小川洋子『博士の愛した数式』

 

博士の愛した数式 (新潮文庫)

博士の愛した数式 (新潮文庫)

 

 今まさに、この瞬間で時間が止まってしまえばいいのに、と考えることがある。

それは例えば、楽しい時間を過ごした後だ。

楽しいひとときは、長い年月に曝され風化していく。朧気な「思い出」になるのにそう時間はかかるまい。その時自分が何を思い、何で笑い、何を話し、何を聞き、何を着て、何をしていたのか。そういうことが、全部朧気になっていく。

そういうことを考えると、今この瞬間で時間の流れのようなものはストップしてしまって、もうその出来事が遠ざかることなど無ければいいのに、と思う。

小川洋子の『博士の愛した数式』は、言わずと知れた名作である。

80分しか記憶の持たない「博士」、そこへやって来る家政婦の「私」とその息子「√(ルート)」。見る限り実名は出てこなかったように思える。記憶が80分しかもたないなど、荒唐無稽な空想だと思えるかもしれないが、読むとそうは感じられない。こういうことがあったかもしれないと思い、むしろあってほしいと願いすらする。

博士の記憶は遠い昔でストップしている。その時のことを、昨日のように思い出すことは出来ても、昨日の出来事を思い出すことはできない。

それは、幸せなのだろうか。

作中何度も、やってくる家政婦と博士が、初めて出会ったかのようなやりとりが重ねられる。二人の仲は、絶対に深まることが無い。同じことの繰り返し。もちろん家政婦が博士に抱く感情は、親密さを増していくだろう。息子のルートも然り。しかし博士からすれば、毎日出会うごと新たな人なのであり、ジャケットにとめられたメモを見てもなお、実は初めてでは無かったと気が付くにすぎない。

それは、幸せなのだろうか。

この小説が、「今を一生懸命に生きよう」などという陳腐さの中にいないのは、時折登場する数字にまつわるエピソードからかもしれない。友愛数完全数。いつから数学を嫌いになったか、もう思い出せないほどの私ですら、なんだか数字の神秘さにロマンを感じずにはいられない。

高校で倫理を履修した人であれば、かなり早い段階に「アルケー」という概念を学ぶはずだ。「万物の根源」と訳されていたりもするが、古代ギリシャにおいて、この世の中を形作ると思われていたものである。それを材料であると考える向きもあれば、法則であると考える向きもあった。後者の典型例はピタゴラス。彼は「アルケーは数」と言った。世の中は「数」で出来ていると言ったのだ。

高校でそれを学んだ時、多くの人は「そんなことあるものか」と思うはずだ。しかしこの小説をふと思い出すと、もしかするとそんなこともあるかもしれないと思う。

そういう、ある種形而上学的な、神秘的な、世の中の真理に接近するような数式と、今日の晩御飯のシチューが同居する。それがこの作品の魅力である。

数学の雑誌で懸賞金を得るような優れた学者が、しばらくすると嫌いなニンジンをよけていたりする。

日常が続く。その日常は、80分というものに縛られた、少しだけ奇妙なものかもしれなかった。しかしその日常を、あくまで日常として、一見崇高そうでありながら私たちの周囲を取り囲む真理と共に、「静かに」過ごす。そこに、雑然とした世界とは切り離された、ある種の美しさを覚える。

そうであるから、結末がどうであろうとて、その日常は続いていく。博士の時間は永遠に進むことがないかもしれない。「私」やルートの時間は進んでいく。しかし問題はない。時間を超えた数学という真理が彼らを繋ぎとめているのだから。