「ゾンビランドサガ」を考察しようと試みる

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 上記の記事をもとに、「ゾンビランドサガ」について考えていきたいと思う。と言いつつ、あのアニメが果たしてどれほどの考察に耐えうるかという強度の問題は全く未知数なので、途中から破綻をきたすかもしれない。

その上で、記事中の次の部分に注目しておきたい。

そもそもゾンビとは「時間の停止」を表すものだと考えられます。ゾンビは死の段階で固定されて「成長」することが出来ません。その一方で、昨今のアイドルグループは「成長」に焦点が置かれます。「成長」を見守る、というのが若いアイドルグループを応援する際の大きな楽しみです。ゾンビ(時間の停止)とアイドル(成長)は本来相反するものなのです。

【感想】アニメ『ゾンビランドサガ 』〜なぜゾンビがアイドルを!?〜 - 掌のライナーノーツ

 なるほどそれは全く考えても見なかった点だった。

というのもそもそもゾンビものをそれほど見ない自分にとって、この発想がなかった。

これまでに見たゾンビものと言えば映画『ウォーム・ボディーズ』だったりするけれど、さすがにあれを見てゾンビに「時間の停止」という意味を見出すのは難しい。

と、考えてみると、確かに「ゾンビランドサガ」中で起きたあらゆる問題は、彼女たちが停止した時間にいる、という距離感のために生まれていることに気が付く。

例えばそれは、彼女たち自身の時間が停止したタイミングの差によるものであったり、時間が停止したあとも時間が進み続ける「まだ生きている」人々との差であったり。

もしかすると私たちがゾンビを見て怖いと思うのは(と言いつつ『ウォーム・ボディーズ』や『セル』からゾンビは怖いと思うのはかなり至難の業なのだけれど)、そうした時間的な差が問題なのかもしれない。

 

     ◆

 

そういう点から翻って、バンパイアについて考えてみたい。

ここで引き合いに出したのはステファニー・メイヤーの『トワイライト』に始まる一連のシリーズである。

一年のかなりを曇りか雨で過ごす街・フォークスに引っ越してきた女子高生ベラと、その高校で不思議な魅力を湛えているエドワードの恋愛を描いた物語だが、このエドワードが要するにバンパイアである。

彼はスペイン風邪大流行の際にバンパイアになっているから、すでに数世紀の時間的隔絶があるということになる。

それも考えてみれば、もしかするとあの高校でエドワードを始めとしたバンパイアたちが一種畏敬の念を向けられていたのも、その圧倒的時間差、あるいは時間を超越した存在としての崇高さなのかもしれない。

その一方で、「ゾンビランドサガ」のゾンビ、もといゾンビィたちを「崇高」という形容詞をもって表現するのはいかにも乱雑のように思われる。だから、もう少し考えてみたい。

 

     ◆

 

星川リリィが「永遠の小学生」を自称するように、そしてそれはすでに決定的な事実になってしまってるわけだが、彼らは決して年を取らない。

彼女たちは畢竟、「死」なるものを克服しているわけだが(そしてそれは最終話に生かされているわけだが)、「時間」なるものを克服しているわけではない。

なぜならそれは、彼女たちが「芸能界」に片足を突っ込んでいるからで、「アイドル」だからにほかならない。

紺野純子が活躍したときとはすでにアイドルのあり方が大きく変わっており、水野愛が所属していたグループは水野愛の死を糧にメンバーが代わっても人気を維持している。

そういう早い時の流れの中で、例えば田舎町フォークスの高校で超然とするバンパイアのような「崇高さ」がないのは当然で、彼女たちは成長するが、それは実は時間の流れに必死に食らいつくためなのではないか。

巽が地方アイドルは全盛を既に終えている、しかしだからこそ当たればインパクトがある、というように説明するとき、彼女たちは少し古い時代から、全く新しい時代を切り開く宿命を背負わされているのであって、それが若い彼女たち自身の「成長」へとつながっていく。

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