アニメ「プラネテス」

プラネテス Blu-ray Box 5.1ch Surround Edition

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プラネテス」の原作は漫画だ。でも漫画は読んだことはない。だからここで書くのはあくまでアニメ「プラネテス」の話。

もしこのアニメに何かしらの興味を抱いている、かもしれないのなら、まずはAmazon Primeでいいから見てほしい。少なくともこれより以下は、全ての結末までを含めて、涙で揺れる視界の中で頑張って感想を書きたい。

宇宙を舞台に扱った作品にはいくつかある。例えば「ガンダム」はある種の金字塔を打ち立てたと言っていい。これより前にも当然宇宙を扱った作品は山ほどあるのだろうが、しかし「ガンダム」はもう〈宇宙大河〉とでも言うべき様な広大な作品世界を構築している。

次に例えば『宇宙兄弟』だろうか。「ガンダム」と並べるにはあまりに歴史が短すぎる、という感もある。しかし、この漫画以後、少なくとも日本のサブカルにおける宇宙観は多かれ少なかれ変化した。

ガンダム」が属していたのは、手塚治虫の「鉄腕アトム」以来の夢一杯の科学技術の世界。そしてその先にあるエキサイティングなフロンティアとしての〈宇宙〉。

しかし『宇宙兄弟』があるのは、現実の世界。普通のサラリーマンが宇宙飛行士になるまで、そして宇宙飛行士になった後を、リアリスティックに、そして時々コメディ要素多めで描いている。つまりこの時点で我々が宇宙に対して抱いているロマンは、かなり大きく変容している。

もちろんこれ以外にも宇宙を描いた作品は数知れない。『スター・ウォーズ』シリーズなんかもあるが、これに関しては前者の、つまり「ガンダム」側に入れるべきだろうと思う。

さて本作がアニメとして放映されたのは2003年の10月から2004年の4月。原作漫画が1999年から2004年まで。と考えると、どうやらこの作品は、その二つの宇宙観のちょうど境目にあるらしい。

というわけで本作の宇宙観は、現実的なロマンとしての〈宇宙〉という微妙な位置にある。つまり、宇宙にロマンを抱きつつ、あくまでのその宇宙には現実が立ちはだかる、という位置である。

この作品の主人公たちが所属するテクノーラ社デブリ課は、宇宙開発の結果増えすぎたデブリを回収する役割を担っている。

このスペースデブリという問題については、今でこそ英語の教科書にも掲載されるような大きな問題になっているが、当時はそれほど大きくはなかったに違いない。

夢と希望あふれる宇宙にあって、しかしスペースデブリという問題に立ちはだかる彼らが、いかにそれに立ち向かうのか。

しかしこの作品の本質とはそこではない。放送されたのがNHKであることからも薄々お察しという感じであるが、もっとこの作品は教訓的である。

つまり作品のテーマは「孤独な人間なんていない」というようなところに収斂する。

サブテーマとでも言うべきなのは、人間の定める恣意的な国境の空虚さである。

何かにつけ「愛」の重要性を説く田名部愛がデブリ課に配属されたところから物語はスタートする。そのデブリ課にはハチマキと呼ばれる星野八郎太がいた。

ここだけ切り取ると、やたらここには日本人がいるという風に思われてしまうかもしれないが、実際には違う。むしろそうではないことにこそ本質がある。

この作品内では、日本人かそうであるか、あるいはその出身の如何を問わず登場人物たちが同居する。ト書きを避けられない小説や、言語の壁を感じさせてしまう実写ではない、漫画やアニメだからこそできる描写である。しかし彼らは何語か判然としない言語で普通に会話している。

登場人物たちを明確に区分する何かの基準は判然としない。しかし肌の色、髪の色などでは区分される。このもどかしさは、そのまま国境へと移る。

「宇宙からは国境線は見えなかった」というのは毛利衛の言葉だが、類似の言葉は作品中3人から言及される。

一人目は、小国エルタニカの人々の想いを背負って、初めての船外活動用宇宙服の採用を求めてやってきた技術者テマラ。その採用試験中にエルタニカは再び国際社会からの制裁を受けることとなり、採用試験は強制的に中止させられることになる。そのテマラは、宇宙から地球を見つめながら、そこには国境が見えないことを言う。

二人目は、ノノ。彼女は月で生まれたルナリアンであり、月で生まれたが故に重力を受けずに大きく育ってしまい、地球に帰ったところで重力に耐えられないという境遇にいる。そんな彼女は地球にある「海」は知らない。そして「国境」も知らない。

三人目は、ハキム。軌道保安庁所属であったはずの彼だが、最後には彼がテログループ「宇宙防衛戦線」所属であると明らかにされる。そんな彼は、先進国と発展途上国の格差に問題意識を抱いた結果テロに走ったわけだが、最後、月面でノノと出会った時、振り返った地球には国境線がないことを自覚する。

例えばアニメ「機動戦士ガンダム00」で言えば、ソレスタルビーイングは国家(連合)の外部に存在する私設武装組織として戦争へ武力介入を行う。彼ら自身は国家に対してそれが是であるか非であるかという決断を下さず、ただ「戦争」という行為そのものを糾弾する。

一方本作においては「国家」という概念を、宇宙という圧倒的外部から問い直すことで、それによる戦争の空虚さを明らかにしている。

では「国家」を失った我々には何が残るのか。

宇宙という圧倒的外部に取り残された我々には、あくまで自分しか残らないのではないか。

そうした孤独感もこの作品では取り扱われる。

ハチマキが罹患する「宇宙飛行士のはしかみたいなもん」がそれにあたる。広大な宇宙、そして宇宙には国家というような依り代はない。その彼は圧倒的孤独感を覚える。

その時に彼を支えたのは、「国家」が存在しなくとも「愛」によって他者と繋がり続けようとする田名部だった。

ハチマキ自身も最後に悟ったのも、「自分もみんなと繋がっている」ということだった。これこそまさに「愛」なのではないか。

もちろん、人種も国境も頼りない時代にあって、唯一人を孤独から救うのが人とのつながりという「愛」であるという大風呂敷は、あくまで教科書的な感は否めない。

しかしそれが、この物語26話を通して、圧倒的な説得力を得ている、という点、それこそがこの物語を単純な「訓話」から壮大な「宇宙モノ」へと変貌たらしめている。