ボカロについての書きなぐり part.2
前回の内容は、つまりボーカロイドは作曲者であるPたちによってそのキャラクターが肉付けされていくはずが、かえってそれぞれのPがボーカロイドを所有することで、その人気が落ち着いていってしまった、ということ。
その中で、人々は「ストーリー」を求めるので、それぞれのPに所有されたストーリーよりも、歌い手という、まさに人生という「ストーリー」を堪能するようになっていってしまったという話。
そこで歌い手について考えてみると、その隆盛は、かなりの部分がツイキャスのブームと重なっているんじゃなかろうか。
つまり人々は、その人が次にどんな歌を歌うんだろうか、だとか、ツイキャスで何を言うんだろうか、というような「ストーリー」を人々が求めているのだ。
ではその歌い手はというと、ブームの終焉は概ね小林幸子の登場と見てよいだろう。
歌い手の「ストーリー」を負う、いわばアイドルを応援するようなベクトルは、いつのまにか小林幸子という権威が、サブカルチャーであったはずのボーカロイドに触れた、というふうに単純に消費されてしまった。
その後ツイキャスがどうなったか。そのころにvineも流行の兆しを見せ始めるのだが、前者が「どれだけ長く放送できるか」というところに力点があったのに対して、vineの方は「短いなかにどれだけ面白さを詰め込めるか」というところに力点が置かれた。
もちろんvineにも綺麗どころはいて、イケメンや美少女と騒がれたりするのだが、そうした層はその後snowに移り、TikTokにたどり着いたと言っていいだろう。
ツイキャスの場合、ツイキャスは1枠30分で、リスナーからの課金によってそれを延長できる。だから2時間や3時間放送するのは当たり前。
それが没落したのは大きく2つの理由があるだろうと思う。
まず1点目は、人々が「短くてわかりやすい」ものを求め始めたという点。結局TikTokが流行るというのはそういうことだ。
2点目は、次の配信者の育成、いわば世代交代に失敗した点。
この点については、ボーカロイドにも言える。
ボーカロイドの楽曲を制作する側の世代交代は進んだものの、聞く側の世代交代は滞ってしまった。だから落ち込んでいった。
結局、生身の人の挙動に注目するという形で「ストーリー」を切望する人々だが、それがボーカロイドには無かった。その「ストーリー」というのは、いわば親近感と置き換えても良い。
かつて歌が上手ければ歌い手になり、顔が良ければツイキャスを配信し、面白さに自信があればvineを投稿するという流れは、親近感という点でvine以外が衰退する結果を招いた。
さしあたり思いついたのはこれぐらいなので、以上。