Tik Tokについて考える。

Tik Tokなるものが密かなブームだそうだ。

ネット老害に片足突っ込んでいる私は、それに眉をひそめて「素敵な自己顕示欲だこと」だなんて自分にはないキラキラをひがんでいたのだが、数日前についにアプリをインストールした。

そもそも、どこの誰とも知らない高校生の修学旅行の写真を見て他人の幸せを羨んで、それをルサンチマンに昇華して、それを日々のエネルギーにしている節もあるし、見るだけなら別に忌避するほどのものではない。

見れば見るほど、このアプリは不思議なアプリだ。もちろん、Twitterに出て来る面倒くさい広告もさることながら、その構造もかなり不思議だ。

そもそもTik Tokは、短めの動画を共有することが出来るアプリだ。ただし違うのは、音声の共有や転載が簡単なこと。この「映像と音声の分離」という観点は後できちんと触れたい。

そのうえで動画を次のように分類したい。

  1. 主に美男美女が自己顕示として音楽に合わせてダンスをするなどする動画
  2. 美男美女の友人を一方的に撮影した動画
  3. 部活などの友人同士で楽しんでいる動画
  4. 太っているなどの身体的コンプレックスを自虐的に披露する動画
  5. その他の動画

更にその上で、「動画の傾向」「映像と音声の分離」「アトランダムな閲覧」に的を絞って考えてみたい。

動画の傾向

動画の分類については上記の通り。「その他の動画」というカテゴリを置くあたりにいかにも姑息さを感じないではないだろうが、まれに如何とも分類し難い異端があるのだから許してほしい。

この場合「美男美女」という定義はかなり曖昧だと取ってもらって構わない。本当に美男美女かもしれないし、あるいは自分にその意識があるだけかもしれない。

考えてみれば似た現象はツイキャスが全盛期だったころにもあった。ツイキャスから始まった「配信」の文化は、LINE LiveYouTubeの氾濫と共に「ツイキャスでなければならない」必要性が薄れて行った上、ツイキャスで人気を集めていた所謂「キャス主」はそのTwitterを根城に芸能界にも足をのばしたりした。

同じTwitter界隈の動画と言えば、6秒に限定されたVineがあったが、あれに関してはかなり「美男美女」という意識は薄く、大関れいかさんのような存在を生み出した。

YouTuberについても「イケメンであること」や「かわいいこと」がそれほど必要な条件ではないことに目がつくだろう。一方Tik Tokはそれがかなり重要な意味を持つらしい。

その理由はおそらくかなり単純で、動画の時間が短いからだろう。

せいぜい15秒弱で伝えられる内容には限りがあるし、そこで笑いを獲るのは難しい。数十分の動画さえ相当な数があるYouTubeとは違う。つまりTik Tokに期待されるのは「面白い動画」ではなく、かつ静止画でもない。

この「静止画ではない」という点に関しては、「なぜInstagramでは駄目なのか」というところと通じる。そしておそらくその背景にはSNOWのようなアプリがある。

「盛れる」加工や、或いは顔に熊のイラストを乗っけたりするような加工が容易に用いることのできるSNOWは一時期かなり溢れた。理系の大学生がSNOWの加工を解くソフトを開発し一斉に叩かれた、というようなのは少なくない人にとって記憶に新しいだろう。

そこに対する募り募った「不信感」のようなものがあり、一方美男美女の側としても加工のような「言い訳」をしたくなかった。つまり加工という「言い訳」なしに自分の顔を晒したいが、それを画像でやってしまうと、単なる自己顕示欲に塊になってしまう。だからこそTik Tokという「言い訳」が受容された。

一方従来加工に「不信感」を募らせていた人からすると、その加工が外されることはやぶさかではない。なおかつ「動いている」というのは一定の信頼感を担保するのだろう。

だからこそ動画にはあくまで日常を切り取ったような、或いは断定的な言い方をすれば「昼休み的な」動画が多い。そして「#有名になりたい」と言ったようなハッシュタグが多いことも兼ね合わせると、「昼休みに有名になりたい人々」というTik Tokユーザーの傾向が掴める。

もちろん例外も山ほどいる点は指摘しておかなくてはならないが、この「昼休みに有名になりたい」という、TwitterInstagramYouTubeなどとは「簡単さ」「広さ」という点で異なるというのは間違いないだろうと思う。

映像と音声の分離

Tik Tokの動画で典型的なのは、いくつかの音声が広くシェアされており、それに合わせてダンスをする、というものだ。概ねそのダンスはそれほど難しくはない。「覚えるのに30分かかった」と言っているアカウントも見つけたが、普通のダンスと比べれば圧倒的に簡単だろう。

もう一つかなり多くの動画が投稿されているのは、アフレコ的なもの。例えばサンドウィッチマンのコントの音声に合わせて口を動かすといったようなもの。

いずれにせよそこから分かるのは「映像と音声の分離」。そして「音声によって規定された典型的な振る舞い」があるということ。

これはYouTubeなどとは違う。

自由度がない、振る舞いが規定されている、というと窮屈なように思われないではないが、実際には窮屈ではない。むしろ自由な中で「何かしろ」というYouTubeはクリエイティビティに溢れる人々にとっては広大なフロンティアかもしれないが、そうではない人々にとってはどうしようか困る荒涼な砂漠である。

SNOWの加工を離れ、その音声という「言い訳」を手にした人々は動画を撮影する。そこに「#有名になりたい」とつけるのは自然なことのように思われる。

もう一つ言えるかもしれないのは、音声をシェアすることで動画しか晒さない、という点である種の線引きをしている可能性。

YouTubeに動画も音声も晒すと自分自身の全てを見られているような気がするが、音声を意図的に隠すことで、自分は表面しか晒していないという意識を持つこと出来る。

実際には校章入りの制服で、校舎内で撮影しているわけだから、なまじ休日に撮影するYouTubeの動画よりも個人情報は洩れるはずなのだが。

アトランダムな閲覧

日本では圧倒的にTwitter人気が大きいが、Twitterで「世界と繋がっている」という認識は間違いだ。

Instagramも同様で、こうしたSNSはフォロー=フォロワー関係の中で極めて閉鎖的に利用される。

もちろん我々は世界中の誰かと接続できる「可能性」は持っている。しかしそれはあくまで「可能性」に過ぎず、それを利用している人はほとんどいない。大抵は知り合いとだけ繋がり、リツイートで回ってくるのは更にその知り合い、その程度。Instagramに関してはかなり酷くて、リツイートに近い機能はあるはずだが、それを利用する人はほとんどいないだろうと思う。

つまり我々はタイムラインで極めて閉鎖的なコミュニティとしか交流をしない。この閉鎖性は「#有名になりたい」とは相いれない。

そこでTik Tokが異色なのは、このタイムラインが当初開いた段階では「おすすめ」になっている点。この「おすすめ」はいいねの数が多いものが取り上げられる、という欠点はあるものの、それだけに「#有名になりたい」という願望を一定程度担保しうる。

Tik Tokが「昼休みに有名になりたい」のだとすると、YouTubeは「休日に有名になりたい」といった具合だろうか。どちらもかなり開かれているという点では同じだが、手軽さでことなる。そしてその開放性はアトランダムな閲覧方式によって担保されている。

その点で言えば、Tik Tokは閲覧者にとってもYouTubeとは異なる。

掲示板で使われるROM(Read Only Member)をあえて援用するならば、比較的容易にコメントを投げかけやすいYouTubeニコニコ動画に対して、Tik Tokの特徴はそうしたROM。「沈黙する視聴者」といった具合。

ここにおいて「広さ」とは。

例えばYouTubeニコニコ動画では視聴者がマスとして存在する。そのうちの一人として自己が規定される。YouTubeの膨大な再生回数のうちの一回として、或いはニコニコ動画に流れる数多のコメントのうちの一つとして。

一方Tik Tokではそうではない。スマートフォンを通して見る誰かの「昼休み」は、あくまで個としての自分を存立しやすくなる。

そうした場合、即ち、沈黙することによってマスの規定する視聴態度から逸脱することが許される場合、アンチの大量発生を防ぐことが出来る。取り留めなくアンチが増え続けるのではなく、それに対抗し得るファンの存在を容易にする。

こうした点もTik Tokの特徴ではなかろうか。

まとめに

Tik Tokの特徴は以下の通りに集約される。

第一に、「昼休みに有名になりたい」と言うような「手軽さ」と「広さ」を兼ね備えた機能。

第二に、「映像と音声の分離」によってその「手軽さ」は形作られており、かつそれによって「一線を引いている」という感覚がある可能性。

第三に、「アトランダムな閲覧」によって「広さ」は形作られており、かつそれによって大規模なアンチの発生を防いでいること。

こうした具合にTik Tokは、おそらくはVineというよりもSNOWの互換として「#有名になりたい」人々が生き続ける限りはしぶとく残るのではないかと思う。