サブカルと国家表象の備忘録

土曜日、本当は暇じゃないしやらなきゃならないことがあるので図書館にいますが、かと言って無機質な「オシゴト」ばかりでも嫌になっちゃう。

ということで、暇つぶしに備忘録を書いておこうと思う。

ここ最近考えているのがまさにここ、「国家表象」なんですね。

なぜかというと、仮面ライダー仮面ライダーに関してはもう別のブログでやっているんだけれど、現在放送中の「仮面ライダービルド」はある意味で異例だった。

というのは、この作品、作中で日本が3つに割れているという話なんだけれど、仮面ライダービルドなどの主人公ライダーたちは、その中の東都という国に与して戦う。

「国に与して戦う」? 実はこれが個人的なこの作品に対する評価を下げている。

仮面ライダー、戦隊ヒーロー、ウルトラマン、そうした特撮モノは、つまりヒーローものであるがゆえに、そのヒーローの強大な力を国家とは切り離さなくてはならなかった。

だって、国家に与すると、その途端、ヒーローは「軍事力」に変貌する。

このあたりについてぼんやりと考えていることを、できるだけ他作品を参照しながら書き留めていきたい。

まず、軍事力化するヒーローがどう忌避されてきたかという点で考えると面白い。

例えば、「ウルトラマン」シリーズにおいては、主に助力者組織が登場する。科学特捜隊に連なる系譜だが、基本的に彼らは国家機関ではない。国家機関にすると、それはたちまち軍に変貌を遂げるからだ。

それを避けるための方法は2つある。1つには、国際機関にしてしまうこと。つまり、国家が軍事力を保有することに抵抗はあっても、国連軍的な国際秩序と平和を保つための軍事力は許容されやるい。もう1つは、民間組織にしてしまうこと。こちらに関しては「ウルトラマンコスモス」の例しか知らないのだが、軍事力を保有している民間組織、というのは設定が難しく、最終的には国際機関になってしまっている。その上、「ウルトラマンコスモス」に登場するSRCという組織は、常に自衛隊的な存在らしい防衛軍とやたら対立する。つまり国家権力との対立を描くことによって、その距離感を演出している。

という手法についてはあまり珍しくない。例えば「仮面ライダードライブ」では主人公は警察官だが、自らが所属するはずの桜田門にある警視庁庁舎からは遠く離れた自動車学校に本拠地を持ち、作中一度自らの所属するはずの警察から指名手配を受けている。その上、主人公・泊進之介の父の仇は参議院議員であり国家防衛局長官の真影。仮面ライダーにおける「父の克服」という命題から言えば、この真影を倒すことは至上命題であって、つまり泊進之介は「父を克服」すると同時に「国家を克服」しなくてはならない。

戦隊にしてもそうで、現在放送中の「快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」におけるパトレンジャー。もちろんパトレンジャーは「特捜戦隊デカレンジャー」の系譜にあるはずなのだが、こちらは「国際警察」を舞台としている。

現在放送中の「ルパパト」に関してはその「国際警察」というのありきで、そこから銭形警部を想起させる形でルパンレンジャーが登場している事実は否定のしようがない。

警察ひとつ出すのに「国際警察」という舞台を用意しなくてはならない。そうでなくても、サスペンスドラマに出てくる警察といえば基本は所轄署であり、そうでなければ警視庁内の窓際部署。つまり国家権力に属してはならないという命題は、セカイ系の議論とつながりそうな気もするのだが、それを考え出すと面倒くさいので今回はやめておく。

さて、そうやって国家権力と距離を置くのって普通なのだろうか、というと、確かに普通なのだが、アメコミを見るとそうともいえない。

キャプテン・アメリカなんて名前に国を背負っているし、彼らは国家のために戦うことができる。そのへんがアメリカと日本の違いだと思う。これに終始した話ではなくて、例えば「007/ダブルオーセブン」シリーズを見てみてもそう。彼はイギリス人で、イギリスのために戦うスパイだけれど、執拗なまでの濡れ場があったり、最近の作品を除けばポップな作品も多い。

反対に日本で言えば、珍しく日本のスパイものを扱った「外交官 黒田康作」シリーズなんかがドラマ化・映画化もされたところだが、なぜかそうなるとハードボイルドになってしまう。「ジョーカー・ゲーム」もアニメにも映画にもなったと思うが、舞台は戦前に置かざるを得なかったし、やはりハードボイルドな感じになる。

国家のためにポップに働く、というのはどうやら日本ではうまくいかないらしい。

国家との抵抗について真正面で向き合った作品と言えば「PSYCHO-PASS サイコパス」があると思うのだが、これが面白いのは作中では「国家」とは「シビュラシステム」に置き換えられるわけだが、常守朱はシビュラシステムの手足として働く一方で、彼女自身シビュラシステムへの疑念を深めている点。疑念を深めている、というような簡単なものではなく、シーズン2でははっきりと対抗している。

最近見ていて面白いと思ったアニメに「プラネテス」というのがある。宇宙開発の現実味が神話ではなくなってくる一方で、その現実味にやはり我々が幻想と可能性を感じているという状況だからこそできたアニメなのだろうが、そのなかに「スペースデブリ」という現実を突きつけつつ、それに対処する人びとを描く。

面白いのは、宇宙だから国境がない。そして人種も様々。国家を超越したところから反対に国家を語る、というところは、例えば同じ宇宙を舞台にする「機動戦士ガンダム00」なんかとは違う。あれは国家から離脱したところから国家を攻撃する、ただし否定しているわけではない。

アニメ「ガールズ&パンツァー」なんかは、国家の描かれ方が面白い。というのは二種類ある。

主人公ら女子高生は、文科省の政策で廃止されそうになった自分たちの学校を守るために「婦女子のたしなみ」とされる戦車道で廃校を阻止しようとする。まずこのあたり、つまり、女性とはおしとやかであれ、的な言説に対して、「女らしい戦車道」という設定。これはロックだ。

つまり彼女らは、「女らしさ」なるものに対して仮想的な「女らしさ」で対抗し、なおかつそれを通して「文科省(国家)」にも対立している。しかもそれだけでなく、彼女らが戦う学校はいずれも擬似的な国家であり、アメリカ的な学校、イギリス的な学校、ロシア的な学校、日本的な学校などが登場する、模擬戦争となっている。

この自分たちの学校を廃校に追い込もうとする文科省(国家)に対抗しつつ、そのために擬似的に国家のステレオタイプを背負った学校を「女らしい」戦車道で戦う、という構造自体、今までの国家表象に一石を投じたと思う。

というところまで書いて、備忘録は終了。また思い出したらまとめよう。