映画『マーガレット・サッチャ― 鉄の女の涙』

 

 この映画に関しては、原題は『The Iron Lady』であるらしく、直訳すると「鉄の女」になるわけだが、だいぶそちらの方が適当であるように思われる。

マーガレット・サッチャーという人物は知っていたものの、恥ずかしいことに自分の中では歴史上の政治家の一人であって、その在任期間も、例えば日本で言うと高度経済成長にあたるような頃合いかと思っていたのもあって、まず1979年から1990年に英国首相を務めたと言うのに驚いた。

さて、先のアメリカ大統領選でも、そして小池百合子が新党を率い挑んだ総選挙でも、女性指導者の誕生なるか、というのが話題となった。特に、ヒラリー・クリントンの方は、票数ではドナルド・トランプよりも上回っていたわけだから、かなりその女性指導者に肉薄したと言えよう。

そんな中、女性指導者として名が挙げられるのが、この人物だろう。小池百合子率いる希望の党は最終的には議席数では即席の立憲民主党にすら及ばなかったわけだから除くとして、ヒラリー・クリントン民主党であり、何となく女性と言えば左派政党という気がしてしまうのは、日本の政治状況を見て育ったせいだろうか。

実際にはマーガレット・サッチャーも(生粋の)保守党である。身近で言えば韓国の朴槿恵保守系出身だったと記憶している。

日本の保守の政治状況に目を移すと、55年体制以後、自民党の党内政権交代が続き、社会党の政策すら自民党が吸収したために、自民党保守政党として色合いはだいぶ薄められているように思う。安倍内閣になりそれを右傾化と指摘する声もあるが、そもそもの自民党が、もう右だか左だか分からない、政党としては珍しい状況だったのだから、当たり前の方向に純化された、という言い方もできるかもしれない。

アベノミクスというのは、概ね左派の経済政策であることは、宮崎哲弥といった一部の評論家やジャーナリスト、そして経済学者などが指摘するところである。いわゆるケインズ主義的な積極財政とマネタリズム的な金融緩和のいいとこどりをしたものだと認識している。一般に保守とは、この映画に描かれるサッチャーのような政策を──つまり、緊縮財政によって小さな政府を目指すような──とることが多い、と言う認識でいる。

サッチャーの政策は、数値上一応の成功を収めた。それに批判する人も多いだろうからあえて中途半端な書き方をするが、少なくとも、インフレと不景気が同時に襲うというスタグフレーションを乗り切ることはできた。これは現在のデフレ不況とは根本的に異質であることは指摘しておきたいと思う。

この映画を見る上で、もしかするとそうした点は、ある程度脇に置き去るべきなのかもしれない。考えさせられるのは、政治家の役割である。

諸外国では知らないが、少なくとも日本では、政治家が「政治屋」と揶揄される場合がある。自分の地位や職を守ることに固執して、肝心の政治を行わないことからだろう。

一方で政治家とは、確かに考えてみると同情を寄せたくなるような悲しい存在でもある。政治家とは、本来は民主主義において、民意を適切に反映するための、考える鏡としての、つまり道具としての役割を期待される。

民意を適切に反映できていないとされた議員は落選するか、あるいは世間からすっかり忘れ去られて、政治家として生きることは出来なくなる。戦力外通告を突きつけられた野球選手のその後に密着した番組が放送されたりするが、政治家もそう。民意は彼らに戦力外通告を突きつける。

マーガレット・サッチャーは志を持って政治家であろうとし続けた人らしい。しかし、彼女はその職責を離れることとなった。

政治家が無条件で終身務められるようになってしまっては、もはやそれは民主主義とは言わないから、当然である。しかしながらサッチャーが首相を辞任するあたりは、胸に刺さるものがある。サッチャーも、また、一人の人であるはずなのに。

一人の人である、と言えば、以前、このような話を聞いたことがある。人というのは晩年に際して、自らの過去を人に語ることで、自分の人生は意義あるものであったと確信したいのだと。

そう考えると、よくお年寄りが何度も同じ話を繰り返すとされるのも頷ける。人生のゴールが、少しずつ見え始めて後ろを振り返った時に、自分の選んだコースは正しかったのか不安になり、それを人に語って、きっとこれも正解だったのだと確かめたいのだろう。

サッチャーには、そんな人はいたのだろうか。

少なくともこの映画において、その役割を果たしたのは亡くなった夫デニスであったかもしれない。

亡くなった夫デニスに話しかけ、それでも夫は亡くなったのだと理解しようとし、その幻影と戦う様が反復され、かつての、例えばフォークランドをめぐってアルゼンチンと戦う際の、信念に突き動かされるような姿と対比される。

決断に逡巡することはあろうとも、それでも信念とともに突き進んで来た彼女が、殊夫と自らの関係についてはそれが出来ず、その幻影にすがることしかできない。

そうした、例えば道具として使われながらも実際には人間である悲哀だとか、そんな強い意志を持ち「鉄の女」と評された彼女が夫に関しては鉄でもなんでもなく、もう哀れという形容すら似合うようになりゆく様だとかには、少しずつ胸を突き刺すものがある。