アニメ「アンゴルモア 元寇合戦記」

一応アニメの最終話を迎えたので、書いておこうと思います。原作がどのような展開で、それがどういう風な評価を得ているのか、分かりません。それを踏まえて、ご覧いただければと思います。

アニメ単体で言えば、それほど評価できないだろう、と思います。

どうして評価できない、となるかと言うと、やはりいくら何でも人が死にすぎる。

勿論、元寇は日本が苦戦を強いられた戦いであって、その結末も、「日本が勝利した」というよりも「凌いだ」という方が正しいのでしょうし、土地を得られたわけではないものの多くの人命が失われたことを考えれば「凌いだ」のかすら怪しいところです。

一方、戦争の凄惨さを描くとして、「戦争の悲惨さ」だけを描くのでは意味がない。

反復される死と「一所懸命」の言葉は、言わば「武士道とは死ぬことと見つけたり」的なニュアンスを持って感じ取られ、それが秋の落ち葉と重なって描写される。

敵のモンゴル兵(高麗兵を含め)が野蛮に描かれるのは、本当に野蛮なのかもしれないが、日本人は「一所懸命」に土地を守ろうとしているというのと、モンゴル兵が野蛮に人を殺すのが対比されるわけですが、では我々はそこから何を得ればいいのか。

全ての物語には教訓があるべきだ、と数周遅れの啓蒙主義を振りかざすつもりはないが、作品が問いかける命題が無い、というのは見ていて辛いものがある。

「100分 de 名著」という番組でウンベルト・エーコの『薔薇の名前』というのが取り上げられていて、そのテキストに次のような文章がある。

エーコは六二年の『開かれた作品』のなかで、読者を大きく「経験的読者」と「モデル読者」という二つのカテゴリーに分類しています。本文中でも触れることになりますが、経験的読者とは、「この小説はおもしろいな」「悲しいな」など素直に反応しながら物語を読み進める読者のこと。モデル読者とは、この小説に作者はどんな戦略を盛り込んでいるのか、またその戦略にはどんな意図があるのか、といったことにまで思いをめぐらせる読者のことです。簡単に言えば、自分の感情のままに読む読者と、小難しく小説を読んでしまう読者、とも言えるかもしれません。(和田忠彦『ウンベルト・エーコ 薔薇の名前』(NHK出版、2018年9月))

本来はウンベルト・エーコの『開かれた作品』を直接引くべきなのだろうが、今回はご容赦願いたい。ただ、この「経験的読者」と「モデル読者」というのはかなり面白い分類だと思う。そしてかなり実感に沿った分類だと思う。

メタ的に演技やストーリーを評価してしまう「モデル読者」というのはいる。

ここから「アンゴルモア」の方に戻ると、このアニメは「モデル読者」もとい「モデル視聴者」を排除しているのではないか。

 

 

「武士道とは死ぬことと見つけたり」は、ある意味では言い得ているのかもしれないが、我々はそれだけでないことを知っている。

歴史の教科書に恐らく必ず掲載されているであろう『蒙古襲来絵詞』は竹崎季長が描かせたものだ。なぜか、と言えば、そこに自らの戦いぶりを描かせることで、恩賞を要求したものである。

歴史の授業で学んだはずだが、鎌倉幕府滅亡の一因は、この御家人の奉公に対して恩賞が支払えなくなったところにある。

ここから何が分かるかと言えば、別に御家人は「一所懸命」に戦っていたわけではないことだ。

この物語はその、つまり「仕事として戦う」という職業軍人的側面を、舞台を対馬に置くことで避けている。

結果濃厚な「武士道とは死ぬことと見つけたり」が抽出される。

人が死ぬ、武士道を貫く。さて、そこに一体何が見出せるのか。少なくとも自分には分からなかった。