映画『クソ野郎と美しき世界』
SMAPを抜け、ジャニーズを抜けた3人の主演映画。「新しい地図」というのがNEW MAPであり、東西南北を「地図」に繋げると NEWS MAP、つまりNEW SMAPに繋がって「新しいSMAP」になるというのはよく言われるところですが。
と言いつつ、この4本のアンソロジー、どれも抽象的という感じで。いや抽象的な映画は苦手なんだな、自分。
1:「ピアニストを撃つな!」
よく分からないストーリーではあるが、主演は稲垣吾郎で、役名はゴロー。監督が園子温で、そりゃ分かりっこない。この監督の映画見たことないんだもの。
ゴローはピアノを演奏しつつ、かつて会った女性が忘れられず、その女性を花火で呼び寄せる。
その女性フジコは通称マッドドッグと呼ばれる大門に囲われた女で逃走劇が始まる。
その逃走もカラフルで何とも分からないんだけれど、基本的に説明役を務める語り手のゴローは何とも心もとない。時制が滅茶苦茶で、信用ならない。
官能的な感じと、それでいて少し不真面目な感じの中でバイオレンスは巧みに隠蔽される。だから少し耐えられるが、面白い面白いと言ってみる作品ではない。強いて言うならfunnyではなくinteresting。これはつまらないを意味しない。
2:「慎吾ちゃんと歌喰いの巻」
一番伝えたいことがはっきりとしていて、見ていられるのはこの短編だったと思う。
主人公は香取慎吾演じる慎吾ちゃんだが、彼は絵をかくのが趣味で、かつては歌を歌っていたらしく、なおかつ芸能人ともパイプがあるから、まさしく香取慎吾その人なのだろうと人々は気が付く。
ヒロインの歌喰いが人々の歌を食べてしまう、その中で慎吾ちゃんの歌も食べられ、彼は歌えなくなる、という話。
これは明らかにジャニーズを脱退しSMAP時代の歌を歌えなくなったことを意味している。その点から考えて、最終的におそらくそれを取り戻せないというオチはかなり意味深長。
もちろんそこに注目して、つまりジャニーズによって歌を奪われた彼が、或いは絵画さえも奪われた彼が、歌喰いから歌を取り戻せないという話に自己満足を覚えてもいいのだが、それよりも面白いのは、この作品において本来聴覚的であるべき音楽が、それ以外の感覚にスライドされていること。
この一種共感覚的にとらえられる音楽は、慎吾ちゃんの描いた絵から音楽が感じられるという形で視覚に転移し、歌喰いのウンコがそのまま音楽であり、それを触ることが出来るという形で触覚に転移し、それを食べることで音楽を取り戻されるために嗅覚と味覚に転移する。
音楽が音楽でなくなる描写、聴覚の転移はかなり挑戦的な試みだと思う。
3:「光へ、航る」
いかにも一般受けしそうなのがこれで、強いて言うと一番「分かる」作品になっている。ストーリーにもかろうじて脈絡があるし。
草彅剛演じるオサムと裕子の間の男の子の右腕を受け継いだらしい女の子を探しに行く話。その女の子は誘拐されていて、その女の子を息子の使っていた野球ボールをヒントに探していく。
ちなみにこの誘拐犯を(今は健太郎改め)伊藤健太郎が演じている。頑張ってほしい。今回は好演してました。ついでに言うと滅茶苦茶イケメンでした。
最終的にはこの伊藤健太郎の指を詰めて終わり。息子の右腕を受けついだ女の子に思いは託されました、というめでたしめでたしな結末。
4:「新しい詩」
と、こういう三者三様なアンソロジーが、かなり乱雑に並んでいて、どうやら世界観を同じにするらしい、とやっと分かるのがここ。
指をつぶされたと思っていたゴローはピアノを弾いており、音楽を歌喰いのウンコから取り戻した慎吾ちゃんは歌を歌う。
この歌というのが、やっぱりジャニーズへのアンチに満ちている。
誰がどう見ようと、ジャニーズのことを「どうしようもないとこ」と呼んでいるし、その連中のことを「クソ野郎」と呼んでいる。或いは「楽になろうぜ」と呼びかけることからも、「クソ野郎」とはジャニーズ事務所に残った木村拓哉や中居正広を意味するのかもしれない。
やはり象徴的なのは2本目とのつながりで、歌を歌喰いに奪われたはずの慎吾ちゃんが新しい歌を歌えているのは、やはりジャニーズを離れたからだろう。裏を返すと「新しい歌しか歌えない」。
作品全体通して、やっぱりかなりジャニーズへのアンチテーゼに満ち満ちている。ただ作品それ自体としては別段つまらないというわけではない。
主演の3人がジャニーズをかなり大騒ぎして抜けた、というコンテクストを無視してもなお面白いかはかなり疑問だが、それでもこれで続編を作るというんだから、なるほどそれほど不評ではなかったらしい。
この一種ジャニーズに向けられたルサンチマンからどのタイミングで彼らが解放されるのか、が個人的には一番の関心事だ。