ドラマ「アンナチュラル」とドラマコミュニティの時代

TBS系のドラマ「アンナチュラル」が最終回を迎えた。視聴率こそ飛びぬけて高いというわけではなかったが、録画率や、あるいは話題性という点では、今クールはピカ一だったろうと思う。

殊に自分は、このドラマに対してそれなりの想いがあった。ドラマ放送以前には「逃げ恥の脚本家」などと宣伝されていた野木亜紀子氏が担当するオリジナル脚本のドラマであったからだ。

この人の担当したドラマを見ると驚く。「空飛ぶ広報室」「重版出来!」「逃げるは恥だが役に立つ」。映画に目を向けていても映画『図書館戦争』は、その続編も担当している。他にも『俺物語!!』『アイアムアヒーロー』といった作品を担当している。

さて驚くのは、全て良作であるというところだ。

どれも原作がある作品である。日本では漫画市場が大きいためか、漫画の映像化作品が多い。「映像化不可能と言われた」などという枕詞は、今や宣伝文句の定型句となりつつある。

また、漫画の映像化には困難も付きまとう。基本的に日本の漫画の連載は終わりが予め決められていないため、ある程度の長さごとに「編」ないし「章」といった具合に落ち着きを見せる。そうしたことから、これをドラマや映画にまとめようとすると、拾いきれない話があったり、逆に多くの話を拾おうとするあまり脈絡がなくなることもある。

しかし、この脚本家は違う。野木亜紀子氏の脚本では、そうした漫画などの特性を巧みに生かし、そのエッセンスだけを抽出し、巧みに物語を編み上げる。漫画ではないが、映画『図書館戦争』やその続編における手際は、圧巻だった。

だからこそ──そうした見事な原作解釈によって脚本を編み上げる人だからこそ──では作ってみてくださいと言われて、イチから世界を構築する姿に期待したのだった。

結果は、圧巻というより他にない。

今クールにもあったように「隣の家族は青く見える」だとか、だいぶ前にさかのぼると「結婚しない」だとか。社会的に問題とされることや、見過ごされがちなことを取り上げ、ドラマにする。そうした流れはある。しかしこのドラマはそうではなかった。確かに日本の死因究明の遅れについて取り上げたものとしては、「アリアドネの弾丸」などもドラマでは取り上げられた。しかし「アンナチュラル」ではそれだけではなく、もっと大きなものを包含した。

何より凄いのは、このドラマが包含したものについて、それらは是非と共に押し付けられたものでは無かったということだ。その是非の判断は視聴者に委ねられ、ドラマの中で押しつけがましい教訓が語られることはなかった。視聴者が、何か大きなものを胸に宿したまま、何かの想いを抱く、そういうドラマだった。

もう一つ特徴的なのは、いわば〝ドラマコミュニティ〟とすべきような関係性が、SNS上に広がっていたことが挙げられると思う。

数年前であれば、登場する俳優がイケメンだとか、女優がかわいいとか、そういうことで賑わっていたTwitterも、深い考察や感想が共有されるようになった。そしてその人々の中で、ある種のコミュニティが出来ている。

少なくとも確認できる最も古い例では「あまちゃん」がそうだったろうと思う。「好きな人がいること」は、会見をネットで中継するなどして、このコミュニティを形成しようと思っていらしいが、もしかすると成功しなかったかもしれない。

このコミュニティが形成され、そこに脚本家自身、そしてドラマの公式アカウント、主題歌を担当した歌手までもがそこに参加した。

そうしたドラマコミュニティが、日本のドラマの新たな時代を拓いていくのではないか、そう期待させてくれるドラマだった。