映画『危険なプロット』

危険なプロット(字幕版)
 

日本には私小説というジャンルがある、と言われる。よくよく考えれば、作者自身の人生や経験を生かした小説は、どこにでもあるはずだから、日本において特徴的なのはそれが「一つのジャンルとして確立されていること」と言えるかもしれない。ドイツには教養小説があり、日本には私小説がある。日本にだって教養小説はあるが、一大ジャンルを築くほどではない。そういうことなのかもしれない。

私小説と言えば、数年前までは迷いなくその典型例に太宰治の『人間失格』が挙げられていたのだろうが、数年前、その原稿に多く赤が入れられているのが分かり、実はこれが非常に構成された物語だと明らかにされた。それを知った私たちは、あの小説を私小説に分類することができるだろうか。

私小説というのは、必ずしもノンフィクションを指すわけではない、のだとしたら、その広義において『人間失格』は晴れて私小説の仲間入りをする。そもそもノンフィクションとフィクションの境目はどこに? どんな真実だって、思い出されるときには再構成されるはずでは? では、ルポも、歴史叙述も、全部フィクション?

映画にしか出来ないことがある、とすれば、まさしくそれは本作だと思う。

フランスの高校では、新年度から制服が導入されていた。時代遅れの平等思想、伝統回帰、試験的な高校として生徒たちに平等な出発点を。

そこで文学を教える教師ジェルマンは、不作続きの生徒の中に、文学の才能を見出す。クロードである。クロードは友人ラファの家を訪れたことを書いた。この時点でクロードの文章はまだノンフィクションの「ルポ」の域を出ていない。

ジェルマンは、自身も小説家を志し挫折し、生徒に文学を教えたいというかねてからの望みもあってか、クロードに、必要以上に親身に文学を教える。懇切丁寧な指導ぶりは、後になってジェルマンの妻ジャンヌから指摘される通り、「疑似的な息子」と言えるかもしれない。

それだけでなくジェルマンは、自身が挫折した小説家としての夢をクロードに投影している。この二人が似た存在であることはジャンヌも指摘している通り。二人とも、いつも最後列から人々を観察しているタイプ。しかしクロードには才能がある。ジェルマンは、自らの夢を彼に託す。託すというような生易しいものではないのかもしれない。かつての自分に教えるように、或いはかつての雪辱を晴らすように。

次第にクロードの作文はその域を脱し始める。ラファの家に潜り込み、父ラファ(同名である)と母エステルの信頼を勝ち得る。

物語は主に三か所で展開する。「高校」「ラファの家」「ジェルマンの家」

ラファの家を訪れたクロードは、エステルを「中産階級の女」と揶揄する。高校であれば制服によって均質化されていても、家の中ではクロードにとってあくまで「中産階級の女」である。これは母すら持たず、父は身体障碍があり無職であるというクロード自身と複雑に対比される。そんなクロードさえ、高校では制服によって均質化される。

クロードはラファの家族を「聖家族」と呼ぶ。満ち足りた「普通」の家族がそう見えたのだろうし、クロードはそこに自らの居場所を求める。

そしてクロードは、その居場所を、特にエステルに求め、更にフィクションへと没入していく。「ルポ」であったはずの作文は、いつの間にか「文学」へ、或いは「小説」へ。

ラファの家のあちこちを「鍵穴から覗くような」視点で描く。本当に覗き、立ち聞きしていたのかは判然としない。むしろ、判然とさせる必要は無い。これはもはや「ノンフィクション」ではない。

クロードがラファの家から追い出されそうになった時、ジェルマンは、それを阻止し、クロードがラファに高得点を取らせるため、数学の問題を入手する。不正だが、ジェルマン自身の「文学熱」が倫理観に勝ったということだろう。

中産階級の女」エステルとクロードが関係を持ったのかは明らかではない。作文の中では関係を持ったはずだ。その様子を、ついにラファの家に登場してまじまじと見つめるジェルマン、という構図は、奇妙だ。いつもリアリティを伴ってしまう実写の映像作品にあって、こうした虚構的な構造が、ふと映画を見ている観客の目を覚まさせる。しかし思う。果たしてこれは、フィクションか、ノンフィクションか。

フィクションとノンフィクション、空想と事実はたちまち融解を始め、そのどちらも確固とした意味を持たなくなる。

ラファの両親はジャンヌの経営する画廊に訪れ、ジェルマンに抗議のために高校に訪れる。フィクションの中に存在していた聖家族は、ノンフィクションに溶け出す。一方、フィクションの中でのクロードとエステルの関係は、ジェルマンの介入を持ってノンフィクションを受け入れる。

聖家族は崩れんとし、そこにクロードは巧みに攻め込む。ジェルマンはクロードを疑似的な息子と扱ったかもしれないが、クロードは聖家族にとっての疑似的な息子たろうとした。クロードはその手段として──いびつながらも──エステルに近づいた。

ラファが首を吊る。それはフィクションだったわけだが、この瞬間、クロードの作文はもう現実から乖離してしまっている。はずだった。

その作文が、クロードとジャンヌが関係するという形で続いた時、ジェルマンは混乱する。彼にとってさえ、それが現実であるか空想であるかは判然とせず、もはや意味を持たないが故に、判断手段すら持たなかった。彼はジャンヌに憤りをぶつけるしかできなかった。

最後にアパルトマン(と呼ぶべきなのか?)の窓を覗き、それぞれの生活を空想する。最前列の客席である公園のベンチでそれに興じるクロードとジェルマンは、どこか満ち足りた様子だった。

と、まるであらすじを紹介したようだが、この作品が優れているのは、折に触れて書いたように、何よりもフィクションとノンフィクションが融解していく様が、映像的に表現されていることだ。

そしてまさに「手に汗握る」とはこのことで、特に決まった犯人もおらず、事件も起こらないがこの作品が「ミステリー」「サスペンス」に分類されることがあるのは納得できることでもある。

「どんな家にも入る方法は必ずある」と語るクロードと、それを聞いて微笑むジェルマンは、この先小説家になるのだろうか。或いはつつましやかな生活を取り戻そうとするのだろうか。

クロードを演じたのはエルンスト・ウンハウワーという俳優らしいが、これには唖然とするしかない。そして絶望するしかない。この映画は日本では作れない。日本ではこんなに「美しく」作れない。クロードの保つ青少年の美しさのようなものは、却ってこの作品全体の狂気を際立たせているようである。

たった16才でありながら、その文才で周囲の大人を混乱させ、或いは崩壊させるだけの力を持つ、「悪魔」のような彼が、彫刻的な美しさを伴っている。

かつて見た後、長らく再び見られず、やっと見直すことができた本作だが、やはり名作。人生でも最上級の作品だと感じる。それは、平穏な毎日が崩壊していく、融解していく様を、ここまでスリリングに、美しく描いた作品を、他に知らないからである。