ジェンダーとセックスの向こう側

東京レインボープライド、というのが開催されるらしい。

普段このブログでは、何か実在の作品を取り上げることしかしない。それはかなり自覚的に決められたルールで、その「作品」というものがどこまでの範疇を許すのかは決めていない。一応「小説」はもちろん「写真集」まではこれまで書いている。

なら、別に行きもしないこのイベントにかこつけて、自分が現状、LGBTについて何を考えているか書き残しておくことは、例えばこのブログが自分が年老いてからもこのブログが残るとすると、意味あることではないかと思えた。

だからこの記事は未来の自分へ。そして、今の自分の本質へ。

ジェンダーとセックス、それからステレオタイプ

LGBTというのは、ジェンダーだろう。「ジェンダーマイノリティ」という名前だって、お堅いメディアが好きそうだ。そもそも「マジョリティ」なんて存在するのかと思うのだが。

「体の性と心の性は一致しない」というのが、性を「セックス」と「ジェンダー」に分けて考える考え方だと認識している。もしかしたら間違いかも知れないが、ただ、間違いだったとしても、この考え方自体が間違いだとは思わない。地球上の人類は、基本的には身体的に「男性」か「女性」かに分けられる。もちろん両性具有的な人が現れるかもしれないが、こういう人はきっと「障害者」にカテゴライズされる。この社会は薄情だから、「障害は個性」と言いながら、やはり彼らは「障害者」。

「セックス」を「男性(male)」「女性(female)」に分けるのは、生物が──少なくとも多数の生物が──有性生殖によって環境の変化に耐えてきたという事実から鑑みても、きっと蔑ろにしちゃならない。

と考えると、生物学的に考えれば「男性」と「女性」に体のつくりに変化があることも納得できる。それはもちろん、パッと見て分かるような、保健の教科書の、あの男子中学生が折り目を付けているページに載っているようなアレだけでなくて、脳内の構造やその働き方が違うんだろう、ということもあるだろう。そういう生物学的「性差」が物理的に存在することは否定できない。「性差」ってマジックワードだけれど。

さて、さらっと「あの男子中学生が」なんて言ってしまったが、別に世の中の全ての男子が保健の教科書の第二次性徴のページに折り目を付けているわけではない。もちろん男に生まれるとホルモンの分泌でついつい教科書のあのページを折ってしまうわけではない。

そういうのはもしかすると「ジェンダー」と呼べるのかもしれなくて、この辺りが日本語で概念化するのが難しいところになる。「男性性」「女性性」と呼んだりするのかもしれないが、もしLGBTを「ジェンダー」と呼ぶのだとすると、つまり「レズビアン」「ゲイ」「バイセクシャル」「トランスジェンダー」を「ジェンダー」でしょと呼ぶのだとすると、それはそれで嫌な気がする。

なぜ嫌な気がするのかというと、所詮それって恋愛対象が誰かでしか分類できていないから。「異性愛者」「同性愛者」「両性愛者」云々だなんて、きっと「生殖」以上の意味を持たない。し、持ってはいけない。「自然保護を」だなんて偉そうな高等生物気取っておきながら、所詮は「君は愛する性別の人と子供を作れる? 作れない?」だなんて馬鹿馬鹿しい。

これはもちろん「子供が出来ない恋愛なんておかしい」論者にも、「生殖を前提としない同性愛は純粋だ」論者にも言いたい。いや、子供作るために恋愛するのかよ。或いは、子供作らないために恋愛するのかよ。

タイかどこかには、好きな相手の性別について分けると20だかあるらしい。日本だと「男性」「女性」にLGBTを足して6つ、それが理解されていればまだマシだけど、20ともなると、もう分けるのが面倒くさい。となると分けなくていいんじゃないか。

「男性ってこう」「女性ってこう」「レズってこう」「ゲイってこう」「バイってこう」「トランスジェンダーってこう」ってステレオタイプが蔓延っていて、なおかつそれが、つまるところ性欲を基準にしてしか成立しない分類だとするなら、意味はあるのだろうか。

性癖か、もっと根源的な何かか

LGBTを擁護しようとすると──「擁護」というのが欺瞞的だが──いくつかロジックがある。

例えば、「LGBTは単なる性癖なんだからそれだけで差別するべきではない」というもの。

人間には種々の性癖があって「小さな女の子が好き」とか「中年女性が好き」とかいう男性はそれなりに発言権があって、それなりに市場を構築している。だからと言って、「お前小さな女の子好きなのかよ、キモい」とはならない──いや、なるか?

ただ、「背の高い女の子が好き」「背の小さい男の子が好き」「少しふっくらした子がいい」みたいな程度であれば、あくまで個性で、それだけで非難されたりはしない。だとしたら、その延長線上に性別があるのだとしたら、それだけでその人に対する見方を変えるのは馬鹿馬鹿しいのかもしれない。

ただ、そうではないLGBTは根源的な何かなのだ、という考え方をしたくなるもの分かる。そして、もしかするとそうなのかもしれない。

ホモソーシャル、或いはあるサークルの自己規定の例から

ホモソーシャルという概念がある。同性が集まると(この場合の性は、あえて曖昧にしておきたい)形成される社会的な意識である。「異性嫌悪」と「同性愛嫌悪」という性質を持つ。それはなぜか……については、実はその本、買ったんだけど読めていないんだなあ。『男同士の絆』という本です。これは文学についてで、現実にそれを活かした調査も、来月か再来月には読みたいなと思います。 

男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―

男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―

 

あるサークルに行った。バレーボールサークルで、とっても楽しそうにみんなバレーをしていた。しかし不思議に思ったことがあった。「この人たちは誰のためにサークルを運営しているのだろう」

サークルが終わるとミーティングがあって、ミーティングでは全員で円になって今日の練習の課題を共有し合う。その日は「新入生が多く来ていて浮かれていて、上回生がコートの中でやっている試合の応援そっちのけで新入生とお喋りしていた」というのがもっぱらのトレンドだった。

どうやら合宿では練習後、午前3時ぐらいまでミーティングを続けるらしい。いやはや、この人たち、それで楽しいのか。

そこで思い出したのは、共産党とかのやっていた「自己批判」だった。もちろんあれには、自らの精神を衰弱させて、そこに共産主義がそっと入り込む、というような構造があるのだろうと思う。似た構造はキリスト教の懺悔なんかにも見られるわけですが。

自己批判」とは即ち「自己規定」である。つまり、「自分はこうあらねばならない」と定めるからこそ、そうではない今の自分を否定することに繋がる。

だからこそ、あのサークルはあんなにミーティングしていられる。彼らの頭の中には「このサークルはこうあらねばならない」というイメージがあって、そこから離れているのが許せない。というか、許せないことで、自分もそのサークルの構成員であることができる。

と考えれば、ホモソーシャルというのもその一環なんじゃないか。

「異性嫌悪」は、或いはもっぱら「ミソジニー」は、同性間でのコミュニティを揺らがせる存在として「異性」を嫌悪する。「お前、○○と付き合い始めたんだっけ? 裏切り者」みたいなやりとりしたくないから。

そして「同性愛嫌悪」はもっと深刻だ。篤い友情で結ばれているはずの共同体内に恋愛感情が紛れ込む。許してはならない。自分が排除されるかもしれないから。

まあ、この辺りはしっかりと勉強していきたいところです。

神話的女性蔑視論

となると、どうして男尊女卑が世界の主流となったかが何となく見えてくる。つまりそれは、男性が力を握ることで「ミソジニー」が社会的に規定されてしまったということ。

男性が力を握ったのは、それはもう男性のセックスとしての特徴と言うより他にない。狩猟する時にも、隣の国と戦争する時にも、やはり筋肉量はかなり重要で、なおかつ月に一度生理が来て、子供ができると一年弱体が不自由というのはいかにも不便。

これが未だに残っていることを肯定しているわけではありません。だって狩猟しないし、戦争だってめったには行かないし。

もしかするとそれだけではなくて、その「生殖」というのがやはり大切かも知れない。

男性が「妊娠できない」ということに対する劣等感のようなものは、世界中の地母神信仰を見れば分かる。多神教では多く女性が主神になるし、世界が創造される、或いはその他の神が生まれる、というようなのはやはり女神が担当する。

その後にはやはり女性を「落とす」ような内容が含まれていて、ギリシャ神話であれば「パンドラ」とか、日本神話だと「イザナミ」だとか。やっぱり女ってどうしようもねえな、みたいな部分は欠かせない。じゃないと男性の立ち位置無くなってしまうから。だからね、レディファーストなわけですね、ヨーロッパでは。どうしようもない女性を守ってあげなくちゃ。

やはりここでも生殖がキーワードになるわけで、「妊娠できない」劣等感から女性を見下して納得しようとする。もちろん別の言い方もできるかもしれなくて「生まれた子が自分の子か分からない劣等感」とも言い換えられる。

いずれにせよ、個人的にはそういうのが女性蔑視の根源にはあるんじゃないのかな、と思う。だとすると、別に高等生物たる人類の生殖を重視しない限りは、別に女性に対する劣等感は感じなくて良いし、だから蔑視もしなくていい。ただ、もうこのストラクチャーが文化構造に刻み込まれているのだろう。

恣意的な性差とその妥当性の欺瞞

肉体的な、つまり「セックス」による性差は存在するだろう。それは否定してはならない、と思う。日本はともかく、世界中のどこかで徴兵制があって、その国が男性しか徴兵しないのだとしたら、そのことは明白で、忘れられない。

ただ、どこまでが「セックス」による性差であって、どこからは「ジェンダー」になってしまうのかが難しい。そして、「セックス」による性差だってかなり難しいものがあって、例外が豊富にある。

「男性は筋肉質」と言われたってそうではない人たくさんいるし、自分がそうだし。

そういうわけで、性差は全て恣意的なもの、と言ってしまうのは難しいだろうと思う。一方で、その中に恣意的なものがある、とも思う。

ただ、この「恣意的」という言葉もマジックワードだ。「恣意的」というと、何だかその性別に特別の意味を持たせたいが故に誰かが決めたみたいだ。もちろんそういうのもあるんだろう。ただ、しかし性差のほとんど全ては、セックスによる性差から派生したものだと思う。

「女性は筋肉量が少ない」それなら「軍人になるのはやめてもらおう」そうすると軍人が政治をする時代になって「女性は政治をするな」

こういうのは一例で、つまりジェンダーとそれに付きまとう「あるべき」像としてのステレオタイプを、一足飛びに否定するのは難しい。だからどちらかというと、そのベールを一枚ずつはがして、最後にセックスだけが残るようにするのが良いのだろうと思う。

ジェンダーを無視する決意

そんなこんなで、セックスの性差は妥当だろうと思う。これは仕方がない。もちろん機械化された現代社会でなお仕方のないほどの性差があるのかにはかなり疑問だけれど、そういうのは別の人にお任せしたい。ここではもっと形而上学に近いふんわりしたお話をしたい。

フェミニズム」という考え方があって、個人的にはこれが好きではない。というか、もっと情緒的で、自己陶酔の極みみたいな表現を選べば「自分以外の誰かがフェミニストであり続ける限り、自分がフェミニストになる気はない」。

少なくとも現代社会の「フェミニズム」は「女性の男性化」でしかないし、或いは「女性の権威向上」でしかないように見える。男性社会の中に女性が入り込んで行って賛美する様などまさにそう。

ただ気が付くべきなのは、これって並べるに値するカテゴリなんだろうか、と。これ、というのはジェンダーを意味するが、それというのはそれほど揺るぎない信念なんだろうかということだ。

自分は、自分が「男らしい」ということに心底自身がないし、では「女らしい」のですかと聞かれれば、そうではないと思う。というか「男らしい」ことに自信がある人っているのだろうか。もちろん、性交経験で定義しちゃならない。

この概念に拘泥してしまうと、ジェンダーがややこしくなる。男性ばかりの役員に女性が入った企業。「女性らしい考え方で業績が──」こういうのはプライムタイムのニュース番組でよく見る。

「女性らしい考え方」なんて存在するだろうか? 少なくとも「男性らしい考え方」なんてものは想像がつかない。そして何より問題なのは「女性らしい考え方」を使ってしか、女性の社会進出を動機づけられないこの社会じゃあるまいか。

よし、決めた。自分はジェンダーを無視しよう。そんなものはあまり意味がない。

「みんなちがって、みんないい」論の限界

金子みすゞはきっと、様々に笑い、様々に走り、様々に喜ぶ人、或いは自然全部に暖かな目線を向けて、「みんなちがって、みんないい」と言ったのだと思うが、果たしてその意思は現在も受け継がれているのだろうか。

というかむしろ現在の「みんなちがって、みんないい」は、ゆとり教育以前からの「個性」のような病理と裏表で存在している概念ではないか。

いや、もっと簡単言えば、現在の「みんなちがって、みんないい」というのは「みんなと君は違うはずなんだからどこが違うかはっきりさせよう」的な意味を帯び始めている。

他人が自分とどこが違うか見つけるのは難しい。実はそっちの方がずっと難しいのではないかと思う。「自分はみんなと違う」と悩むよりも「自分はあくまで普通だ」と悩む方が〝普通〟なのではないかと思う。

LGBTだって個性だ、というのは嘘です。LGBTの人数は、一説ではAB型の割合ほど、或いは左利きの割合ほどいるらしい。「私AB型なんだ」と言われて、「え、珍しい」とはならないし、「僕左利きで」と言われて「個性的!」ともならないはずだから。

何が言いたいかと言うと、自分は、ジェンダーを含めて、ありとあらゆる「個性」というマジックワードを付されるような全てを忘却しようと、今ここで決意したということだ。

そして、その決意は少なくともしばらくは忘却せずにいたいということだ。