「鷲とライオン ヒトラーVSチャーチル」

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映画『愛を読むひと』や『ヒトラー ~最期の12日間~』を見たこともあり、又、坂井榮八郎の『ドイツ史10講』を読んだりしたので、ナチスの誕生とその行動について、考えさせられることが増えた。

それまでの個人的なナチス観というのは、カリスマ性を帯びた極右の指導者ヒトラーの元にカルト的な人々が集まっていき、ポピュリズムと言ってもいい民主主義の暴走の中でナチスが政権を握り、暴走したのだと。

ナチスユダヤ人迫害、そしてホロコーストは、決して認めてはならない問題ではあるものの、ただ国民の中に共通の敵を作り、連帯感を得ていく手際などは、評価せざるを得ない。

まず、映画『ヒトラー ~最期の12日間~』では、ヒトラーもまた生きた一人の人間だったと感じた。前半の意志に満ちた姿、後半の哀れな老人の姿。まだドイツは戦えるのだと信じて疑わない、否、信じたい様などは、彼が世紀の大悪人であることを忘れさせる。

その映画で覚えた違和感がある。ヒトラーが部屋を去った直後に、ヒトラーの陰口を始める将校。ヒトラーの思想に心酔し、突然泣き、あるいは命さえ差し出す人々。

これはかねてからヨーロッパの、或いは日本の所謂左派のナチスやドイツの理解に対して抱いていた違和感と一致するものだった。つまり、ナチスやそれを取り巻くカルトと、それに惑わされなかった賢い市民を対比的に描く。これを分離することに、違和感を覚える。

しかし、少なくとも『ドイツ史10講』を読む限り、そうではなかったようなのだ。そもそもドイツには皇帝待望論のようなものがあって──もしかするとロシアに見られるようなものかもしれないが──そこに民主主義を突然移植したものだから、ヒトラーのような皇帝的存在が民主主義のなかに生まれた、というように感じられた。

それだけでなく、その更に根底には、第一次世界大戦へのベルサイユ条約での莫大すぎる賠償金があったのではないか。そう考えると、これが自然発生的な狂気とは思えないし、賢い市民とは隔絶されたところで起きた事象だとも思われない。

このドキュメンタリーでもそうだった。フランス制作だからだろうか。チャーチルヒトラーの対比の中で、チャーチルを賞賛し、反対にヒトラーを貶める表現が多かった。

もちろんヒトラーを賞賛する必要などない。しかしながらどうだろう。チャーチルは、賞賛に値する人物なのか? 好戦的な性格の中で、反ドイツを掲げて首相になり、戦争を訴え、戦争の中で人気を拡大したのだとしたら、彼は賞賛されるべきなのか。

反対にヒトラーはイギリスとの戦争を避けようとし続けたようである。ここだけ切り取れば、チャーチルよりもヒトラーに高評価を与えられるべきではないか。

ここで言いたいのは、つまりヒトラーに正当な評価を、ということではない。

ヒトラーをカルト扱いし、ヒトラーを異端扱いし、それを正視することを避け続ける現状への危惧である。

ナチスとその心酔者を、理解し得ない存在と切り捨てることこそ、このポピュリズムの蔓延する世界にあって、本当に恐ろしいことなのではないかと思うのだ。