映画『君と100回目の恋』

君と100回目の恋

君と100回目の恋

 

芥川賞候補の某作品に盗作疑惑が……当の掲載雑誌の方は「参考文献をつけ忘れただけ」と言っていますし、そうなのかな、と思いますが、何が不幸って、その作品についてこのブログで記事を書いていて……。

現状その記事がこのブログのアクセス数の稼ぎ頭。なんといっても、作者名+作品名で検索するとこのブログの記事が5番目とかに出るんだもの。

一応その一連の様子を見て、記事をどうするか考えたいと思います。文学作品のオリジナリティなるものに一体どの程度の価値があるのか分からないが、だからって無断で何かを参考にするのは、それって剽窃と言われても仕方がない。

と、そんなこんなで不意に1日300アクセスも稼いでしまった私は、普段せいぜい10アクセスあれば良いかどうかなのでもうすっかりやられてしまっている。

そういう時に限って、疲れた時に酸っぱいレモンが欲しくなるのと同じロジックで、恋愛モノを見たくなる。

構造として

ネタバレ覚悟で先んじて言えば、この物語は「ヒロインとどう別れるか」という所に力点があって、別に「ヒロインをどう救うのか」という物語ではない。

このゲーム的リアリズムを取り入れた作品は、やはりここ最近多い。ゲームとの親和性から、アニメなどでの作品が目立つ。

知っている限り一番古いのは『時をかける少女』特にアニメ映画の方で、映画のラストで間宮千昭は「未来で待ってる」と言い、紺野真琴は「うん、すぐ行く、走っていく」と応答する。当然時間の流れは一定で「走っていく」なんてことありえない。

ただ実写でも似たような構造を持つ作品はいくつかあって、中でもお気に入りなのは映画『江ノ島プリズム』。

売り出し中の福士蒼汰が主演だったり、その脇を本田翼と野村周平が固めたり、演技力的には不安でならないが、その不安は確実に的中にする。

ちなみにこの三人はドラマ「恋仲」でも共演するわけだけれど、こちらが先になる。

江ノ島プリズム』では、福士蒼汰演じる修太は、病弱で亡くなってしまった朔を救うために、時間を戻って奔走する。

と言うのもこの朔が亡くなったのはミチルが留学に行くのを知って、ミチルに走って会いに行ってしまったから。

この場合はたしかに「朔を救う」という形で物語が収束する。ただしタイムトラベルのルールとして、修太と朔・ミチルはお互いの記憶を失ってしまう。

こちらはかなりタイムトラベルを合理的に設定しようという「意志」を感じられる。

反対に本作は、と言うとどうだろうか。

陸は葵海が亡くなることを知っていて、それを防ぐために何度でもやり直す。

死を防ぐ、というのは『江ノ島プリズム』はもちろん、「シュタインズ・ゲート」「魔法少女まどか☆マギカ」が典型的にそれをやっていたと思う。『江ノ島プリズム』を除いて、何らかの「諦め」で物語が締めくくられる。

ただスケールが違うのは、本作はここ数日を繰り返すようなのとは違う。

おそらく陸が文系だったのに突如大学では理系になって相対性理論やら時間のことを勉強している、というのはそれに関してのことのはずで、つまり年単位で彼は戻って未来を防ごうとしている。

一度だけ葵海と一緒に時間を戻れた時に二人でイチャイチャするわけだけれど、かなりその辺りが甘ったるい。なんだこれプロモーション映像か? みたいな感じがある。

何度頑張ったって救えない、けれど救おうとし続ける。キャッチコピーは「君を守る。何度、時を巻き戻しても―。」「あなたを好きになる。たとえ、どんな運命でも―。」

さて、この物語の「時間」観は冒頭の大学の講義でミヒャエル・エンデの『モモ』を取り上げる形である程度説明されている。この場面がいかに重要であるかは、繰り返される時間がいつもこの場面から始まる、というところからも分かる通り。

とは言いつつ『モモ』は一切読む気がしない、というのも自分の中での児童文学は『ハリー・ポッター』と『ダレン・シャン』で完結してしまっていて。そのことを今回痛烈に後悔している。

この作品は「時間が盗まれる」というところから少女モモがそれを取り戻そうとするわけですが、簡単に言えば本作ではそれは葵海が陸に「そんなの生きてるって言える?」と訊ねたところに集約される。

すなわち、陸の時間は葵海を救うために途方もないスパンで繰り返されてきて、陸の時間は(葵海によって)捕らえられ、盗まれてしまっている。

だからこそ最後に葵海は自らの身を挺して、もう二度と時間を戻れないようにし、死を甘んじて受け入れる。それによって盗まれた陸の時間は解放される。

この葵海による陸の解放というのは、最後のチョコレートのレコード盤を「食べちゃっていいからね」と言うところにまとまっている。というあたりはかなり綺麗な展開。

さて一方でイヴ・K・セジウィックの『男同士の絆』を絶賛読書中の私は、ここに置かれる葵海というキャラクターの存在が気にかかる。

そもそもそこそこ昔から恋愛モノというのは「男性による女性の選択」でしかなく、女性は主体性を剥奪された対象、あるいはもっと有体に言って「商品」でしかなかった。

このことは「男同士の絆」、すなわち、三角関係が形成される際、女性はそこから疎外され、男性同士のホモソーシャルな関係が注目されるという点によく現れている。

ただこのことがかなり根深いのは、多くの少女漫画でヒロインは「彼が私を選択してくれる」ことを望む。反対に多くのハーレムを形成するラノベでは主人公の男の子が多くの選択肢の中から自分好みの女の子を「選択する」という構造になっている(あるいは「選択しない」ということによって「選択されたい」女性に対する優位性を保っている)。

と、考えた時、陸はパターナリストに見える。すなわち、「葵海を救ってやる」という上位者的なふるまいをする。「時間をさかのぼれる」故に上位者的である。

という観点から考えれば、葵海も時間にさかのぼることによって二人は初めて対等な関係として恋愛する。この辺りは海辺の告白のシーンによく現れている。

畢竟時間を戻れなくなった陸が葵海を救うことを諦める、というのは、陸がパターナリズムから解放されることを意味するようである。

登場人物について

と、こういう具合に、いっつも物語の構造を分析するのが好きで、つまりAだからBになったように見えるけれども、もしかしたらCだからBになったのかもしれない、と言いたい。

ただそうなると登場人物だとか、繊細なところから目を離しがち、みたいなことがあって、少し頑張ってみたい。

葵海と陸は幼なじみなわけだが、意図的に陸が呼び寄せた直哉と鉄太とバンドを組む。バンドと言えば『カノジョは嘘を愛しすぎてる』なんかが思いつくところだけれど、というか今回はただ単純にmiwaに演技をやらせたかっただけなんじゃなかろうか。

シンガーソングライターが主人公、というよりバンドにしてしまった方が話が早いし、今回の製作にはトライストーンが噛んでいるわけで、miwaも坂口健太郎もトライストーン所属。ここらあたりで組んで歌でも歌わせたい、というのは分からない話ではない。

葵海も陸もお互いのことが好きで、多分そんなことは分かり切っているのだが、当初はなかなかくっつかない。

とは言いつつ、陸の方はもう何回も同じことをやり直しているわけで、きっとその中にはもっとラブラブに過ごす、というのもやってみているだろうから、その辺に興ざめしないではない。

葵海は告白してくれた直哉に対して「直哉でもいいから付き合う」というようなことを口走ると、その直哉を思っていた里奈が怒り出す。当然と言えば当然ですね。

これはやっぱりこの映画の女子陣が、特に里奈が強くて、「選択」による恋愛関係をかなり潔癖に排除している。里奈の怒りっぷりと言ったらなかった。

総じて言えば、普通の女子大生の中にダントツのイケメンがいて(個人的には竜星涼だってかなりのイケメンだと思うわけだが)、そのイケメンは好きな「普通の女子大生」を何度も助けようとするが助けられず、「普通の女子大生」はイケメンをその過酷な運命から救う、という具合だろうか。

個人的には中でも里奈の立ち位置がかなり重要だと思う。あるいは同じ物語をかつて演じていたらしい(このあたりも『時をかける少女』的だが)長谷川俊太郎(陸の父)が物語のアウトラインを示す役割を果たしている。

時間

さて、物語に総合的な評価を下すとしたら、可もなく不可もなく、といった具合だろう。

映画『時をかける少女』で真琴は「走っていく」と言った。しかし当然、走ったところで時間の進行は変わらない。

例えばドラマ「アシガール」はどうだろうか。時を戻った少女は若君の元へ「走っていく」。これは本当に「走る」のである。

アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」はどうだろうか。最悪の可能性を避けるために時間を繰り返した結果は、最善と最悪を超越した「神秘的」な結末を迎えた。

アニメ「シュタインズ・ゲート」ではまゆりと紅莉栖の両方を救おうとしつつ、最後にはそれを断念した。

映画『江ノ島プリズム』ではそれを成し遂げたものの「記憶」という代償を払った。

こうしたところから分かるのは、時を繰り返し最良を選択するというゲーム的リアリズムは、最後にハッピーエンドともバッドエンドとも見極められない終わりを迎えることが多いということである。

本作もその脇に漏れない。葵海が死んだことは辛かろうが、陸は救われた。陸の失われた時間は取り戻されたという点で、『モモ』的である。

典型的な恋愛モノであるように振る舞いながら、実際には「解放」の物語である。というぐらいにほめておけばいいだろうか。