れられる気がして。

しかし時々思い返します。東北で2万人が死んだとき、私は友達の発した「死ぬときはみんな一緒だよ!」という冗談に大笑いしていました。東北で2万人が死んだとき、私はいつもの道をいつもどおりに歩いていました。東北で2万人が死んだとき、私はワクワクしながらテレビの津波の映像を眺めていました。東北で2万人が死んだとき、私はその地震が、自分の人生の門出を汚していくことを憎んでいました。

私にとってもうあの地震は、カタルシスにしかならないのかもしれない。ドラマチックな悲劇としか感じられないのかもしれない。上っ面だけの同情と哀れみに涙を流して、内心では自分の人生を邪魔した震災を憎んでいる。

 

さて、もうこの時点で3000字以上書いていますが、小説の内容に戻れば、この作家も私と少なからず同じ感覚を抱いていたようです。

それは「あの時何もしなかった」という感覚。

しかしこの作者は、それを小説にした。この作者は被災者ではない。東京の人です。けれど、「東京の人」が「東北」に向けたあの視線を、誰よりもよく自覚している。

十七歳の少女サナエは弟ヒロノリと二人きりで避難所にいる。

母親と会えない自分の境遇を売り物にして、東京のマスコミに頻繁に登場する。そこで悲劇のヒロインを器用に演じることで、自分自身が浄化されたような感覚を覚える。

東日本大震災の話になると思い出すのはドラマ「あまちゃん」でのセリフです。だれが言ったか、もう覚えていないですが、「私たちはいつまで被災者でいればいいんだ」というようなものだったと思います。

しかし彼女は、あくまで消費される「被災者」に徹することで平静を取り戻そうとしていく。彼女は〈東京のマスコミ〉を利用する。

かと言ってこれが、カタルシスに大災害を利用した〈東京のマスコミ〉への、一種ウヨクじみたマスコミ批判であるというわけではない。一人称で吐露される心情は、そうした余念を挟む余地なく、私たちを襲う。

希望と絆の良い話に消化した悲劇の実相。私たちが目を向けることのできなかった現実。読者に同情を挟む余地はない。ただ、恐怖心だけが巻き起こる。

面白い小説を評価するのに「ページをめくる手が止まらない」というものがありますが、本作についてはどうでしょう。少なくとも私は「読むのを止めたい」と思いました。何度も。けれども前述の後悔からでしょうか。「読まねばならない」というような使命感もありました。

主人公〈私〉に同情できるかはかなり微妙です。けれども、そうでないにしても、彼女の内心は私たちに何かを突きつける。そしてそれは、希望には昇華しきれないものです。

それについては、私がこの小説中で一番好きだった部分が、近からず遠からぬ表現をしていると思います。

 これから、いくどもいくども日常との戦いに敗れ、敗れて敗れて、もうこれ以上負ければ駄目だと思いながらも負け続け、しかしやはり負け続ける以外に生きていく術がなく、それに気がついては絶望するのだろう。

多彩な、という表現が適切かわからないけれども、圧倒的な圧力を持った筆致の中で、特に好きな部分。

私たちは、地震を希望や絆の悲劇に昇華することをやめる。ロミオとジュリエットは死んでしまったけれどキャピュレット家とモンタギュー家は仲良くなりましたとさめでたしめでたし、みたいな終わり方は認めない。

私たちは、あの地震に負け続ける。そしてそのことを知っている。勝とうと、その地震カタルシスに矮小化はしない。ただ、負け、負け続ける。

それは被災者に限った話ではないのではないでしょうか。

本作は芥川賞へのノミネートも期待されているようです。

そうしたところから考えても、この作品が「震災後文学」の一ページに確かに刻み込まれることは間違いないと思われます。

しかしそれが「敗北」の宣告と自覚を意味するのだということを、忘れてはいけないのだという気がします。

朝井リョウ『星やどりの声』

星やどりの声 (角川文庫)

星やどりの声 (角川文庫)

 

朝井リョウはポリフォニックな作家である。

と言えば、ミハイル・バフチンの著作や「ポリフィニー」の概念を知る人からすると、まさかドストエフスキー朝井リョウを同列に扱うつもりか、と怒られるかもしれない。

全くそのつもりがないことは最初に述べておかなくてはならない。この場合の「ポリフォニック」とはバフチンによって理論化されたものではなく、もっと素朴な意味で用いたい。

この小説は涙を誘う。そうした悲劇が喜劇よりも著しく優先されるべきだとは思わないが(坂口安吾の「FARCEに就て」を参照されたい)、「お涙頂戴」と言われた時に「はいどうぞ」と涙をくれてやるのが悪いことだとは思わない。

これは現代小説に広く言える特徴かもしれないが、作品には小説家の姿が感じられる。

特にその筆頭は個人的にはあさのあつこである。あさのあつこと言っても『ランナー』と『スパイクス』くらいしか読んだことが無いのだが、それでも「なんでこんなに登場人物をいじめるの!」と行先の無い義憤にかられたりする。

これはエンタメ小説の仕方ないところで、例えば韓国ドラマでは作為的に財閥関係者がいじめぬかれるわけだが、それでも「ピノキオ」は名作なんだからそれでいい。

というわけで、一応この作品への弁護を済ませたところで。

 

世の中には「他者」というのがいて、では「他者」とはどのような存在かということはあらゆる哲学者が向き合っている。おそらく「自分」と向き合うと必然的に「自分」ではない「他者」に向き合う必要のあるところから端を発するのだろうが、ここではあえて、そうした先学の思想を全く参照しないかたちで大風呂敷を広げてみたい。

「他者」には二種類いる。①(存在は)知っているが(詳しくは)知らない「他者」と、②(存在も)知らないし(詳しくも)知らない「他者」である。

例えば私たちがユニセフのいかにもなCMを見るとき、こうしている間にもアフリカには学校に行けずに遠くに水を汲みに行っている少年少女がたくさんいるのであろうことを頭のどこかで把握しているが、別にそのことを普段思い返したりしないし、そもそもユニセフにいくら「啓蒙」されたところで、その存在はなかなか実体としてつかめない。

こういう場合、この他者は認知もされないわけで、②にあたるのだが、これを小説の題材にとるのはかなり難しい。つまり叙述に彼らが立ち現れた瞬間にそれは①に移行してしまうから、②を描くには、描かないという形で存在をほのめかす、しかし存在を確信させてはいけないという揺らぎやすさの問題が起こる。

というわけで小説に描かれるのは①。簡単に言えば「なんかわかんないけど嫌い」みたいな他者を、色々な交流を深めていくうちに大好きになる、というようなストーリーは、珍しいものではない。

朝井リョウの作品では、この存在は知っている、というだけの他者を、それぞれの目線から描きだしているという点で、ポリフォニックであると言える。

本作は6人兄弟それぞれの視点から綴られた短編による短編集である。この6人兄弟が、ただの6人兄弟と違うのは、彼らが父親を失っていることである。

しかし「お父さんがいない喪失感」「心にぽっかりと空いた穴」みたいなことは言っていない。

住友生命に父親がいない、というCMがあったが、「いない父親」が本作においても日常に溶け込んでいる。「いない父親」という存在である。

その存在は時々現れるが、必ずしもそれに依拠しなくてはならないということではない。彼らはそれぞれに日常を順調に、あるいは行き詰りながらも生きている。

こうしたそれぞれの見方で描かれる物語は、「お互いが何を知らないのか」ということを読者に明らかにする。

反対に、徹底して一人称で語ることで「信頼できない語り手」的に叙述トリックを施す場合もあるが、その場合、あくまでその語り手の他者観が読者にも委ねられることになる。読者には「透明な批評」の可能性はあるものの、しかしそれはかなり読解からは離れた、読者による作品の再構成という感じがある。

例えば長男・光彦の章。光彦は就活が夏になっても終わっていない。それでいてサークルの飲み会に適当に参加したり、それで家庭教師のバイトに遅れたりするおちゃらけた一面も見える。

しかし光彦の一人称のト書きを読んだ我々は、必ずしもそれだけではないことが分かる。ここで我々は、「知っているが知らない他者」として存立する光彦の内面を知ることになる。

この経験が章ごとに、つまり6回繰り返される。

しかし重要なのは、そればかりではないこと。

「何を考えているのか」というのが一人称の文章の中で明らかになる経験だけでなく、「何を考えているのか」が分からない、という経験も同居している。

それが「長男 光彦」におけるあおいであり、「三男 真歩」におけるハヤシであり、「二女 小春」「二男 凌馬」におけるお母さんであり、「三女 るり」における松浦ユリカであり、「長女 琴美」における父である。

私たちは一人称を通してそれぞれの内面を覗き見、その他者性が崩壊する経験と共に、厳然とした「わからない」他者が存立し続ける。そしてそれは、全ての短編が投影図的に照応し合うことによって立体感をもって浮かび上がり、やっと少し「わかったかもしれない」という状況になる。

そして更に朝井リョウが得意とするのは、それが何でもない日常の一部分で起こることだ。

桐島、部活やめるってよ』『少女は卒業しない』に特徴的なように、確かに普遍的な日常とは違うかもしれない。しかし「ほんの少しだけ」異化された日常は、おそらくこれからも続く。

それは時として安心感を伴った希望に感じられ、或いは憂鬱な絶望に感じられる。

『何者』のクライマックスは、読者の胸にも迫るものがあったが、だからと言ってきっとこの物語は終わらないし、続いていく。その生々しさに、恐怖心を覚える。

本作ではどうだろうか。

単純明快に言えば、本作は6人兄弟の父が建て、母が経営する「星やどり」という淳喫茶を閉店させることを決意する物語である。これを「卒業」としてもいい。

本作の以後、「星やどり」がなくなった6人兄弟はどうなるか。きっと今までと変わらないのだ。きっと今までと変わらずに、それぞれの毎日を、それぞれに過ごす。

例えば小春が化粧をやめました、みたいな話はあるのかもしれない。そういう小さな変化はきっとあるのだろうが、それでも日常は続いていく。

これは希望か? そうではない。日常が続いていくことに幸せを感じられるほどできた人間ではない。そでは強いて言えば安心感。だからこそこの物語は「終わらない」という広大さを孕んでいるように感じられるのである。

202号法廷について

某所の202号法廷である。

裁判の傍聴は初めてで、入った法廷のいかにも「厳粛」という空間に圧倒され、或いはこれから起こる出来事にワクワクしていた。

それについて今回書きたいのは、傍聴録でも裁判記録でもない。それにはほとんど意味がないだろうと思うし、そのためのメモも取っていないからである。

では何を書きたいのか。それは「法廷」という空間と、そこに与えられた「おおとりてえ」とでも呼ぶべきのような、それ以外では「オカミ」としか形容できないような、正体の掴みかねない権威についてである。

権威の根源

坂口安吾にこのような評論がある。

 僕達は五六名の舞妓を伴って東山ダンスホールへ行った。深夜の十二時に近い時刻であった。舞妓の一人が、そこのダンサーに好きなのがいるのだそうで、その人と踊りたいと言いだしたからだ。ダンスホールは東山の中腹にあって、人里を離れ、東京の踊り場よりは遥に綺麗だ。満員の盛況だったが、このとき僕が驚いたのは、座敷でベチャクチャ喋っていたり踊っていたりしたのでは一向に見栄えのしなかった舞妓達が、ダンスホールの群集にまじると、群を圧し、堂々と光彩を放って目立つのである。つまり、舞妓の独特のキモノ、だらりの帯が、洋服の男を圧し、夜会服の踊り子を圧し、西洋人もてんで見栄えがしなくなる。成程、伝統あるものには独自の威力があるものだ、と、いささか感服したのであった。
 同じことは、相撲を見るたびに、いつも感じた。呼出につづいて行司の名乗り、それから力士が一礼しあって、四股をふみ、水をつけ、塩を悠々とまきちらして、仕切りにかかる。仕切り直して、やや暫く睨み合い、悠々と塩をつかんでくるのである。土俵の上の力士達は国技館を圧倒している。数万の見物人も、国技館の大建築も、土俵の上の力士達に比べれば、余りに小さく貧弱である。
 これを野球に比べてみると、二つの相違がハッキリする。なんというグランドの広さであろうか。九人の選手がグランドの広さに圧倒され、追いまくられ、数万の観衆に比べて気の毒なほど無力に見える。グランドの広さに比べると、選手を草苅人夫に見立ててもいいぐらい貧弱に見え、プレーをしているのではなく、息せききって追いまくられた感じである。いつかベーブ・ルースの一行を見た時には、流石に違った感じであった。板についたスタンド・プレーは場を圧し、グランドの広さが目立たないのである。グランドを圧倒しきれなくとも、グランドと対等ではあった。
 別に身体のせいではない。力士といえども大男ばかりではないのだ。又、必ずしも、技術のせいでもないだろう。いわば、伝統の貫禄だ。それあるがために、土俵を圧し、国技館の大建築を圧し、数万の観衆を圧している。然しながら、伝統の貫禄だけでは、永遠の生命を維持することはできないのだ。舞妓のキモノがダンスホールを圧倒し、力士の儀礼国技館を圧倒しても、伝統の貫禄だけで、舞妓や力士が永遠の生命を維持するわけにはゆかない。貫禄を維持するだけの実質がなければ、やがては亡びる外に仕方がない。問題は、伝統や貫禄ではなく、実質だ。*1

 大変長い引用になってしまったが、ここで書いてあるのは、舞妓には威力があり、力士には貫禄がある。一方日本の野球選手はいかにも貧弱で、どうやら「伝統の貫禄」というのがありそうだがそれだけでは駄目で、背後に「実質」が必要であるということであろう。

では「法廷」に漂う「厳粛」とはどのような「実質」に伴ったものだろうか。

人と建物では違うかもしれない。しかし建物の方がより不思議ではないか。

例えば映画館に行けば人は自然に小声で話すようになる。霊場では心なしかみんな俯き気味になる。そういうことと「法廷」の「厳粛」は関係しているのではないだろうか。

鷲田清一青木淳が物質的で具体的な(目的と直結した)空間の実例として工場を挙げたことを引きつつ、このように言う。

 このような空間に「自由」を感じるのは、そこではその空間の「使用規則」やそこでの「行動基準」がキャンセルされているからだ。「使用規則」をキャンセルされた物質の塊が別の行為への手がかりとして再生するからだ。原っぱもおなじだ。そこは雑草の生えたでこぼこのある更地であり、来るべき自由な行為のために整地され、キューブとしてデザインされた空間なのではない。そこにはいろんな手がかりがある。

 木造家屋を再利用したグループホームは、逆に空間の「使用規則」やそこでの「行動基準」がキャンセルされていない。*2

ここではグループホームのあり方が問題にされているのだが、では「法廷」はどうなのだろうか。

「法廷」には厳密な「使用規則」や「行動基準」が規定されている。「刑事裁判を行う」と決めれば、その法廷はずっとそのために用いられ、そこでは極めて儀式的に取り決められた順番に従って裁判が行われる。そこにおけるイレギュラーは、「法廷」の「段取り」の中にくみ取られていく。

「法廷」には「使用規則」や「行動基準」がある。そのことは「自由」がないことをたちまち意味する。「自由」がないことは、「厳粛」へと繋がる?

前述の映画館や霊場において、かなり行動の「自由」が制限されることには異論はあるまい。しかしそれがたちまちあの「厳粛」へと繋がるだろうか。

と、ここで振り返りたいのは、坂口安吾の文章である。「権威」の土台は、最終的には「実質」なのであった。

さて、その「実質」とは即ち何であるか。

それは例えば「同意」ではないか。

映画館の例に戻れば、「映画館は映画を見るところである」という「同意」は、「大声で話してはならない」という「使用基準」に「同意」を求め、「大声で話さない」という「行動基準」へと接続するのではあるまいか。

つまりこの「同意」が「法廷」にはある。

「おおとりてえ」としての裁判官に対する「同意」、或いはそこに行われる手続きに対する全面的な「同意」である。そして、その「同意」が──例えその建物が「厳粛」にたるような古さが無かったとしても──「厳粛」へと繋がるのではないだろうか。

その妥当性について

我々は司法手続きに「同意」している。悪者は法によって捕らえられ、妥当な判決を与えられるものと信じている。それはほとんど盲目的な「同意」であると言っていい。

しかし世の中には、無根拠に信頼を寄せざるを得ないシステムがあるのもまた事実である。

例えば政治系の陰謀論者界隈ではしばらく前から有名な陰謀論に「ムサシによる投票操作」というのがある。これは投票された投票用紙の文字を自動で識別して分類してくれる機械なのだが、その機械の分類が恣意的に操作されている、という疑惑である。

このムサシという機械を作っている会社と政界との献金がらみの関係ゆえなのだが、かといってこれは「疑惑」と呼ぶに値しない、いわば陰謀論である。

しかし投票の開票作業を知らない我々は、もしかするとムサシが不正な票数操作を行っているのかもしれないという状況にいる。だからと言って、全ての開票所に行って、ムサシが適切に運用されているか調べようとはしない。

私達は無根拠に、ムサシは適正に票数をカウントしてくれているはずだ、と「同意」を与える。

そしてそのことに適当に批判を加えてはいけない。もし、いざ本当に票数操作が行われていた時に持つべき言葉が先駆けて奪われることになりかねないからである。

と言った具合に、例えば「法廷」に批判を加えるのには十分な注意が必要なはずである。そして今回加えようとしている「批判」とは必ずしもネガティブなものではない。無根拠な信任、その「同意」に対してメタ的にその過程を見直すことの意義を示すためのものである。

裁判では「情状」が争われる。

一人目の被疑者はタクシーの無賃乗車によって詐欺罪で逮捕された80代の男性であった。前科36犯で、過去にも同種の犯罪を犯したことがあるらしく、「情状酌量の余地はない」と言えるかもしれない。実際法廷での態度も反省を口では言うものの、ある種開き直ったような風も見られた。

この男性の言い分は午前3時ごろ、酒を飲んでいると急に母の故郷が懐かしくなり、そこに行こうとタクシーを呼び止めた。タクシーのお金を払う当てはないものの、行先にいるかもしれないいとこらが立て替えてくれる可能性を信じていたという。

この飲酒というのも、この男性の中では「生活保護で生きているような不甲斐ない自分の人生は酒でも飲んでいないとやっていられない」というロジックの上にあったらしい。そして、そういう時にふと懐かしい土地を思い出すのは分からない話ではない。

という情状酌量の余地の可能性はあるものの、そのふてぶてしい態度、或いは前科を見ると、おそらく実刑は免れまい。

一方二人目の被疑者は30代後半の男性。大麻の初犯であり、情状酌量を期待して母親が出て来たらしく、弁護人の母親への証人尋問の最中には思わず涙を流してしまわないかと思った。

しかしその所持量が多かったり、転売の疑惑があったりはしたはずである。「当分は家族と同居するつもりらしい」「本人が再犯の意思が無いと言っている」という情状で、彼には執行猶予がつけられた。

もちろん、そうした麻薬などの初犯で執行猶予がつくのは当たり前のことなのだろうが、しかしそこの「情状」という不安定なものが同居する。

ここから思うのは2つである。

まず、「情状」という不安定なものの妥当性。例えばアニメ「PSYCHO-PASS サイコパス」では司法システムはとうの昔に撤廃され、残されているのは事前に犯罪を起こす可能性を検知し処罰する「シビュラシステム」という人工知能である。

人々は「シビュラシステム」にも無根拠な信頼を置いているが、少なくとも「シビュラシステム」には情状酌量が存在しない。犯罪が起きる前、事前に刑が執行されるという倒錯自体には問題があるかもしれないが、「情状酌量を認めない」「適正な刑を瞬時に与える」という「シビュラシステム」と、不安定な情状酌量を担保し続ける現在の司法システムを、どのように比較できるのか。

次に、汲むべきなのは「情状」だけなのではないのではないかという点。

例えば一人目の被疑者は高齢者である。普通に就職していても定年していておかしくない年で、実際彼も生活保護でやっと生活している。そしてそうした貧困高齢者が犯罪を繰り返す例は、刑務所の服役者の高齢化などという形で社会問題化しているはずである。

二人目の被疑者は現役世代であったが、彼は大麻を所持していた際無職であった。彼は大卒だが就職した建築業では安定せず、退職してしまったらしい。思えば今40歳前後というのは、所謂「就職氷河期」に大学卒業が被った世代ではなかったか。

そしてこの世代は「キモくて金のないおっさん問題」などとして、やはり社会問題化している。そしてこの世代は、例えば新卒の就職率が向上している現在でも以前就職率が低い。

何を言いたいか。つまりこうした人々に対して与えられるのは「情状酌量」ではなく、「社会的政治的措置」なのではないかという点だ。

そして何よりの問題は、それを見て見ぬ振りしながら、以前「無根拠な信頼」を置き続ける我々の盲目さと愚かさではないか。

202号法廷において考えたのは「厳粛」に埋没する「愚人」の姿であった。

*1:坂口安吾「日本文化私観」

*2:鷲田清一「身ぶりの消失」

ドラマ「おっさんずラブ」と同性愛表象のこれまで

ドラマ「おっさんずラブ」が放送を終了した。2016年の大晦日にスペシャルドラマが放送されたところから考えると、なんだか長いような、それでいて放送が7話で終了したことを考えると短いような。

そんなわけで、「おっさんずラブ」についての記事が世の中に氾濫するのは目に見えている。そこで今回は、「おっさんずラブ」を日本のサブカルのどの位置に置くべきなのか、を中心に書くことで、そういう他の記事と差別化を計っていきたい。これは、意気込みであるから結果どうなるかはわからない。

おっさんずラブ」と腐女子ウケ

このドラマが腐女子ウケを狙ったことは間違いがない。この場合の「腐女子」の定義については、完全に以下のものを参照したい。

 腐女子とは、男性同士の恋愛を好む女性たちのことを指し、2000年頃から当事者たちによって自分たちを指す自嘲的な表現として用いられるようになった。当時はへりくだったニュアンスとして、彼女たちの特殊な趣向に対する防衛線の役割を果たしていた。しかし、それまで表出されなかった腐女子の存在が2005年から2006年にかけて社会現象としてクローズアップされ始めて行く。*1

なお、この論文にはもう一つ注目すべき記述がある。それは少女同士のコミュニティを結びつける要因として〈告白〉をあげた中での記述である。

〈告白〉する主体としての「私」と男性キャラクターの関係ならまだしも、男性キャラクター同士で築かれる関係となると理解の難度は跳ね上がる。「私」という存在を消し、同性同士による恋愛関係をまるで自分の経験のように感じることは困難だろう。*2

この記述は、実際にはある論文の「はじめに」の一部に過ぎないが、他の論文にも見られる記述と共通するエッセンスを持つ。

つまりそれは、「男性同士の同性愛」を嗜好する「腐女子」という存在においては、意図的に「腐女子」自身が削除される。他の恋愛ものであれば「私ならばこの人」と投影されるはずであるのに、BLないしやおいでは徹底的に読者たる「腐女子」が除外される。

「男性同士の同性愛」とはすなわちイヴ・K・セジウィックの言うところの「男同士の絆」のイレギュラーである。つまり、その「イレギュラー」を傍観する立場として自らをその枠外に置くことで、「男同士の絆」の中ではあくまで選択される存在に過ぎなかった女性が物語の構成者たるということである。*3

この点で言えば、作品において「女性」が一定程度排除されていることが必要になる。なぜなら「女性」は同性愛の構造者であったとしても参加者ではありえないからだ。もし参加者になってしまった場合、そこには「異性愛に回帰する」可能性が立ち現れるからだ。

結果として本作においても女性の影は極めて薄かった。ある一人を除いて。

「荒井ちず」論

本来「腐女子ウケ」を狙った作品に女性は不必要である。この点に関して、あえて批判を恐れずにアニメ「Free!」の例を引き合いに出すならば、主人公・七瀬遙ら岩鳶高校にはマネージャー・松岡江と顧問・天方美帆が登場するものの、徹底して「恋愛的」要素が排除されることで、彼女たちはあくまで物語の展開の為の一機関として以上存立しなくなっている。

翻って本作における「荒井ちず」はそうではない。荒井ちず自身は物語中盤にあって春田創一のことが好きであると自覚し、なおかつ告白する。そして春田創一も荒井ちずが好きなのではないか、あるいはそこに収まるのではないか、という予感を視聴者に与えることになる。

結局その予感は7話(というか最終話)で裏切られることになるのだが、その根拠は明らかにされない。というより、「少女漫画」的なお馴染みで言えば、幼馴染とうまくいくはずなのだが、という具合になる。

結局それが日本のドラマ的であり、なおかつ実写で「腐女子ウケ」を成立させるための要件となる。結局、「幼馴染を蹴るほど牧が好きだ」という状況を根拠づけるために機能することになるのだ。

同性愛表象の沿革における本作

本作を、一般にアニメや漫画の二次創作から派生してきたBLないしやおいの文脈に位置づけるのは容易ではない。その作品群は数知れず、なおかつ本作の脚本家など製作陣が、一体どれだけそれを知っているのか怪しいからだ。

その中でむしろ、日本におけるドラマにおける同性愛表象の中でこの作品を位置づける方が、容易で、意味あることのように思われる。

そう考えると実際にはかなりその歴史は古いと思うのだが、今回はあえてここ数年の、あくまで「見た」記憶のある作品に限って並べていきたい。なお、漫画原作など問わず、あくまでドラマについて論じる。

まず、2013年の冬クールに放送されたシェアハウスの恋人である。本筋は水川あさみ演じる津山汐と大泉洋演じる川木辰平がシェアハウスの中で同居する中でのラブストーリーなのだが、そのシェアハウスに同居することになる櫻井雪哉がゲイらしい。「らしい」とつくのは、最終的には「ゲイである」というのがあくまで思い込みに過ぎず、最終的にはそうでないということに気がつき、元の妻と娘のところに戻ることができるようになる。この点で言えば、あくまで「ゲイ」というのが「イレギュラー」であり、「幸せな異性愛的一家」に回帰することが普通であるかのような意味合いを感じさせる。

次に2014年秋クールに放送されたごめんね青春!であるが、脚本が宮藤官九郎氏であることに注意されたい。男子高と女子高が止むにやまれぬ事情で統合することになり、まずは1クラスだけ、クラスの半分をお互いに送り込むことで始める学園コメディである。錦戸亮演じる原平助と満島ひかり演じる蜂矢りさという2人の教師の、過去の軋轢を踏まえた恋模様もさる事ながら、学生らの「ワチャワチャした」模様も楽しい。その中で登場するのが小関裕太演じる村井守だ。男子高時代には何の変哲もなかった彼が、女子高との統合を契機に女子高の制服を着たり、クラスメイトの男子と交際を始めたりする。なおこの村井守はあくまでトランスジェンダーである点でいわゆる同性愛に分類するのははばかられるが、作中における役割に着目して今回は追加した。

次が2015年秋クールの「偽装の夫婦」である。天海祐希演じる嘉門ヒロと沢村一樹演じる陽村超治がメインだが、この陽村超治の方は曲者で、彼はゲイであることを自認している。ただし、止むべからざる事情で偽装結婚をする、という作品である。最終回には批判が集まったが、それはなぜかといえば、最終的にこの嘉門ヒロとゲイであるはずの陽村超治が結ばれることになったから。こちらも「シェアハウスの恋人」同様「イレギュラー」な同性愛が「社会的規範」に回収されるような構造を感じずにはいられない。

2016年秋クールには同性愛を扱った作品が一気に増える。

まず逃げるは恥だが役に立つである。大人気の作品でもあるから、ここで深入りはせずにおきたいが、古田新太演じる沼田頼綱がゲイであることはかなり早くに示唆され、その上で「ゲイであるからといって男を襲う」と思い込んでしまった星野源演じる津崎平匡が思い直す。ちなみに最終回では成田凌演じる梅原ナツキもゲイであることが明らかにされ、LINEで沼田と連絡を取り合っていたことが明らかにされる。しかしその中において「ゲイである」ということが殊更に取り上げられる機会はなく、「だから何?」とでもいうように普通に通り過ぎていく。

「地味にスゴイ! 校閲ガール・河野悦子」は主演・石原さとみで、その衣装にも注目が集まった作品でもある。和田正人演じる米岡光男はかなり序盤にどうやらゲイらしいということが提示されるが、それが明らかに言語化されず、自明のことのように進行する。そして徐々に女性的な性格があきらかになり、女子会にも違和感なく参加するようになる。こうしたゲイのあり方については次のような指摘がある。

 本稿では「ゲイ・ブーム」の詳しい分析に踏み込むことはできないが、しばしばその火付け役とみなされ、言及されることの多い雑誌『クレア』一九九一年二月号の「特集 ゲイ・ルネッサンス'91」では、特集に先立って、「ゲイって言われる人って、/アートに強くて、繊細で、ちょっと意地悪。/彼らと話すと、とっても気持ちがなごむのはナゼ?/ストレートの退屈な男とでは味わえないフリーな感覚。/ファジーな性から本気でもっと学びたい。/〝女を超えた男たち〟からの過激なメッセージはけっこう深い」と綴られている。こうした文章からも、ゲイがどのような存在として期待されたのかは伝わってくる。*4

ここに見られるのは「〝女を超えた男たち〟」、つまりもはや「無性的」、否「超性的」とも呼べる性質を兼ね備えているというステレオタイプをまとったゲイのあり方である。

「レンタル救世主」は同じクールである。作品自体については個人的には駄作との評価を下している。稲葉友演じる薫は作中中盤になってゲイであることが明らかになる。ただし違和感を感じずにはいられないのは、その結果「ありのままの自分」を発露した彼は女性の姿をとることである。もちろん女装志向のあるゲイというのが存在することは否定できないが、いわゆるオネエと呼ばれるようなそうした人々とは志向を共有しないゲイもいるはずであり、そちらを忘れ捨ててはいないか、「超性的」というステレオタイプでゲイをオネエに作り上げていないか、というのは慎重に分析する必要のあるところである。

「トドメの接吻」はそのキスの回数の多さからでも話題をさらった作品であるが、志尊淳演じる小山内和馬は、主人公で山﨑賢人演じる堂島旺太郎に歪んだ愛情を捧げる、ある種サイコパス的な位置に置かれる。

この次に「おっさんずラブ」が置かれるわけだが、そこに至るまでの同性愛表象は「逃げるは恥だが役に立つ」を除いて*5、以下の2つに分類できそうである。

  1. ゲイであるという思い込みが克服される、ないしゲイであったはずが異性愛者に「回帰」するパターン
  2. ゲイであることを自覚して女性の格好をし「超性的」な存在となるパターン

そしてこれはドラマ中においてゲイが脇役に置かれるために、あくまでゲイに「機能」が付与されるものの、その人柄を丹念に描く余裕がない、という状況によって起こるのではないかと考えられる。

結果、同性愛を真正面から描いた「おっさんずラブ」はこの1にも2にも当てはまらない、ということになる。

おっさんずラブ」の普遍性

ゲイを脇役に追いやることによって、ゲイそれ自体を単なる社会的規範から逸脱した存在としか描けないか、逆に受け入れるものの結果超性的なステレオタイプをまとうことになるという現象が起きてきた。

しかし、「おっさんずラブ」が同性愛を中心に据えた以上、そうした2つのパターンに当てはめられる必要はなく、むしろ普遍的な恋愛モノの回帰できる可能性がある。

まず、同性愛を扱った漫画を3つ取り上げたい。

漫画『ひだまりが聴こえる』は未完であるが、同性愛を扱った作品である。「エロ」と呼ばれる要素はないものの、難聴という身体的障害と同性愛2つを包含してあまりある作品のキャパシティには脱帽するより他にないが、ここにおいては日本の漫画・ドラマにおいて典型的な極めて閉鎖的な人間関係によって「ゲイ」が社会的批判にさらされる可能性を防いでいるように見える。

漫画『神様のえこひいき』は、幼馴染の少年に恋心を抱いてしまった少年が神様によって少女に変えられ思いを果たそうとする物語であるが、最終的には男同士でも関係ない、というところに落ち着く。これは韓国映画『ビューティー・インサイド』において見た目が毎日変わったとしても(そして性別が変わったとしても)、ある一人を愛し続けていた、つまり「本質を愛しているのであって性別を愛しているのではない」という感覚と近しいものを感じさせる。

漫画虹色デイズは同性愛を正面から扱った作品ではないし、男性同士のゲイではなく、女性同士のレズを意識した作品だが、作中に登場する少女が、ヒロインに恋心を抱いている、というスタンスでいる。ヒロインは主人公と結ばれることになるのだが、この少女にも別の少年が思いを寄せる。こちらは最終話まで決着がつかないことで「同性愛」が「社会的規範」としての「異性愛」に吸収されることを防いでいる。

レズという観点で言えば『小さいおうち』もその要素がかねてより指摘されているが、それに関しては「小さいおうち」の中で妻と女中が同性愛で結ばれている「かもしれない」という点で、「小さいおうち」の外にいる男を脅かす。つまり家父長制への挑戦と見るべきであろう。*6

こうした同性愛を扱った作品群と「おっさんずラブ」とこうした作品を比較しても、あまり共通点を感じられない。

むしろどちらかと言えば、少女漫画との共通点が多いのではないか。

少女漫画は二分できる。それはヒロインが本命男子に一直線で向かう作品と、途中、別の男子を付き合うものの「やっぱり」と本命男子に戻る作品である。

例えば君に届けのような作品だと黒沼爽子の一途さをアピールしたいわけだから、途中絶対に別の男子に振り向いたりしない。(そしてもちろん風早もくるみに振り向いたりしない)

反対にヒロイン失格オオカミ少女と黒王子のような作品は後者──これを「俺にしとけよ」系と呼びたいが──属する。

ヒロインはうまくいかない恋愛から一度離脱し、「俺にしとけよ」とつぶやいてくれる身近な男に切り替える。しかし「何かが違う」という違和感とともに交際を続け、その男が「行きなよ」と許しを与えるか、自ら「ごめんなさい」と交際を打ち切ることで、本命男子に戻っていく。

本作も、春田は牧と交際するものの一時的にそこから離脱し、「俺にしとけよ」然と振る舞う武蔵の方へ行く。結婚まで行くかに思われたが武蔵は「行きなよ」と許しを与えることで、春田は本命の牧のもとへ向かうことができる。

まとめに

本作は日本の同性愛が表象されてきたドラマからは隔絶された腐女子ウケを狙った作品であったように思う。

しかしながら最終的にその作品が、今までのパターン分類されるゲイのあり方ではなく、むしろ「少女漫画的」に回帰したという点で、つまり、ゲイがあくまで普通の恋愛モノの中に描かれた点で、このドラマは評価されるべきではないかと思う。

*1:吉田栞・文屋敬「腐女子と夢女子の立ち位置の相違」福岡女学院大学福岡女学院大学紀要 人文学部編』第24号、2014年、p.62

*2:同上、p.61

*3:なお、BL中における「オメガバース」という設定を持つ作品群についても(αというエリート階級が、Ωという性的弱者を一方的に選択し(番になる)、同性であってもΩを妊娠させられる)、もしかすると「男同士の絆」において「選択される」女性像を男性に還元したものとして解釈できるかもしれない。

*4:「「同性愛者の隣人」との関係性 ──桐野夏生『天使に見捨てられた夜』──」中央大学人文科学研究所『人文研紀要』第88号、2017年、p.5

*5:沼田頼綱が料理上手であり、ご意見版的立ち位置を占めるという「女性らしさ」を2に当てはめることも可能かも知れない。

*6:もちろんこの点は「男同士の絆」というホモソーシャルへの挑戦という点で「腐女子」のあり方と通底するものもあるかもしれない。

辻村深月『冷たい校舎の時は止まる』

 本来この本についての感想を書くつもりはなかった。感想を書いていいほどしっかりと読まずにかなりひどい飛ばし読みをしたし。

ただ、ちょっと他のブログに刺激的な記事を見つけて、なんだかそれに負けたくない、という意識が働いた。だから、読んで考えたことを書き連ねておこうと思う。

その上でこの作品のキーワードだと思うのはないし

物語は冬の雪の降る日、普通に登校してきた生徒たち。しかし学校には生徒数名しかおらず、彼らは自分たちが学校に閉じ込められていることに気付く。そしてそれはどうやら、その生徒の中の誰かひとりが学校祭で自殺し、残りの人々を自分の中に「取り込んだ」らしいことが明らかになる。

まずこれを読むとその類似性に気が付くのは宮部みゆきの『ソロモンの偽証』だと思う。

『ソロモンの偽証』は、柏木卓也という少年がある冬の日学校で自殺したところを発見され、その原因が大出俊次のいじめではないかという疑惑が持ち上がり、中学生たちが自主的に「裁判」を行ってその真相を明らかにしていく、という物語。

本作において誰かが自殺したのは学校祭の季節であるし、『ソロモンの偽証』で柏木卓也が自殺したのは冬。これは一致しないが、しかし本作において生徒たちが学校に閉じ込められたのは冬である。つまり冬には独特の雰囲気があるらしい。

反対に言えば『ソロモンの偽証』は、柏木卓也が自殺したのは冬であるが、しかし「裁判」が行われるのは真夏である。

ここから導き出されるのは、「冬」の持つ閉鎖的なイメージである。

『冷たい校舎の時は止まる』における「冬」は「雪」によって閉鎖的な雰囲気を醸し出している。実際自分は北海道出身だが、分からないではない。冬になると窓を閉め切るからだろうか、冬の方が夏とは違って、家の中が外部から隔絶されている感覚がある。

それだけでない。「雪」には独特のイメージがある。「蛍雪の功」との言葉があるが、実際には根雪を起こすほど雪が積もると、わずかな街灯でも雪に反射して、町全体がぼんやりと明るくなる。ぼんやりと明るいので、まるで町全体が作り物のようになる(もちろん作り物なのだが)。なんだかテレビドラマのスタジオにいる気分になる。

そういう「雪」降る「冬」に学校に閉じ込められるイメージは、それほど想像しがたいものではない。

反対に『ソロモンの偽証』では、その外部から隔絶されている感覚があるからこそ、柏木卓也の死が謎たらしめられている。

この作品には「自殺」という共通点がある。未だに学校で「自殺」が起きると、メディアのもっぱらの疑問はそれが「いじめ」による「自殺」であるか否かである。結果、「いじめ」を取り扱ったような作品は「なぜ」自殺してしまったのかというのをテーマに据えることが多い。

実際『ソロモンの偽証』でも柏木卓也が「なぜ」死んでしまったのかというのを、疑似的な歴史の審判としての「裁判」によって結論を出す。もちろんその判決が正しいかは分からないが、他者が過去についての結論を出すのはさながら「歴史」の在り方そのものである。

一方本作ではそれが異なる。「なぜ」自殺したのか、ではなく、「誰が」自殺したのか、がテーマに据えられる。そしてそれを明らかにするために自らの記憶を疑う。これはさながら「歴史」の在り方というよりかは「記憶」の在り方に迫るようである。

「記憶」というのは恣意的なものである、というのは、心理学者や脳科学者やその他もろもろの思想家の言葉を引くまでもなく、かなり実感を伴う感覚ではないだろうか。問題はその「記憶」は絶対ではない。実際その「記憶」には大きな誤りがあったことが明らかにされる。

彼らが自らの「記憶」に疑念を向ける閉鎖された「学校」という特殊空間であるが、このように特定の空間が特殊化する例というのは枚挙に暇がない。

原作小説から連続して映画化されている映画「人狼ゲーム」シリーズしかり、「神さまの言うとおり」、『悪の教典』もそうかもしれない。

こうした空間の特殊化の際、特に前の2作品については必ず「説明者」が必要である。つまりその空間がどういったルールで動いているのかを、誰かが説明する必要がある。

本作においてそれを担っているのは清水あやめであるが、彼女を説明者として置く一方、その彼女に事前の準備を与えないことで、そのルール説明を意図的に操作している。全てのルールを、登場人物たちもしらないし、ましてや読者も分からない。この非対称性は後の叙述トリックにも現れ、後半の伏線の回収は、さながら作者による答え合わせのように行われる。

そうした伏線回収が行われて、最後には何かの謎が解明されたのか。もちろん「誰が」自殺したのかという謎は一応解決される。しかし、実際にはそれ以外に何かが解決されたわけではない。

ただ、亡くなった生徒の時間は、冷たくなったまま止まり続けるだけなのだ。

アニメ「プラネテス」

プラネテス Blu-ray Box 5.1ch Surround Edition

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プラネテス」の原作は漫画だ。でも漫画は読んだことはない。だからここで書くのはあくまでアニメ「プラネテス」の話。

もしこのアニメに何かしらの興味を抱いている、かもしれないのなら、まずはAmazon Primeでいいから見てほしい。少なくともこれより以下は、全ての結末までを含めて、涙で揺れる視界の中で頑張って感想を書きたい。

宇宙を舞台に扱った作品にはいくつかある。例えば「ガンダム」はある種の金字塔を打ち立てたと言っていい。これより前にも当然宇宙を扱った作品は山ほどあるのだろうが、しかし「ガンダム」はもう〈宇宙大河〉とでも言うべき様な広大な作品世界を構築している。

次に例えば『宇宙兄弟』だろうか。「ガンダム」と並べるにはあまりに歴史が短すぎる、という感もある。しかし、この漫画以後、少なくとも日本のサブカルにおける宇宙観は多かれ少なかれ変化した。

ガンダム」が属していたのは、手塚治虫の「鉄腕アトム」以来の夢一杯の科学技術の世界。そしてその先にあるエキサイティングなフロンティアとしての〈宇宙〉。

しかし『宇宙兄弟』があるのは、現実の世界。普通のサラリーマンが宇宙飛行士になるまで、そして宇宙飛行士になった後を、リアリスティックに、そして時々コメディ要素多めで描いている。つまりこの時点で我々が宇宙に対して抱いているロマンは、かなり大きく変容している。

もちろんこれ以外にも宇宙を描いた作品は数知れない。『スター・ウォーズ』シリーズなんかもあるが、これに関しては前者の、つまり「ガンダム」側に入れるべきだろうと思う。

さて本作がアニメとして放映されたのは2003年の10月から2004年の4月。原作漫画が1999年から2004年まで。と考えると、どうやらこの作品は、その二つの宇宙観のちょうど境目にあるらしい。

というわけで本作の宇宙観は、現実的なロマンとしての〈宇宙〉という微妙な位置にある。つまり、宇宙にロマンを抱きつつ、あくまでのその宇宙には現実が立ちはだかる、という位置である。

この作品の主人公たちが所属するテクノーラ社デブリ課は、宇宙開発の結果増えすぎたデブリを回収する役割を担っている。

このスペースデブリという問題については、今でこそ英語の教科書にも掲載されるような大きな問題になっているが、当時はそれほど大きくはなかったに違いない。

夢と希望あふれる宇宙にあって、しかしスペースデブリという問題に立ちはだかる彼らが、いかにそれに立ち向かうのか。

しかしこの作品の本質とはそこではない。放送されたのがNHKであることからも薄々お察しという感じであるが、もっとこの作品は教訓的である。

つまり作品のテーマは「孤独な人間なんていない」というようなところに収斂する。

サブテーマとでも言うべきなのは、人間の定める恣意的な国境の空虚さである。

何かにつけ「愛」の重要性を説く田名部愛がデブリ課に配属されたところから物語はスタートする。そのデブリ課にはハチマキと呼ばれる星野八郎太がいた。

ここだけ切り取ると、やたらここには日本人がいるという風に思われてしまうかもしれないが、実際には違う。むしろそうではないことにこそ本質がある。

この作品内では、日本人かそうであるか、あるいはその出身の如何を問わず登場人物たちが同居する。ト書きを避けられない小説や、言語の壁を感じさせてしまう実写ではない、漫画やアニメだからこそできる描写である。しかし彼らは何語か判然としない言語で普通に会話している。

登場人物たちを明確に区分する何かの基準は判然としない。しかし肌の色、髪の色などでは区分される。このもどかしさは、そのまま国境へと移る。

「宇宙からは国境線は見えなかった」というのは毛利衛の言葉だが、類似の言葉は作品中3人から言及される。

一人目は、小国エルタニカの人々の想いを背負って、初めての船外活動用宇宙服の採用を求めてやってきた技術者テマラ。その採用試験中にエルタニカは再び国際社会からの制裁を受けることとなり、採用試験は強制的に中止させられることになる。そのテマラは、宇宙から地球を見つめながら、そこには国境が見えないことを言う。

二人目は、ノノ。彼女は月で生まれたルナリアンであり、月で生まれたが故に重力を受けずに大きく育ってしまい、地球に帰ったところで重力に耐えられないという境遇にいる。そんな彼女は地球にある「海」は知らない。そして「国境」も知らない。

三人目は、ハキム。軌道保安庁所属であったはずの彼だが、最後には彼がテログループ「宇宙防衛戦線」所属であると明らかにされる。そんな彼は、先進国と発展途上国の格差に問題意識を抱いた結果テロに走ったわけだが、最後、月面でノノと出会った時、振り返った地球には国境線がないことを自覚する。

例えばアニメ「機動戦士ガンダム00」で言えば、ソレスタルビーイングは国家(連合)の外部に存在する私設武装組織として戦争へ武力介入を行う。彼ら自身は国家に対してそれが是であるか非であるかという決断を下さず、ただ「戦争」という行為そのものを糾弾する。

一方本作においては「国家」という概念を、宇宙という圧倒的外部から問い直すことで、それによる戦争の空虚さを明らかにしている。

では「国家」を失った我々には何が残るのか。

宇宙という圧倒的外部に取り残された我々には、あくまで自分しか残らないのではないか。

そうした孤独感もこの作品では取り扱われる。

ハチマキが罹患する「宇宙飛行士のはしかみたいなもん」がそれにあたる。広大な宇宙、そして宇宙には国家というような依り代はない。その彼は圧倒的孤独感を覚える。

その時に彼を支えたのは、「国家」が存在しなくとも「愛」によって他者と繋がり続けようとする田名部だった。

ハチマキ自身も最後に悟ったのも、「自分もみんなと繋がっている」ということだった。これこそまさに「愛」なのではないか。

もちろん、人種も国境も頼りない時代にあって、唯一人を孤独から救うのが人とのつながりという「愛」であるという大風呂敷は、あくまで教科書的な感は否めない。

しかしそれが、この物語26話を通して、圧倒的な説得力を得ている、という点、それこそがこの物語を単純な「訓話」から壮大な「宇宙モノ」へと変貌たらしめている。