青山裕企「スクールボーイ・コンプレックス」

 

スクールボーイ・コンプレックス

スクールボーイ・コンプレックス

 

 この本には、美少年は出てこない。

これには誤解を招くかもしれない。誰もみな確かに「かっこいい」のだが、例えばルネサンスの時代に美化されて描かれるような、そういう美少年ではない。そこにある美しさは、そういう、所謂黄金比によって仕組まれた作為的なものではない。

日常の中に美がある、というような考え方は、柳宗悦に始まる民芸運動から何らかの文章を引用してくるまでもなく、ある程度の実感を持って受け止められているだろうと思う。あるいは個人的には私は、坂口安吾の言うところの、「必要の中にある美」というようなものに着目して、それがこの写真集にも通底するのではないかと考えたい。

つまり、この本にいる少年たちには無駄なものが無い。

ある者は着替えているだけであり、ある者は窓の外を見やるだけ。彼らは決して華美な服を着ていないし、あるいは服を脱いでいかにも然としたベッドでの写真が掲載されていたりもしない。

学校での何気ない一幕。家での、自分の部屋での、さりげない一瞬。確かにそんなこともあったかもしれない、そう思わされる写真が連続される。

しかし大切なのは、実際にはそうした瞬間は無かった、ということである。

帯にはこうある。

少年時代から、カッコいい同級生や先輩たちに対して抱いていたコンプレックス、感じていた同性としての美と羨望。その眼差しを解禁した青山裕企初の試みの写真集、ついに完成!! 小学生から高校生まで、12人の男子たちの皮膚を突き抜けた「少年のなかにある美しさ」を収録。

著者・青山自身が同性に対して抱いていたのは、ホモセクシュアルな感情ではないだろう。むしろホモソーシャルな関係への羨望、あるいは「男性」もしくは「男子」そのものへの羨望ではなかったか。

例えば時々、半裸の男子が現れる。それはなぜか。著者のあとがきにもある。

僕は、昔から自分の身体にコンプレックスを抱き続けてきました。

小学校高学年ぐらいまでは、ものすごく痩せていました。

いわゆる、ガリガリってやつです。

その後、中学から一気に太り「痩せ過ぎ」から「太り過ぎ」でからかわれるようになったという。

ガリガリとからかわれてきた私にも、その気持ちが分からないではない。

男子同士のコンテクストの中で「脱ぐ」ということがどれだけ特殊なことを意味するか。例えば部活の最中、汗をかいて着ていられなくなったTシャツを脱ぐ。それが出来る人間と、出来ない人間がいる。身体的特徴のために、つまりガリガリであるからとか、太っているからとか、それで脱げないだけでなく、精神的に、脱ぐことを許されないという男子もいるのである。

スポーツをしている男子も出て来る。スポーツを楽しむことのできる男子がいる一方で、それを忌避することすらできない男子もいるのである。

はしゃぎあう男子も出て来る。男子と、首を掴んで、微笑みながら、それができる男子がいる一方、お互いを傷つけないように、それだけのために生きるような男子もいるのである。

この本にある男子は、ある意味の虚構──ある人々にとって、虚構である。そしてその虚構は、美化された世界に存在されたものではない。ただその虚構は日常の中に形作られたもので、人は、少なくとも私は、その虚構に羨望の眼差しを向けるしかできない。

この写真集はもどかしい。もどかしさを感じさせる。それでいてそれは不快ではない。ただ羨望の眼差しを向け続ける。それはそれで快いものがある。