海崎新太はなぜ「高校生」をやり直したのか

comicoで連載されていた「ReLIFE」という漫画が終わったのは先月のことだ。その経緯を逐次見守って来た私としては、感慨も一入である。

この漫画は好きだ。しかし、熱く語れるほどではない。ではタイトルの「海崎新太はなぜ『高校生』をやり直したのか」とは何を問おうとしているのか。

昔から少女漫画も嗜み程度には読んでいたし、それが映画化される、ドラマ化されるという場合にもかなり目を通してきただろうと思う。その良し悪しに関わらずだ。

そこで抱いた疑問は、なぜこれほどまでに高校という空間は特別視されるのか、ということである。

月がきれい」というテレビアニメは中学を舞台にしたものだった。大学を舞台にしたような作品もいくつか思いつかないではない。しかし、いわゆる少女漫画で金字塔に扱われる作品には、高校を舞台にしたものが多いのではあるまいか。

ReLIFE」が、必ずしも少女漫画のカテゴリーにふさわしい作品だと言うわけではない。しかし、人生に挫折した大人たちが、再び希望を持って明日へ一歩踏み出すために選ばれたのが、なぜ「高校」だったのか。その背景には、我々が「高校」に対して抱いてしまう──「中学」や「大学」では不十分な──何かがあるのではないだろうか。

学校として

「高校」とは、無論「学校」である。「学校」がいかに特異な空間であるかについては、多くの人の見解の一致するところだろうと思う。

問題は、なぜ「中学」でも「大学」でもなく「高校」なのか。中学校は、日本では公立に行くのが普通だろうと思う。年々増加してはいるものの、2017年で全体の7.2%らしい*1。そうなると、日本国民の9割以上は、公立中学校に通っていた記憶を持つことになる。その特徴は、何よりその偶然性にあるだろう。つまり、同じ地域に住んでいるというだけで同じ年齢の子供たちが集められ、あるいは彼らがほとんど無作為にクラスという単位に分類される。彼らは高校入試に立ち向かうわけだが、地域によってはみんな同じような高校にいく、なんてこともあるし、何より大学入試よりも高校入試は切迫感のようなものが違う。

「中学校は義務教育」というのは間違いない。ただ、法律上の規定が、「中学校」表象にただちに影響したとは思えない。というか、むしろその環境が影響したのではないか。つまり、偶然にメンバーが選ばれ構成される小さな社会は、社会と言うよりも(法律に定められた)教育機関としての色合いが強い。それは教師が深くその社会に関与することを意味する。それが「中学校」の特徴だろうと思う。

大学はどうだろうか。平成29年度の調査では4年制大学への進学率は56.6%だったらしい*2。と考えると、6割の国民は大学の時代を経験しているということになる。大学は「人生の夏休み」とも形容される。大学生の生活は人それぞれで、部活に汗を流す人、サークルで楽しむ人、バイトに勤しむ人、学業に邁進する人。と考えると、学生たちの生活があまりにバラバラ過ぎることが分かる。またクラス制度を設けている大学もあるものの、授業は原則自由選択だから、ずっと同じ授業という仲間は出来ない。

このように中学と大学を考えた時、「高校」の特徴が露になる。まず、中学よりも偶然ではないメンバーの集合体である。大まかな地域・偏差値でふるいにかけられている上に、進路に対する意識もほとんど同じだろうと思う。それでいて中学ほど教師の干渉が多くない。一方大学とは違って、基本的には同じクラスの面々が朝から晩まで過ごす。一日の半分程度は拘束されることになり、それ以外の時間の使い方もあまりバリエーションに富んだものではないと思う。

この「高校」のあり方に、国民の多くが独特の感慨を覚えているのに違いない。

「高校」期として

日本で高校生と言えば、16~18歳だ。定期的に高校の義務教育化が叫ばれるが、年齢はほとんど絶対と思って良い。「35歳の高校生」のような作品もあるが、あれはむしろ同世代間でのスクールカーストに冷笑を向けられる存在として他の世代の女性が連れてこられた感がある。

そう考えると、日本人の「高校」期というのは固定する。そしてそれは、所謂青年期と一致する。便宜上ここではウィキペディアから参照するが、エリクソンは青年期における発達課題を「自己同一性の拡散」と「自己同一性の確立」の対立の中で自己同一性を獲得することだとしている。*3

高校生は概ねその年齢と一致する。つまり、アイデンティティが揺らぎやすい年代に、高校生はあたる。そしてそれは例えば映画『君の名は。』において主人公たちが入れ替わったのが高校生であることや、ドラマ「49」で父親が乗り移った息子というのも高校生だったということと、無関係ではあるまい。高校生は、自分が何者か分からなくなり、そこに別の何者かが憑依したり、あるいは入れ替わるということを想像するのが容易である、ということだ。

何者であるか悩み、もしかすると何者でもないと考えるこの時期こそ、そこにおいてそれを揺るがすような出来事を描くのには、恰好ということではないか。

海崎新太はなぜ「高校生」をやり直したのか

「高校」が特異な空間として存在するのはなぜか。

それは一つには、中学ほど偶然ではなく、ある程度粒がそろいつつも、彼らが比較的同じ時間・空間を共有する「居場所」であるということ。

もう一つには、高校にあたる年齢が、自己を失いかける青年期にあたるということ。

ひたすら考えても、この月並みの、分かり切った結論しかでないというのは残念ではあるが、だからこそ、「高校」がよく描かれるのだ、ということは整理できた。

そして、なぜ海崎新太は「高校生」をやり直したのか。それは、彼に求められていたのがリハビリであるからではないだろうか。「中学校」ではリハビリとしてはあまりに容易過ぎる。反対に「大学」ではあまりに難しすぎる。「高校」というこの特異な空間が、彼には最適だった。

その、もうとっくにどこかで気づいていたような気がする結論が、ある程度まとまった形で再確認できた。