部活をやめた桐島の記憶

※特に記述が無ければ、基本的には映画に沿っている。

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

 

 『桐島、部活やめるってよ』は、ある点において特異だ。

もちろん別個の作品を取り上げて、小説における朝井リョウの描写、これが──作者が彼らと近いがために──もうグロテスクと言ってよいほどのリアリズムで学校を表現していること、或いは映画におけるゾンビ映画のシーン。ラストの、おそらく寓意に満ちたあの空間、そういうのも特異だ。

ただ、より驚かされるのは、この作品が、小説としては小説すばる新人賞を受賞し、映画としては日本アカデミー賞を軒並み受賞したこの作品が、実際にはそのかなりの部分が異なるという点である。

原作ものをいかに翻案するかという点において、日本のエンタメ界はそれなりに苦心してきた。特にここしばらくの少女漫画の映画化。少年漫画も然りだが、本数で言えば少女漫画の方が多いはず。漫画は打ち切りの可能性を考えると、話の計画を事前に立てることが難しく、その結果、半年くらいおきに古い敵を倒しては、新しい敵が現れる。幼なじみの女の子を倒したと思ったら、年上の近所のお姉さんが出て来る。

これを、例えば12話のドラマにしましょう、或いは2時間の映画にしましょう。それが難儀なのはよく分かる。いわば「章」のようなそのまとまりを複数取り込もうとすると、映画の脈絡が無くなる。一方「章」のようなものを1つしか取り上げないと、不完全燃焼感は否めない。

そうなるとそれを巧みに融合させていく術が必要で、例えばそれに優れているのは野木亜紀子さんだったりする。もしかすると「アンナチュラル」も上手くいったし、もう原作モノはやらないのかな、と考えると寂しい。

或いは全く別の方法もある。そうした原作のエピソードを織り交ぜながら、いわば練り上げていく形で物語を編む場合もあれば、それとは違って、全く別の型を用意して、そこに原作のエピソードを嵌め込むパターン。

ただ、このパターンになると、原作とのつながりが希薄になったりする。誰だ『進撃の巨人』か、だなんて言っているのは。僕はそんなこと言っていないぞ。

さて、『桐島、部活やめるってよ』は後者である。小説は5人の人物に的を絞って、それぞれの物語を描く、短編集の様式を取る。ただし取り上げられているのはほとんど同じ時間帯なので、全てを読むと何となく全体像がつかめる。伊坂幸太郎的とも言えるかもしれないが。

映画になると、その主人公は、一応なんとなく残っているんだけれど、ただ短編集的な描き方では無くて、画角を変えて何度も同じシーンを流したりする。これが怠くならないあたりも凄い。

映画になって付け足されたシーンとしては、最後、桐島が屋上にいるのを見つけた生徒たちが、映画部の撮影するそこへ乗り込むシーン。まさにあそこはミハイル・バフチンが仰る通りのカーニバル、祝祭空間。

そしてそれが、なんだか美しいと思う。なのでそこに至るまでの経緯を、映画に寄り添って時系列で。

金曜日

映画では金曜日が序盤4回繰り返される。これをもってして、キリストが死んだのは金曜日だから桐島がキリストと繋がる、というのは、桐島の存在論を考える上では魅力的だが、その後、日曜のバレーボールの大会では桐島は「復活」しないわけだし、「復活」したかもしれないのは火曜日。少し無理があるかもしれない。

金曜日のポイントは3つ。

第一に、この日進路希望調査の紙が配布されていること。この回収は水曜日で、これは桐島が「復活」したかもしれない日の翌日である。

第二に、沢島亜矢が屋上でサックスを吹いていること。原作では竜汰が好きということになっているが、映画では宏樹。屋上から彼がバスケをするところを見ている。

第三に、映画部がゾンビ映画の撮影を始めること。ちなみに映画部はこの日の朝、顧問の書いた台本を映画化した純愛モノで朝礼されたことを朝礼で報告されている。そのうえで、顧問のシナリオ通りの映画撮影ではなく、自分たちの作りたいようにゾンビ映画を作ることになる。「顧問の思い通り」ではなく「自分たちのやりたいように」。

宏樹の「出来る奴は何でも出来るし、出来ない奴は何にも出来ない」というセリフは、この後の宏樹の立場を考える上で大切なセリフでもある。「何でも出来る」はずの彼にも、「出来ない」ことが明らかになるのが、火曜日、進路を示さなくてはならない前日だからだ。

土曜日

バレーボール部の試合のシーン。一瞬なのだが高校時代は男子バレーボール部だった都合、感慨深い。

バレーボールは25点獲って1セット、なおかつ6人でやる。バドミントンとかならば、せいぜい1人か2人で、例えば試合で負け越していても、コートの中にいる1人か2人だけが気を取り直せばいい。ただ、6人は無理だ。徐々に連続失点が続くと、コートの中の空気が悪くなる。

バレーボールが「3回以内に返す」というのもネックで、普通は3回使い切る。そのためには、レシーブが綺麗にセッターの頭上へ上がらなくてはならない。そうしないとセッターは安定した体制でスパイクのためのトスが出せない。

そうなるとレシーブをした人としては、ぜひとも自分が綺麗にレシーブしたボールは、スパイクで決めてほしい。点に繋げてほしい。

しかし実際はそうとも行かず、レシーブが上手くいってもトスやスパイクでミスをする。そうなればレシーブにイライラが募る。反対に、レシーブが失敗すると、トスも綺麗ではなくなり、スパイカーにイライラが募る。

その中にあって、確かにリベロというのは難しいポジションで、その他のポジションであれば、例えばレフト(ウィングスパイカー)やセンター(ミドルブロッカー)であれば、後衛でレシーブをミスしても、前衛のスパイクやブロックで巻き返す、ということが可能になる。でもリベロは、普通センターが後衛に下がった時に代わりにレシーブをするポジションで、巻き返すということができない。センターだった自分としては助かったんだけれどね。

だからこそ、この辺りの無理解というのはバレー部には顕在的にある。スパイカーリベロのことを、リベロスパイカーのことを、全てのプレイヤーはセッターのことを、基本的には理解しきれない。

これだけの違和感覚えながら試合に臨む。ポイントは、25点1セットの2セット先取。その間、この綻びをいかに隠すか。もちろんプロになるとそうではないだろうが、普通の高校のバレーボール部では、多分それが鍵になる。

25点取らなきゃならない、と言うのがある分、時間じゃない分、強い相手にもきちんと負けないとならない。

サッカーの90分であれば、90分我慢すればいい。でもバレーボールはいつまで我慢すればいいのか分からない。30分か、1時間か。試合によっては泥沼で2時間に迫るものもある。

映画のバレーボールのシーンも、点差が離されていて、きっとみんな負けることを確信しているのにそれを口に出せない、という状況。一番つらいやつだ。

小説は、桐島の代わりにリベロとして試合に入った小泉風助の視点からこの試合を見る。朝井リョウさんがバレーボール部だったからか、表現は真に迫るものがあって、バレーボールで苦しんだ経験がある者としては、胸に迫るものがある。

日曜日

映画では、前田涼也は映画『鉄男』を見に行く。これが恐らく前田の潜在的なリビドーを示し、東原かすみと偶然会うのもその矛先が内心ではかすみに向かっていることを示す。

月曜日

桐島は来ない。そのことによる歪みは大きくなっていく。

「何のために頑張ってるんだろうね」というのは、バドミントン部の宮部実果が風助について語った言葉だが、これが後々大きな意味を持つようになる。

沢島亜矢の宏樹へのほのかな恋心であるが、彼女が部長を務めるバラスバンド部はコンクールを控えている。その責任感からか、宏樹への想いを諦めるために、宏樹が彼女の野崎沙奈と待ち合わせするところが見える場所でサックスを吹く。

沙奈はこれ見よがしに宏樹とキスして見せる。確かに亜矢を傷つけることにはなったのだけれど、亜矢は端からそれを期待していたのだろうと考えると、沙奈が一枚上手、とも言い切れない。

女子の中の歪みが大きくなる中、男子の中でも。

宏樹・寺島竜汰・友宏の3人は桐島を待つためにバスケをしていたが、桐島がいないのだから意味がない。竜汰は「何のためにバスケやってんの?」と問い、友宏は「やりたいからでしょ、バスケを」と答える。竜汰は「じゃあ入れよ、バスケ部」と告げる。竜汰にとっては「バスケしたい」なんてナンセンス、それじゃあ部活をやってる真面目なやつらと一緒になってしまう。

結果翌日、友宏は一人でバスケしていることになるわけだが。

そこにいたはずの宏樹は塾の帰り道、一応席だけは置く野球部のキャプテンが素振りしているのを見かける。素振りを終えたキャプテンが近づいてくるので、宏樹は思わず隠れてしまう。なぜ? 今の宏樹にはキャプテンに顔を合わせることが出来なかった。これが翌日に繋がる。

火曜日

桐島がどうやら来るらしい、という情報が出回る。来るべき屋上の祝祭空間への、最初の準備である。

映画部の顧問は、ゾンビ映画の撮影をする生徒たちに撮影をやめるように告げる。諦めない映画部は、屋上で撮影を。

そこに桐島の姿を見た友宏を端緒に、バレー部、実果、かすみ、その他もろもろ、一応ほとんど全員がそろう。

「謝れ、俺たちに」映画部の小道具の隕石を蹴飛ばした孝介に映画部が口々に言う。「上」のはずの孝介に、「下」のはずの映画部が。

映画部は彼らにゾンビ映画の枠を──或いは8ミリカメラのファインダーを──借りて反逆する。これは革命である。そしてこの革命は成功してはいけない。カーニバルは、終わるからこそ、カーニバルなのである。

「戦おう。ここが俺たちの世界だ。俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだ」

宏樹には分からない。なぜ彼らが映画を撮るのか。前田涼也は映画監督になるつもりはない。なぜキャプテンが野球部を引退しないのか。キャプテンはスカウトが来てもいないのに、ドラフトを待つ。

「やっぱカッコいいね」この前田のセリフが、どれだけ空虚に宏樹に響いたかは想像に難くない。全く宏樹は「出来る奴」では無かった。少なくとも彼自身はそう自覚した。

つまるところ

小説ではこの作品は、桐島の退部が投げかける波紋を描いただけだった。だから日常が壊れるということもなければ、おそらく日常が続いていくことが予期される。ただの日常では意味がない、「桐島がやめた」ことで少しだけ異化された日常。だからこそ、あのリアリティはグロテスクな域にまで達する。

映画では、もしかするとこの先何か大きな変化があるのかもしれないという期待と、そう期待するだけ無意味なのかもしれないという絶望が背中合わせに存在している。だけにスリリングで、心のどこかをえぐられる気がするのだ。

映画は、一言で言えば「宏樹は進路希望調査に何を書くのか」という可能性の物語だった。彼には何かに一生懸命になることはできない。ブラスバンド部として屋上には訪れない亜矢、野球部のキャプテン。この2人が屋上には現れないこと、それはこの2人が「上」や「下」そしてそれが逆転するという屋上の空間にふさわしくなかったからだろう。

制服によって均質化された「高校」は、その内部に大きなヒエラルキーを抱え込む。これは「35歳の高校生」しかり「学校のカイダン」しかり、そのあたりが好んで取り上げた題材である。

しかし、「スクールカースト」なんて馬鹿馬鹿しい、と訴えることには、本質的に意味がない。

これからも宏樹は「上」だし、前田は「下」だろう。ただ、もしかすると次のサッカーの授業では、前田が早くチームに加えられるかもしれない。そういう話なのだ。

高校生活に意味はあるのか。「高校へ通う」ことの意義は、高校への進学率がほとんど100%であることと、高校の授業内容と大学の入試との乖離によって無に帰す。その中で、惰性で日々を繰り返す(そしてそのことは金曜日が4回繰り返すことに象徴される)人々と、意味がないと分かっている努力をしている(積極的ニヒリズム的な)人々が生まれる。

宏樹は自らが前者であることに疑問を抱いた。

進路希望調査の提出は明日である。