202号法廷について

某所の202号法廷である。

裁判の傍聴は初めてで、入った法廷のいかにも「厳粛」という空間に圧倒され、或いはこれから起こる出来事にワクワクしていた。

それについて今回書きたいのは、傍聴録でも裁判記録でもない。それにはほとんど意味がないだろうと思うし、そのためのメモも取っていないからである。

では何を書きたいのか。それは「法廷」という空間と、そこに与えられた「おおとりてえ」とでも呼ぶべきのような、それ以外では「オカミ」としか形容できないような、正体の掴みかねない権威についてである。

権威の根源

坂口安吾にこのような評論がある。

 僕達は五六名の舞妓を伴って東山ダンスホールへ行った。深夜の十二時に近い時刻であった。舞妓の一人が、そこのダンサーに好きなのがいるのだそうで、その人と踊りたいと言いだしたからだ。ダンスホールは東山の中腹にあって、人里を離れ、東京の踊り場よりは遥に綺麗だ。満員の盛況だったが、このとき僕が驚いたのは、座敷でベチャクチャ喋っていたり踊っていたりしたのでは一向に見栄えのしなかった舞妓達が、ダンスホールの群集にまじると、群を圧し、堂々と光彩を放って目立つのである。つまり、舞妓の独特のキモノ、だらりの帯が、洋服の男を圧し、夜会服の踊り子を圧し、西洋人もてんで見栄えがしなくなる。成程、伝統あるものには独自の威力があるものだ、と、いささか感服したのであった。
 同じことは、相撲を見るたびに、いつも感じた。呼出につづいて行司の名乗り、それから力士が一礼しあって、四股をふみ、水をつけ、塩を悠々とまきちらして、仕切りにかかる。仕切り直して、やや暫く睨み合い、悠々と塩をつかんでくるのである。土俵の上の力士達は国技館を圧倒している。数万の見物人も、国技館の大建築も、土俵の上の力士達に比べれば、余りに小さく貧弱である。
 これを野球に比べてみると、二つの相違がハッキリする。なんというグランドの広さであろうか。九人の選手がグランドの広さに圧倒され、追いまくられ、数万の観衆に比べて気の毒なほど無力に見える。グランドの広さに比べると、選手を草苅人夫に見立ててもいいぐらい貧弱に見え、プレーをしているのではなく、息せききって追いまくられた感じである。いつかベーブ・ルースの一行を見た時には、流石に違った感じであった。板についたスタンド・プレーは場を圧し、グランドの広さが目立たないのである。グランドを圧倒しきれなくとも、グランドと対等ではあった。
 別に身体のせいではない。力士といえども大男ばかりではないのだ。又、必ずしも、技術のせいでもないだろう。いわば、伝統の貫禄だ。それあるがために、土俵を圧し、国技館の大建築を圧し、数万の観衆を圧している。然しながら、伝統の貫禄だけでは、永遠の生命を維持することはできないのだ。舞妓のキモノがダンスホールを圧倒し、力士の儀礼国技館を圧倒しても、伝統の貫禄だけで、舞妓や力士が永遠の生命を維持するわけにはゆかない。貫禄を維持するだけの実質がなければ、やがては亡びる外に仕方がない。問題は、伝統や貫禄ではなく、実質だ。*1

 大変長い引用になってしまったが、ここで書いてあるのは、舞妓には威力があり、力士には貫禄がある。一方日本の野球選手はいかにも貧弱で、どうやら「伝統の貫禄」というのがありそうだがそれだけでは駄目で、背後に「実質」が必要であるということであろう。

では「法廷」に漂う「厳粛」とはどのような「実質」に伴ったものだろうか。

人と建物では違うかもしれない。しかし建物の方がより不思議ではないか。

例えば映画館に行けば人は自然に小声で話すようになる。霊場では心なしかみんな俯き気味になる。そういうことと「法廷」の「厳粛」は関係しているのではないだろうか。

鷲田清一青木淳が物質的で具体的な(目的と直結した)空間の実例として工場を挙げたことを引きつつ、このように言う。

 このような空間に「自由」を感じるのは、そこではその空間の「使用規則」やそこでの「行動基準」がキャンセルされているからだ。「使用規則」をキャンセルされた物質の塊が別の行為への手がかりとして再生するからだ。原っぱもおなじだ。そこは雑草の生えたでこぼこのある更地であり、来るべき自由な行為のために整地され、キューブとしてデザインされた空間なのではない。そこにはいろんな手がかりがある。

 木造家屋を再利用したグループホームは、逆に空間の「使用規則」やそこでの「行動基準」がキャンセルされていない。*2

ここではグループホームのあり方が問題にされているのだが、では「法廷」はどうなのだろうか。

「法廷」には厳密な「使用規則」や「行動基準」が規定されている。「刑事裁判を行う」と決めれば、その法廷はずっとそのために用いられ、そこでは極めて儀式的に取り決められた順番に従って裁判が行われる。そこにおけるイレギュラーは、「法廷」の「段取り」の中にくみ取られていく。

「法廷」には「使用規則」や「行動基準」がある。そのことは「自由」がないことをたちまち意味する。「自由」がないことは、「厳粛」へと繋がる?

前述の映画館や霊場において、かなり行動の「自由」が制限されることには異論はあるまい。しかしそれがたちまちあの「厳粛」へと繋がるだろうか。

と、ここで振り返りたいのは、坂口安吾の文章である。「権威」の土台は、最終的には「実質」なのであった。

さて、その「実質」とは即ち何であるか。

それは例えば「同意」ではないか。

映画館の例に戻れば、「映画館は映画を見るところである」という「同意」は、「大声で話してはならない」という「使用基準」に「同意」を求め、「大声で話さない」という「行動基準」へと接続するのではあるまいか。

つまりこの「同意」が「法廷」にはある。

「おおとりてえ」としての裁判官に対する「同意」、或いはそこに行われる手続きに対する全面的な「同意」である。そして、その「同意」が──例えその建物が「厳粛」にたるような古さが無かったとしても──「厳粛」へと繋がるのではないだろうか。

その妥当性について

我々は司法手続きに「同意」している。悪者は法によって捕らえられ、妥当な判決を与えられるものと信じている。それはほとんど盲目的な「同意」であると言っていい。

しかし世の中には、無根拠に信頼を寄せざるを得ないシステムがあるのもまた事実である。

例えば政治系の陰謀論者界隈ではしばらく前から有名な陰謀論に「ムサシによる投票操作」というのがある。これは投票された投票用紙の文字を自動で識別して分類してくれる機械なのだが、その機械の分類が恣意的に操作されている、という疑惑である。

このムサシという機械を作っている会社と政界との献金がらみの関係ゆえなのだが、かといってこれは「疑惑」と呼ぶに値しない、いわば陰謀論である。

しかし投票の開票作業を知らない我々は、もしかするとムサシが不正な票数操作を行っているのかもしれないという状況にいる。だからと言って、全ての開票所に行って、ムサシが適切に運用されているか調べようとはしない。

私達は無根拠に、ムサシは適正に票数をカウントしてくれているはずだ、と「同意」を与える。

そしてそのことに適当に批判を加えてはいけない。もし、いざ本当に票数操作が行われていた時に持つべき言葉が先駆けて奪われることになりかねないからである。

と言った具合に、例えば「法廷」に批判を加えるのには十分な注意が必要なはずである。そして今回加えようとしている「批判」とは必ずしもネガティブなものではない。無根拠な信任、その「同意」に対してメタ的にその過程を見直すことの意義を示すためのものである。

裁判では「情状」が争われる。

一人目の被疑者はタクシーの無賃乗車によって詐欺罪で逮捕された80代の男性であった。前科36犯で、過去にも同種の犯罪を犯したことがあるらしく、「情状酌量の余地はない」と言えるかもしれない。実際法廷での態度も反省を口では言うものの、ある種開き直ったような風も見られた。

この男性の言い分は午前3時ごろ、酒を飲んでいると急に母の故郷が懐かしくなり、そこに行こうとタクシーを呼び止めた。タクシーのお金を払う当てはないものの、行先にいるかもしれないいとこらが立て替えてくれる可能性を信じていたという。

この飲酒というのも、この男性の中では「生活保護で生きているような不甲斐ない自分の人生は酒でも飲んでいないとやっていられない」というロジックの上にあったらしい。そして、そういう時にふと懐かしい土地を思い出すのは分からない話ではない。

という情状酌量の余地の可能性はあるものの、そのふてぶてしい態度、或いは前科を見ると、おそらく実刑は免れまい。

一方二人目の被疑者は30代後半の男性。大麻の初犯であり、情状酌量を期待して母親が出て来たらしく、弁護人の母親への証人尋問の最中には思わず涙を流してしまわないかと思った。

しかしその所持量が多かったり、転売の疑惑があったりはしたはずである。「当分は家族と同居するつもりらしい」「本人が再犯の意思が無いと言っている」という情状で、彼には執行猶予がつけられた。

もちろん、そうした麻薬などの初犯で執行猶予がつくのは当たり前のことなのだろうが、しかしそこの「情状」という不安定なものが同居する。

ここから思うのは2つである。

まず、「情状」という不安定なものの妥当性。例えばアニメ「PSYCHO-PASS サイコパス」では司法システムはとうの昔に撤廃され、残されているのは事前に犯罪を起こす可能性を検知し処罰する「シビュラシステム」という人工知能である。

人々は「シビュラシステム」にも無根拠な信頼を置いているが、少なくとも「シビュラシステム」には情状酌量が存在しない。犯罪が起きる前、事前に刑が執行されるという倒錯自体には問題があるかもしれないが、「情状酌量を認めない」「適正な刑を瞬時に与える」という「シビュラシステム」と、不安定な情状酌量を担保し続ける現在の司法システムを、どのように比較できるのか。

次に、汲むべきなのは「情状」だけなのではないのではないかという点。

例えば一人目の被疑者は高齢者である。普通に就職していても定年していておかしくない年で、実際彼も生活保護でやっと生活している。そしてそうした貧困高齢者が犯罪を繰り返す例は、刑務所の服役者の高齢化などという形で社会問題化しているはずである。

二人目の被疑者は現役世代であったが、彼は大麻を所持していた際無職であった。彼は大卒だが就職した建築業では安定せず、退職してしまったらしい。思えば今40歳前後というのは、所謂「就職氷河期」に大学卒業が被った世代ではなかったか。

そしてこの世代は「キモくて金のないおっさん問題」などとして、やはり社会問題化している。そしてこの世代は、例えば新卒の就職率が向上している現在でも以前就職率が低い。

何を言いたいか。つまりこうした人々に対して与えられるのは「情状酌量」ではなく、「社会的政治的措置」なのではないかという点だ。

そして何よりの問題は、それを見て見ぬ振りしながら、以前「無根拠な信頼」を置き続ける我々の盲目さと愚かさではないか。

202号法廷において考えたのは「厳粛」に埋没する「愚人」の姿であった。

*1:坂口安吾「日本文化私観」

*2:鷲田清一「身ぶりの消失」