山田詠美『賢者の愛』

 

 

賢者の愛 (中公文庫)

賢者の愛 (中公文庫)

 

 私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。*1

 さて、谷崎潤一郎の『痴人の愛』は、このように始まる。谷崎潤一郎の、所謂マゾヒズムのようなものを扱った作品として名が知られているだろう。その語り部は主人公・河合譲治であり、回顧録的にこの作品が語られる。その語られ方故であろうか、この作品はいっそう魅力的になっているようである。

反対に、山田詠美の『痴人の愛』はこのように始まる。

今年、直巳は二十三になりました。そして、真由子は、じきに四十五歳の誕生日を迎えます。*2

この語り部は誰なのか。ヒントになりそうなのは最後である。

 帰り際、時田は質問を投げかけました。

「いただいた小説で、先生は、厄介な初恋を描くに当たって、谷崎の『痴人の愛』を引き合いに出しながら賢者と比較していらっしゃいますが、小説家はどちらの要素を重要視すべきとお考えですか?」*3

時田というのは編集者で、先生というのは沢諒一のこと。この沢諒一は、真由子と百合という2人の歪んだ友情と──これを友情と呼んで良いのかは議論を呼ぶだろうが──そこにまつわる直巳との関係に、当事者として、しかしながら観察者として携わっていたような人である。この部分だけを読めば、その沢諒一が、自らが見たことの顛末について、谷崎潤一郎の『痴人の愛』を引きながら著したように見えなくはない。

しかし、作中においてまま見られる沢諒一への辛辣なコメントや、真由子の心中の描写などを考えるに、これを沢諒一の想像であろうと推測するのはあまりにお粗末すぎはしまいか。

もちろんこれで作中における「真由子」の呼称が全て「私」でありさえすれば、これは一人称の小説として納得できるし、現に真由子は小説家を──その動機は歪んだものであったにせよ──志しかけたらしいのだから、真由子が自らを客観的に描いたという可能性も否定はできない。しかし、しかしこの作品では、そうした無理なロジックで誰かを語り部に仕立て上げるよりも、もっと別の語り部を用意したくなる。

そうなると何かの権化を想像したくなるのは、八百万の神々のおわします国に生まれたが故だろうか。

であるとするならば、一体何の権化なのだろう、と考える。

<…>しかし、実のところ、彼女が少女時代から闘いを挑み続けているのは、家父長制である。幼くして家族というものに絶望し、男の身勝手な欲望に心身を踏みにじられることに激しい怒りを覚えた彼女は、誰からも支配されることがない女の砦を築こうと決意したのだろう。*4

ではこの語り部とは「家父長制」の権化だろうか。この解説に大きく異議を唱えるつもりはないが、私は、それほど絞り込まなくても良いのではないかと思う。家父長制と言えば、父がいて、その父が亭主関白でまとめあげる家を想像してしまいはしないか。

いや、本来はもう少し大きく広げるべきなのではないだろうか。つまり「理想の家族像」ないし「あるべきとされる家族像」。そうしたものの権化が、この作品に潜んでいるのではないか。

さて、そう何者かに問うたところで感心するのは、先ほどの引用文である。ここにおける「彼女」とは、真由子ではない、百合である。不思議なことに、ほとんど真由子の一人称であるように思われる作品であって、しかもそのほとんどは真由子の直巳への所謂「調教」にページが割かれているのに、なぜか魅力的なのは百合なのだ。

百合の目的とは何なのか。それが読者の頭から離れない。この百合のマインドは、何かを掴みかけるようで、でもやはり分からない。この掴めなさがある種のもどかしさとなって、多くの人びとが百合に惹きつけられるのではないか。

先ほどの解説の引用文を借りれば、百合の目的は「家父長制を打倒すること」ということになる。そうであろうか。むしろ彼女が打倒したかったのは、あるべきとされるような家族、あるいは幸せではなかったか。

転居してきた彼女の屋敷は「成金趣味」と揶揄されるほどに豪華であったが、手入れはされず、何度業者を入れようと直ちに廃れ始めるのだった。それこそ彼女はあるべきとされるような家族の形の中に包含されることが出来なかった。期せずして彼女は社会的にアウトローとされてしまった。

さて、先ほど彼女はあるべきとされるような家族や幸せを打倒したいのだ、というようなことを書いた。しかし、より正しいだろうと思われる書き方をすればそうではない。

彼女はあるべきとされるような家族や、幸せを手に入れようとして、その結果壊してしまうのではないか。

彼女はそのことに自覚的であり、自らを「蛭」と呼ぶ。そこには他人の生命エネルギーとしての血液を吸ってしか活力を得られない自らへの悲哀が込められている。

その結果、血を吸われて元気がなくなる、だけに留まらなかったのが真由子だ。父を失い、初恋の男性を失った。それは幸せの中に生きていた彼女の純粋さを汚してしまったに違いない。

百合はそのことを意識していただろうか。百合は永遠に、純粋な幸せを享受する真由子の血を吸うように、自らも幸せのお裾分けをもらうつもりだったのではないかと思われる。しかし真由子は純粋な幸せを享受し続けられていたわけではなかった。彼女は誰よりも深く傷つき、そして百合の幸せを吸い上げてやるつもりだったのだ。

一応あるべき家族像に収まったように思われた百合は、実際には何も手に入れられていなかった。それは全て、真由子から得て、そして真由子によって形作られた実体のない入れ物の空虚さに気がついてしまったのだ。

そして、どうやれば百合は真由子の幸せを得られるのかと考え、それがあの結末に辿りついた。

こうした具合に、百合は真由子について盛大に勘違いしていたのではないか。真由子はあるべきとされるような家族像の真ん中にいて、幸せだから、私一人が相乗りして、少し幸せを分けてもらっても問題ないだろうと。実際には大問題だったのだ。真由子はそれほど幸せではなかったし、真由子が選んだのは、所謂「復讐」であった。

そう考えたとき、この物語の勝者とは誰だったのかと思う。

谷崎潤一郎の『痴人の愛』であれば、勝者はナオミだったかもしれない。譲治は敗者として、ナオミに傅きながら、それでいてそれで良いような心地の中に生きていくのだった。

この物語では? やはり直巳がそれに当たるのかもしれない。彼だけは、彼だけは得たいものが得られた。真由子が得られ、その海の見えるところの安住の地も得たのだ。

さて、この物語はハッピーエンドを迎えられたのか、それともバッドエンドであったのか。それはおそらく真由子が何を言おうとしていたのか。口がかすかに「ナ・オ・ミ」と動いたらしい後に、何を続けようとしていたのかと通じるのに違いない。

そしてそれは、大いなる沈黙と百合の死の内に、永遠に封印されるのだった。

*1:谷崎潤一郎痴人の愛』(新潮文庫、1947年、2003年改版)、p.5

*2:山田詠美『賢者の愛』(中公文庫、2018年)、p.10

*3:同上、p.282

*4:柚木麻子「解説」、同上、pp.287-288