ドラマ「僕らは奇跡でできている」

タイトルが何を意味するのか。つまり、「奇跡でできている」とはどういうことなのか。あまり分からない気はするのだけれど、それでもこのドラマの意義があるとすれば、それは発達障害を描いたこと、ということになるでしょう。

作中において、相河一輝が発達障害である、と明示はされないけれど、まずそう考えて間違いないだろう。それは端的には宮本虹一(虹一くん)との邂逅によく現れている。あれは発達障害同志がお互いを肯定する、という話だったと思う。

近頃発達障害がほのかな話題である、というのは知ってる方も多いと思いますが、NHKが「発達障害って何だろう」というキャンペーンをしたりもしていて、あるいはTwitterでも定期的に発達障害への無理解の実例がツイートされて、軽く炎上しているところ。

もちろん発達障害への無理解は駆逐されるべきだし、彼らが住みにくいと感じているのであれば、それはいけない現状だ。

ただし、私たちは発達障害にあまりに多くを期待しすぎているのではないか。

多和田 昔、北米のあるフェスティバルに呼ばれたとき、私のセクションが「Literature of color」となっていて、色の文学って何のことだろうと不思議に思った経験があります。

キャンベル 何色でしょう(笑)

多和田 赤色かな?(笑)。そうしたらなんと白人以外の文学を指すんですって。「私の書いているのは、有色文学?」。これはショックでした。「でもこれはいい意味なんです」と主催側は一生懸命言うんですよ。つまり白人の文学はつまらないから、こういう括りで面白い人を招待しているんだと。もうずいぶん前のことですけれど。

多和田葉子・ロバートキャンベル「「半他人」たちの都市と文学」新潮社『新潮』第115巻第4号(2018年)、p.87)

 

 これは多和田葉子ロバート・キャンベルの対談だが、「白人の文学はつまらないから」有色人種の文学に活路を見ている白人の様子が分かる。つまり彼らは、一向に有色人種の文学を白人のものと同じ地平で評価するつもりがないのだ。

同じことはフェミニズムでも起きてはいないか。

少なくともこの国でフェミニズムは、「男性ばかりの中に女性の視点を」とか「女性の細やかな配慮で」みたいな風に受容されてきた。「男性ばかりではつまらないから」女性の存在に活路を見出しているのであって、それは男性と女性が本当に同じ地平で活躍することを意味しない。

発達障害に戻ると、発達障害もそうなのではないだろうか。つまり、「健常者ばかりではつまらないから」障害者の存在に活路を見出す。

 

    ◆

 

似たドラマに「僕の歩く道」や「ATARU」があったと思う。前者は自閉症、後者はサヴァン症候群で、前者は比較的しっかりと丹念に自閉症が描かれていたのに対して、後者は一種サヴァン症候群が神聖視されている節があった。

あの時期TBS全体が、自閉症書道家や、サヴァン症候群の特殊能力、みたいな風に障害を補って余りある(と彼らの考える)健常者の持ちえない(と彼らの考える)能力を紹介していた時期があった。もちろんそれは醜悪極まりないのだが、一方日本テレビがもうだいぶ長く「24時間テレビ」というより醜悪な番組をやっていることを考えれば、咎める気にならない。

「障害を補って余りある特殊能力」という点は今回は、「周囲の人を感化する」というところにあった。

実際その能力の根源は、むしろ相河一輝の文法にあったと言っていい。

「楽しみです」といった「○○です」的な発言に代表されるように相河は細かなモダリティを付け加えるような表現をほとんど用いない。その断定調が、相河の「空気を読まない」みたいな性質と抱き合わせて効果している。

「空気を読む」ということが一転して批判され、「空気を読まなくてもいいじゃないか」という風になってしばらく経つが、その系譜のこの作品は位置づけられる。

「マイペースな相河が周囲の人を感化する」というのは、「発達障害の新たな可能性」を見出すものであって、単純に認められるものではない。

 

    ◆

 

と言ったところで、さて、そんなところでこのドラマの悪口を言っても仕方がない。

良かった点を言うと、まず、高橋一生の演技は概ね上手かった。というのも「ATARU」ぐらいとびぬけたキャラであれば、演技が上手かどうかという話ではなくなるのだが、今回はかなり微妙で難しかったろうと思う。

一方で何より、周囲の人々の好演が光ったところでもある。この作品のコメディ的属性を一手に引き受けたのは、熊野久志を演じる阿南健治と、山田妙子を演じる戸田恵子が分担して担っていた。前者が大学、後者が家庭といった具合に分担がされていたとも言って良い。

結末があれだけコメディチックだったことを思えば、この二人が担ってきたコメディ属性のようなものの重要性を感じずにはいられない。

熊野久志とは大学の事務長だが、大学という舞台のチョイスが秀逸だった点は特記されるべきだろう。

もちろん発達障害を描くとき、発達障害の人が社会になじめない、というのを描く事には十分意味があるし、そういうドラマが出てきてもいいと思うが、今回はむしろ「周りを感化する」ということを書くのに大学を選んだ。「大学は自由だ」というイメージをフルに活用していると言える。それだけでなく熊野事務長のキャラクターが、今の大学の置かれた複雑な状況を端的に表しているだろうと思う。

熊野事務長のキャラクターは、コメディ調にしなければ、かなり嫌味な人物になっていたはずなのだが、それを軽やかに演じたのは「功績」と言える名演だったと思う。

 

    ◆

 

ということで、実はこのクールはドラマをあまり見られていなかったのだけれど、本作は佳作といった具合だろうと思う。冒頭に書いた通り、この風潮が続くことに危機感を覚えないではないが、個人的に日本のドラマの可能性を会話劇に見ていることもあって、その点でこのドラマはかなり優れていた。

また違ったかたちで(そしてそれは弱者に可能性を見出す形でなく)会話劇を生かしたドラマを期待したい。