朝井リョウ『星やどりの声』

星やどりの声 (角川文庫)

星やどりの声 (角川文庫)

 

朝井リョウはポリフォニックな作家である。

と言えば、ミハイル・バフチンの著作や「ポリフィニー」の概念を知る人からすると、まさかドストエフスキー朝井リョウを同列に扱うつもりか、と怒られるかもしれない。

全くそのつもりがないことは最初に述べておかなくてはならない。この場合の「ポリフォニック」とはバフチンによって理論化されたものではなく、もっと素朴な意味で用いたい。

この小説は涙を誘う。そうした悲劇が喜劇よりも著しく優先されるべきだとは思わないが(坂口安吾の「FARCEに就て」を参照されたい)、「お涙頂戴」と言われた時に「はいどうぞ」と涙をくれてやるのが悪いことだとは思わない。

これは現代小説に広く言える特徴かもしれないが、作品には小説家の姿が感じられる。

特にその筆頭は個人的にはあさのあつこである。あさのあつこと言っても『ランナー』と『スパイクス』くらいしか読んだことが無いのだが、それでも「なんでこんなに登場人物をいじめるの!」と行先の無い義憤にかられたりする。

これはエンタメ小説の仕方ないところで、例えば韓国ドラマでは作為的に財閥関係者がいじめぬかれるわけだが、それでも「ピノキオ」は名作なんだからそれでいい。

というわけで、一応この作品への弁護を済ませたところで。

 

世の中には「他者」というのがいて、では「他者」とはどのような存在かということはあらゆる哲学者が向き合っている。おそらく「自分」と向き合うと必然的に「自分」ではない「他者」に向き合う必要のあるところから端を発するのだろうが、ここではあえて、そうした先学の思想を全く参照しないかたちで大風呂敷を広げてみたい。

「他者」には二種類いる。①(存在は)知っているが(詳しくは)知らない「他者」と、②(存在も)知らないし(詳しくも)知らない「他者」である。

例えば私たちがユニセフのいかにもなCMを見るとき、こうしている間にもアフリカには学校に行けずに遠くに水を汲みに行っている少年少女がたくさんいるのであろうことを頭のどこかで把握しているが、別にそのことを普段思い返したりしないし、そもそもユニセフにいくら「啓蒙」されたところで、その存在はなかなか実体としてつかめない。

こういう場合、この他者は認知もされないわけで、②にあたるのだが、これを小説の題材にとるのはかなり難しい。つまり叙述に彼らが立ち現れた瞬間にそれは①に移行してしまうから、②を描くには、描かないという形で存在をほのめかす、しかし存在を確信させてはいけないという揺らぎやすさの問題が起こる。

というわけで小説に描かれるのは①。簡単に言えば「なんかわかんないけど嫌い」みたいな他者を、色々な交流を深めていくうちに大好きになる、というようなストーリーは、珍しいものではない。

朝井リョウの作品では、この存在は知っている、というだけの他者を、それぞれの目線から描きだしているという点で、ポリフォニックであると言える。

本作は6人兄弟それぞれの視点から綴られた短編による短編集である。この6人兄弟が、ただの6人兄弟と違うのは、彼らが父親を失っていることである。

しかし「お父さんがいない喪失感」「心にぽっかりと空いた穴」みたいなことは言っていない。

住友生命に父親がいない、というCMがあったが、「いない父親」が本作においても日常に溶け込んでいる。「いない父親」という存在である。

その存在は時々現れるが、必ずしもそれに依拠しなくてはならないということではない。彼らはそれぞれに日常を順調に、あるいは行き詰りながらも生きている。

こうしたそれぞれの見方で描かれる物語は、「お互いが何を知らないのか」ということを読者に明らかにする。

反対に、徹底して一人称で語ることで「信頼できない語り手」的に叙述トリックを施す場合もあるが、その場合、あくまでその語り手の他者観が読者にも委ねられることになる。読者には「透明な批評」の可能性はあるものの、しかしそれはかなり読解からは離れた、読者による作品の再構成という感じがある。

例えば長男・光彦の章。光彦は就活が夏になっても終わっていない。それでいてサークルの飲み会に適当に参加したり、それで家庭教師のバイトに遅れたりするおちゃらけた一面も見える。

しかし光彦の一人称のト書きを読んだ我々は、必ずしもそれだけではないことが分かる。ここで我々は、「知っているが知らない他者」として存立する光彦の内面を知ることになる。

この経験が章ごとに、つまり6回繰り返される。

しかし重要なのは、そればかりではないこと。

「何を考えているのか」というのが一人称の文章の中で明らかになる経験だけでなく、「何を考えているのか」が分からない、という経験も同居している。

それが「長男 光彦」におけるあおいであり、「三男 真歩」におけるハヤシであり、「二女 小春」「二男 凌馬」におけるお母さんであり、「三女 るり」における松浦ユリカであり、「長女 琴美」における父である。

私たちは一人称を通してそれぞれの内面を覗き見、その他者性が崩壊する経験と共に、厳然とした「わからない」他者が存立し続ける。そしてそれは、全ての短編が投影図的に照応し合うことによって立体感をもって浮かび上がり、やっと少し「わかったかもしれない」という状況になる。

そして更に朝井リョウが得意とするのは、それが何でもない日常の一部分で起こることだ。

桐島、部活やめるってよ』『少女は卒業しない』に特徴的なように、確かに普遍的な日常とは違うかもしれない。しかし「ほんの少しだけ」異化された日常は、おそらくこれからも続く。

それは時として安心感を伴った希望に感じられ、或いは憂鬱な絶望に感じられる。

『何者』のクライマックスは、読者の胸にも迫るものがあったが、だからと言ってきっとこの物語は終わらないし、続いていく。その生々しさに、恐怖心を覚える。

本作ではどうだろうか。

単純明快に言えば、本作は6人兄弟の父が建て、母が経営する「星やどり」という淳喫茶を閉店させることを決意する物語である。これを「卒業」としてもいい。

本作の以後、「星やどり」がなくなった6人兄弟はどうなるか。きっと今までと変わらないのだ。きっと今までと変わらずに、それぞれの毎日を、それぞれに過ごす。

例えば小春が化粧をやめました、みたいな話はあるのかもしれない。そういう小さな変化はきっとあるのだろうが、それでも日常は続いていく。

これは希望か? そうではない。日常が続いていくことに幸せを感じられるほどできた人間ではない。そでは強いて言えば安心感。だからこそこの物語は「終わらない」という広大さを孕んでいるように感じられるのである。