セックスとしての映画『君の名は。』

君の名は。

君の名は。

 

 数年前に日本中が湧いたのがこの映画である。何だかそれにしては、例えば映画『千と千尋の神隠し』などが名作として名を残しているのに比べて、なんだかあの一時のものだった感が否めない。それは自分の界隈だけの話なのかもしれないが。

ユリイカさえ新海誠特集を組んだのだし、世の中にはこの映画を考察したブログが氾濫している。入れ替わりに際しての3年の誤差をどう説明するか、云々。

この手の物は、実際には制作陣が考えないはずがない。得てして問題とは出題は簡単でも解くのが難しい。入れ替わって云々とキャッキャしているのは、やはり制作陣の掌の上で喜んで転がっている気がして好きにはなれない。

無論、例えば「糸守」などといった地名や「瀧」などといった人名と、様々な神話・伝承が織りなす物語としては面白い。脈絡として雄大なスケールを取り込んだ、和歌の本歌取りのような狡さもある。この映画は一本の映画でありながら、複数のエピソードを抱えているのであり、それだけに何だか見ていてワクワクするし、そのエピソードを読み解こうと何度も映画館に足を運ぶ。

しかし、もうあれから何年も経つわけだし、そこまで含めて、大体の物好きは考察をまとめてブログに掲載している。実際映画を見た後それを参考にした節もある。頷けるものもあるし、首を傾げたくなるものもあった。

あの作品がゲーム的リアリズムのような構造を持っており、運命的な出会い(再会)を果たす瀧と三葉の過去のある可能性が遡行的に描かれている、というのは納得できる見方である。

そういうあらかた分かり切ったことを改めてここでリライトする必要はないだろうと思うので、あえて「映画『君の名は。』はセックスである」という荒唐無稽な命題を立ててみたい。

なぜキュンキュンしないのか

過去の以下の記事で、「運命」について考えたことがある。

raku-rodan.hatenablog.com

典型的なタイムスリップもののドラマ「アシガール」について、以下のよう記述した。

日本のマンガ・ドラマ・映画は、例えば『君に届け』のあたりから、運命的な出会い、運命的な恋愛に対して飽き始めたのではあるまいか。そして、もし仮に運命を描こうというようなことがあれば、映画『君の名は。』ほどの大きな舞台を用意せざるを得ないのではあるまいか。

ドラマ「アシガール」と日本の運命感 - ダラクロク

この前段にも映画『君の名は。』にも触れた箇所があるのだが、それも、この大がかかりな「運命装置」についてだった。

この恋愛モノの系統に本作を位置づけることにはあまり違和感はないだろうと思うのだが、それにしては、と思いはしないだろうか。

ある時期日本映画では、福士蒼汰や山﨑賢人を主演に据えて、恋愛漫画の映画化に勤しんだ。惰性でそういう映画を続けて見ていた時期があるのだが、そういう映画には大抵パターンがあって、結末が結ばれてハッピーエンドというだけではなくて、随所に女性客を「キュンキュンさせる」ような描写が見られる。例えば直近で言えば映画『わたしに××しなさい』はそのポスターからしてその辺りを狙っているのが分かる。

一方翻って見ると、映画『君の名は。』にそんなシーンあったろうか。

無かったと思うのだが、その理由は大きく2つあると思う。

まず第一は、観客に「キュンキュン」させることをそれほど想定していない点。これは、新海誠監督自身のフェチズムが投影された三葉と、それに釣り合う正統派男子高校生を引き合わせる上で、必要な要素では無かったということになる。つまり、上記の恋愛映画では、観客はヒロインに感情移入する。だからこそそうした映画のヒロインは概して「普通」とわざわざ形容されることが多い。別にこれは日本に限った話では無くて「トワイライト」シリーズにおいても主人公のベラは運動神経が悪く、肌が白いこと以外は普通だし、「ハリー・ポッター」シリーズにおいても、ハーマイオニーはドレスアップすれば美人でも、それ以外ではパッとしないという設定である。

第二に──これが本題でもあるのだが──この映画が描きたいのは、恋愛ではない。あくまで「出会い」であり、それは「疑似的なセックス」と言い換えることもできる。そこに至るまでの陳腐な切った貼ったの恋模様は要らない。というか、そもそも「結ばれる運命」なのだから、そういうのはいらない。

母なる大地

後半、瀧が口噛み酒を飲み後ろに倒れた後、意味深なシーンが続く。意味深と言っても、隕石が落ちて受精卵になって、みたいなことなのだが、要するに言いたいのはここだ。

このシーンを見れば、ティアマト彗星が精子に見立てられており、地球が卵子に見立てられているのは一目瞭然。この後、三葉の成長が描かれるから、三葉の誕生自体が、この宇宙規模のセックスを遡行的に予感させる出来事だったようにも思えてくる。

そうなると「母なる大地」なる語は、まさしく「母なる」であったと分かり、なんだか不思議な心地がする。もちろん、この宇宙規模でのセックス(ここでは綺麗に「出会い」と読み替えるべきなのかもしれないが)は、七夕伝説と照応するようでいて綺麗に見える。

つまり、卵子は地球に、精子はティアマト彗星に読み替えられ、それはほとんど受精であったと言えるし、この関係は、卵子を三葉に、精子を瀧に置き換えても問題はない。

だからこそ、三葉が東京に言っても瀧と結ばれ得るはずがない。卵子は女性の中にあって、そこに精子が行くのだから、瀧が会いに行かない限り、2人は結ばれるはずがないのだ。

そう考えると、口噛み酒を飲むシーンそれ自体が、疑似的なセックスと捉えることもできるようになる。そもそも口噛み酒は「魂の半分」と言及されている(はずな)のであり、これは遺伝子の半分が減数分裂によって生殖細胞になることと重なるようでもある。

最後に

個人的には、広義の文学作品において、人類の至上命題とは「性」である、というような振る舞いが好きではない。

人間の本質は「性」にこそ現れるのだ、というようなのも好きではない。

フロイトがリビドーをもっぱら性欲と考えたのにも納得がいかない。

それというのは、自分自身が、人間はもっと理性的な生き物のはずだ、単なる生殖を目的とする動物とは違う、とどこかで信じたいからなのかもしれない。

しかし、今までのように、疑似的にセックスする様子が見られる映画が、歴史的な興行収入を記録すると言うこと自体に、「性」の普遍性が存在するのかもしれないと考え、少しだけ落ち込んでしまうのである。