映画『イフ・アイ・ステイ 愛が還る場所』

 いやはやこのセンスの悪い和訳は何とかならないものか。

原題は「If I stay」──それならまだわかるが、これをカタカナの羅列にしてしまうともう我慢ならない。中学生の英語の教科書に付された読み仮名みたいだ。

少し疲れたこともあって、極力頭を使わないものを、単純に楽しいエンタメ映画を、と思ったのだが、間違いなかった。たしかにテーマは少しシリアスなのだけれど、やはりラブロマンスという感じに展開するし、そういうオチを迎える。

不意に命を落としたあと、何らかの体験をするという例は、枚挙に暇がない。「If I stay」というタイトルからしてそうであるように、この映画は「選択」というのが一つのキーワードになる。

「あなたの選択があなた自身を作るのです」みたいな作品を見たことがある気がするのだが思い出せない。ドイツ文学だった気も、安っぽい日本映画だった気もする。まあ、つまりこれもさほど珍しい考え方ではなくて、運命論と同じくらい、もしかするとそれ以上に頻繁に取り扱われるだろうと思う。

主人公のメアはチェロの才能に恵まれた女性。両親がパンクでロックだったのに比べると、クラシックを好む彼女はまさに「秩序」の中にいる。

その「秩序」から、死が目前に迫る中、大きく逸脱した体験をする。それがこの映画であると言って構わない。

途中途中、過去回想が含まれることになり、なぜ彼女が直ちに「死のう」とも「生きよう」とも決められないのか明らかになる。

彼氏のアダムは、先に「トワイライト」シリーズをきっちり見ていると、なんだか振る舞いが陳腐に見えてしまうのだが、あれがいわゆる典型的な「イケてる男子」の振る舞いなのだろう。日本で言う壁ドンみたいな。

そう考えると、「トワイライト」でも2階のベラの部屋からエドワードを見下ろすシーンが幾度となくあったし、この映画でもそういうシーンがあったわけで、『ロミオとジュリエット』だなあ、と感じる。英米文学に与えしシェイクスピアの影響は偉大なり。

ロミオとジュリエット』と言うと、映画『ウォーム・ボディーズ』が、『ロミオとジュリエット』の美化されたバッドエンドを一笑に付すかのような痛快なハッピーエンドで好きなのだが、次見るときはきっちり頭を使って見ようと決めていたので、今夜の気分ではなかった。

その彼氏のアダムはロックな人間で、いわゆる「秩序」ど真ん中なメアとは合わないように見えて、これが合う。音楽ができる人間というのは、クラシックもロックも差別しないのだろうか。アダムもクラシックに興味があるらしいし(少なくともチェロの演奏会に行ったのが嫌々だったりデート目的だったりするとは思えない)、メアもアダムのロックの才能に関しては認めていた。

問題はメアが音楽を学ぶために遠距離恋愛になるかもしれない、との件。

大抵の恋愛もののお決まりパターンは漫画『君に届け』にあるというのが自説なのだが、進路に迷い、夢か、遠距離恋愛か、という命題は、きっちり『君に届け』にも収録されている。『君に届け』は偉大なり。

そうでなくても、やっと思いが通じ合った2人が、「夢」だの何だので引き裂かれるという話はよくある。大抵は北海道かバンクーバーがそれに使われるので、北海道出身としてはいたたまれない。

確かドラマ「きょうは会社休みます」のラストも似た感じで、最後は田之倉くんが帰国した空港のシーンだったような。空港は出会いと別れの場所。これは島国日本ってことなのかもしれないけれど。

そんなこんなで、クラシックという秩序の中のメアと、ロックという、むしろそれに歯向かおうとするはずのアダムがうまくいきつつも、遠距離恋愛につっかかる。

交通事故で重体の自分を、幽体離脱した自分が見下ろしつつ、自分がいかに愛されているかを知る、という。この手の「自分をいかに客観視するか」という点では、様々な作品が趣向を凝らしているところ。

もしかすると入れ替わりものもそういう傾向があるのかもしれないし、『ツナグ』なんかは故人との思い出をきっかけに自分を見つめ直す、ということだと思う。誰かの死に触れると自分を見つめ直す、というのは割に必然的なことかもしれない。メメントモリっていう。

となると、「いつ死ぬかわからないから毎日を大切に生きましょうね」という陳腐なメッセージになりがちなのだけれど、その点この映画はすばらしい。

かなり直前までメアは死のうと思っていて、最後にアダムがギターを演奏してくれたから考えを改めるものの、それまでは祖父の声かけも、親友の声かけも意味を成さなかった。

むしろ、家族をいっぺんに失ったメアが死を選ぶのは必然のように思われて、最後にそれを引き止めたのは愛だった。より陳腐に「音楽の力」と言う人がいるかもしれないが、「音楽の力」というのは聞こえがよくて好きじゃない。だって誰も「文学の力」だなんて言わないし、大抵「音楽の力」を標榜する歌は「前を向け」「走れ」「歌を歌おう」だけで構成されているんだもの。

もちろんメアとアダムに音楽が大きな意味を果たしていたのは間違いない。映画全体も、音楽に彩られている感じがあった。そして音楽とどう接するか自体が彼らの将来を決めるわけでもあるし。

しかし、音楽はあくまで彼らの「居場所」なのであって、利己的に音楽を愛している。

最後にメアは、チェロが実際には集合体の一部であり、ソロのためだけの孤独な楽器ではないと気がつくが、これはメアが多くの人に囲まれてきたことを象徴しているわけで、別に「音楽はすばらしい」という話じゃない。「音楽はすばらしい」を批判したいわけじゃないが。

つまり、メアが臨終に付して自覚したのは、多くの人に囲まれているということ。父は娘の才能に賭けて自分の夢を諦め、母も自分を応援してくれており、弟も協力的。アダムは最初こそ反対するものの、最終的には遠く離れた学校に行くことを応援してくれているし、キムは一番に寄り添って心配してくれている。

アダムのギターとメアのチェロでセッションしたときのように、実際にはたくさんの人に囲まれていて「ひとりじゃないんだよ」みたいなのが本旨なのだと思う。

「If I stay」に、例えば「in this world」と続くとすると、彼女に待ち受けているのは、きっと家族が誰もいないという苦境。しかし、それでも彼女は生きることにしたし、これからの彼女は自分が一人ではないと知っているぶんだけきっと強い。なんかそんなセリフどこかで聞いたことが。

まあ、そういう点で、「いつ死ぬかわからないから」云々という陳腐な話よりも、「あなたのそばにはたくさんの味方がいるんだよ」「ひとりじゃないんだよ」という方が、よほど優しく心に染み入ってくる。

その点で──アダムとメアのキスシーンが存外に多かったことを差し引きしても──この映画は見ていて気持ちのいい作品だったと思う。